File3 儀式

 メイドとミスティの手によって、俺の頼んだものが全て部屋の中に運び込まれたのは、夜の十一時を回った頃のことだった。

「なんとか、間に合いました……いくつかの品物を用意するのに、手間取ってしまって」

「間に合ったなら問題はないですよ、ありがとうございます」

 俺はミスティに礼を言ってから、彼女の用意してくれたものを見回した。

 まずは木製の桶いっぱいに注がれた聖水。別に清潔な真水なら何でもいいのだが、ミスティが気を利かせて聖水を用意してくれた。これでほんのわずかだが、儀式の成功率が上昇する。

 次に塩。塩は古来より邪悪を退け、身を清める物質として重宝されてきた。これは儀式を安定させるために使わせてもらう。

 お次はロウソクとマジックマッチ。これは真っ先に用意してもらって、芯に術式を刻み込んでおいた。後は文言を通しつつ火をつけるだけで効果が発揮される、儀式の必須アイテムである。

 最後に油。これは極力不純物の入っていないものが望ましい。が、さすがミスティ、儀式に使う専用の非常に良質な油を用意してくれた。

「なら良かったです……ところで、このお部屋は一体」

 てきぱきと、用意してくれたものを配置する俺の横で、ミスティはやや戸惑ったように部屋の中を見回す。

 ミスティが準備を行っている間、俺はメイドに用意してもらった軽食のサンドイッチを齧りつつ、部屋の模様替えをしていたのだ。

 具体的には、ベッド以外の家具を全て部屋から出して、窓を漆で塗りつぶし、光が一切入らないようにした。そのため今行っている作業も、ミスティが持ち込んだカンテラの光を頼って行っていたりする。

「邪魔なものを取り除いただけですよ。可愛らしいぬいぐるみやドレスが、巻き込まれたりしないように」

「巻き込まれる?」

「よし。準備は出来ました、あとは午前零時を待つだけです」

 ポケットから使い込んだ懐中時計を取り出し、俺は時間を確認する。文字盤に仕込まれた簡単な魔術式によって、暗闇でも数字が光り時間が分かるのだ。

 現在時刻は、午後十一時半。後三十分ほど、時間がある。

「お手洗いなど、済ませておくなら今のうちですよ」

「い、いえ大丈夫です……」

 慌てた様子で首を横に振るミスティに、俺はマジックマッチを箱から取り出しつつ、声をかけることにした。

「別に無理して立ち会う必要もないですよ。俺のことが信用できないっていうのなら、仕方ないことですが」

「そ、そんなことないです!ただ、ただナダちゃんが元に戻った時に、すぐ傍にいてあげたくて……」

「……」

 もしかしたら、立ち会わない方が安全かもしれないが。依頼人である以上、あまりきついことは言いたくない。もし俺の言葉にミスティ機嫌を悪くして、報酬を払わないと言い出したら困ってしまう。

 ともかく、今は目の前の仕事に集中するのみ。俺は部屋全体に塩を撒きながら、時間が来るのを待った。

 暗い部屋の中、聞こえるのは二人の人間の息遣いと、懐中時計が時を刻む音のみで。

 やがて文字盤の長針が零時五分前を指した時、俺はミスティに静かに言った。

「カンテラの光を消してください」

「は、はい」

 ミスティがカンテラを消すと辺りは闇に包まれる。自分の手すら見ることのできない、完全なる暗闇。

 頭の中で秒数を数えながら、俺はミスティに告げる。

「カンテラを部屋の外に出して、扉を閉めて」

 言われた通りに、ミスティはカンテラを部屋の外に出して扉を閉めた。扉の隙間も昼間の間に、しっかりと目張りを済ませてある。

 最後にもう一度懐中時計で時間を確認し、秒数のずれを修正してから。俺は深く息を吸って、吐き出した。

 零時まで、あと十秒。

 マジックマッチをいつでも点火できるように構えておく。暗闇の中でも火をつけられるよう、ロウソクの位置は予め把握してある。

 零時まであと五秒。

「五、四、三……」

 背後でミスティが息をのむ音が聞こえた。初めて見るのであろう悪魔祓いの儀式に、緊張しているのだろう。

「二、一、零!」

 一日が切り替わる、ちょうどのタイミングで。俺はマジックマッチを擦って、術式が刻まれたロウソクに点火する。

 暗黒に支配された部屋の中に灯った小さな火は、魂の輝きのように思える。だが見惚れている暇はなく、俺は素早くマジックマッチを消火すると、文言を唱えながら火のついたロウソクを構えた。

「―――目覚めよ」

 バキンという鈍い音がして、天蓋付きのベッドが軋む。四隅から金属と木の擦れる音がして、結界に使った釘が強引に抜けていくのが分かった。

 夜は悪魔の時間だ。昼間よりも力は増幅され、より凶暴性が増す。それこそ俺の張ったその場しのぎの結界なんて、容易くぶち破ってしまうぐらいに。

「うるるるぅぅぅ、が、ガアッ」

 結界が完全に消え、ナダが暴れ始めたのが分かった。恐らく火を持つ俺に襲い掛かろうとしているのだろう。

 だがそうはさせない。俺は文言を唱えながら、ベッドの端へとロウソクを近づける。

 ベッドには先程、ありったけの油を撒いておいた。火が近づくとたちまち燃え移り、燃え広がってゆく。

「があああぁぁぁぁッ」

「きゃ、きゃああああぁぁぁぁッ」

 ナダが苦しみ悶えるのと、背後でミスティが叫んだのは、ほぼ同時のことだった。だが今は、ミスティに構っている余裕はない。

 俺は予めポケットに入れておいたナイフを取り出し、空中を一定の法則に従って切り裂きながら、文言を唱え続ける。この無骨なナイフが、俺の獲物というわけだ。

「ひ、火が、火が……」

 怯えるミスティを無視して、俺がひたすら文言を唱えていると。やがてベッドを包む炎が形を変え始めた。

 そもそもベッドだけが燃えている時点で、効果はしっかりと出ているのだ。俺は一呼吸おいてから、ナイフで「顕現」を示す神聖文字を宙に刻んだ。

「―――現れろ」

 文言に乗せて命令を下すと、炎が瞬き悍ましい黄色へと変色する。同時に大量の煙が湧きはじめ、部屋の中に充満する。

「吸うな、ミスティ!」

 鋭く叫んで、俺はナイフを持っていない方の手で口をふさぐ。これで文言は唱えられなくなったが、ここまで来たらあとは消化試合だ。

 姿を現した悪魔の煙に、俺は「分離」を示す神聖文字を刻みつける。

 直後、部屋中をこの世のものとは思えない絶叫が支配した。悪魔の煙が呻き、苦しみ、のたうち回っているのだ。

 だが一切容赦することなく、俺は追加で「分離」の文字を刻んでゆく。絶え間なく響く絶叫も、もはや慣れたものである。

 数度「分離」の文字を刻むと、ナイフに何かを切り裂く感覚があった。同時に悪魔の煙が、今までよりも一段と苦しそうな声を上げ、部屋中をぐるぐると渦巻いた。

 どうやらナダとの分離には成功したようだ。間髪入れず、俺は「退散」の文字を刻み込んでゆく。

 とはいえ悪魔の煙も無抵抗ではない。炎に守られたナダに再憑依できないと見るや、部屋の隅で口を押さえて蹲る、ミスティへと憑依すべく襲い掛かってゆく。

 もっとも。憑依対象も行動も分かり切っているのなら、対処するのは容易いことであり。悪魔の煙がミスティに憑依する直前、俺は振り向いてミスティへと「防護」の文字を刻みつけた。

 結果、ミスティに憑依しようとした悪魔の煙は、閃光と共に弾かれて呻き声をあげた。口を押えたまま、ミスティは怯えた顔で悪魔の煙を見上げる。

 ……まあ。彼女のことは別に、放っておいても大丈夫だったのだが。放っておくと若干面倒くさいことになるのも事実であるため、こうして対処しておくに限る。

 ミスティへの憑依を失敗した悪魔の煙に、追加で五発ほど「退散」の文字を刻みつけると。

 今まで部屋中に渦巻いていた悪魔の煙が、薄れて消え始めたのが分かった。

 どうやら効いてきたようだ。さらに「退散」を三発ほど刻んでから、俺はナイフを仕舞うと、口をふさいでいた手を放して、聖水の張った桶を手に取る。

 桶を両手でしっかりつかんで、軽く助走をつけて。燃えるベッドへと、中の聖水を思い切りぶちまけた。

 悪魔の煙の最期を示す、断末魔の絶叫と共に。ぶっかけた聖水によってベッドの炎は瞬く間に消火された。

 炎が消えると同時に、悪魔の煙も消滅し。部屋は再び、完全なる暗闇に包まれた。

「……ふぅ」

 儀式を終えた俺は、やっとひと息ついてから。暗闇の中のミスティがいるであろう方向に顔を向けた。

「もう大丈夫だ、ミスティ」

「は、はい……」

 弱弱しい返事を聞いた後、俺は手探りで部屋の扉まで行って開くと、部屋の外に置かれたカンテラを手に取って光を入れた。

 改めて部屋の中、置かれたベッドを照らし出すと。ロウソクに刻まれた術式のおかげで、ベッドも横たわるナダも、火傷や焦げ目のひとつもない綺麗な状態だった。

 静かに寝息を立てるナダの顔を確認してから、俺はカンテラを置くと桶を持って部屋を出る。

 桶に水を張って、ついでに布きれを持ってくると。俺はてきぱきと、儀式の後片付けを始めた。

 といっても家具を元に戻すのは骨が折れるため、窓の漆と撒いた塩を拭いておくぐらいなのだが。

 窓を綺麗にすると、月明かりが部屋の中に差し込んできた。今日はちょうど満月だったらしく、カンテラの光が邪魔に思えるぐらい明るい。

 掃除を終えると、俺はカンテラの光を消して、部屋の隅に置いておいた道具箱の中から鏡を取り出した。

 ナダに向けた鏡を、文言を唱えながら覗き込んでみるが、映り込んだ俺の顔が変化することはなかった。どうやら無事、悪魔の煙は祓えたらしい。

「ナダちゃん……」

 俺が鏡を下ろすと、いつの間にか隣にミスティが立っていた。目に涙を浮かべて、安らかに眠る友人のことを見つめている。

 鏡を道具箱に仕舞ってから、俺はベッドの傍に戻り、ミスティに軽く微笑んで見せた。

「もう大丈夫です。彼女に憑いた悪魔の煙は祓いました。目覚めた時には、元の彼女に戻っていることでしょう」

「良かった……本当に……良かった……」

 涙をこぼしながら、ミスティはナダの頬に触れて、そのまま彼女の体を抱き寄せた。

 すると眠っていたナダが微かに体を震わせ、瞼がゆっくりと上がり始める。

「う、うーん」

「ナダちゃん?ナダちゃん!」

 目を開いて、ぼんやりとミスティの顔を見上げるナダに。ミスティは泣きながら、微笑んで見せる。

「ナダちゃん……私が分かる?」

「あなたは……」

「ミスティ、ミスティ・ティレイグだよ、ナダちゃんッ、もう、ずっと心配だったんだからッ」

「ミスティ……」

 ミスティの名前を聞いたナダは、目を大きく見開くと、ベッドの上で体を起こした。

「ナ、ナダちゃんだめだよ、今やっと、取り憑いていた悪魔を祓ったばっかりなんだから。今はゆっくり休まなきゃ―――」

「あなたが……」

 ナダはミスティの顔を、真っ直ぐ見つめて。

 その表情を、狂気と憎しみに満ちたものへと変化させて。勢いよく、彼女の首へと両手を伸ばした。

「ナダちゃ―――」

「あなたがッ、あなたのッ、全てあなたのせいよッ」

 チョコレートブラウンの長い髪を振り乱しながら、ナダはミスティを床にたたきつけると、馬乗りになって首を掴んだ手に力を込める。確かな憎悪を、たっぷりと込めて。

「あなたがッ、私からユスフを奪ったのよッ、いつだってそう、あなたは私のことを見下してたッ」

 ミスティの首を絞めながら、ナダは唾を飛ばし叫び続ける。

「友達だと思ってたのはあなただけ、あなたの知らないところで、私はずっと陰口を叩かれていたのッ。あなたの知らない、知ろうとしないところでッ」

「ツッ……」

「でも公爵令嬢だからと、我慢してきた……我慢してきたけど、よりによってッ。ユスフを、婚約者を私から奪うなんてッ」

「けほっ、ち、ちが……」

「あなたが憎かった。私に無いものを全て持っているうえに、ユスフまで奪い去ったあなたがッ。だから、だから―――」

 両目から涙を流しつつ、狂気的な笑い声をあげて、ナダはミスティに告げた。

「あなたを、呪ったのよ」

 ミスティが目を見張ると同時に、俺は握りしめていた拳をナダの顔面に叩き込んだ。渾身の一撃を食らったナダは吹っ飛ばされて、背後の壁に激突すると気を失ったようだった。

「げほっ、ごほっ、ナ、ナダちゃん……」

 喉を押さえて荒い呼吸を繰り返しながらも、気絶したナダに視線を向けるミスティに対し。俺は片手を差し出しながら、静かに告げた。

「ナダに憑いた悪魔の煙は、ナダ自身が召喚したものです。本来はミスティ、あなたに憑依させるために」

 悪魔の煙は、込められた憎悪で色が変化する。

 赤なら強い怒りの感情、青なら冷ややかな軽蔑と、色で大体どんな風に恨まれているか分かるものだが。

 その中でも黄色は、愛憎入り混じった嫉妬が込められた色として有名で。大抵は恋敵を呪うために差し向けられるものであり。今回もその例に漏れず、恋人を奪った友人へ憑依させるため召喚されたのだが。

「でも、だったらどうして―――私じゃなくて、ナダちゃんが悪魔の煙に憑依されていたんですか?」

 咳き込んで呼吸を落ち着けたミスティは、裏切られたような眼差しを俺に向けながら問いかけてきた。

 俺は気を失ったナダをベッドに寝かせ直しながら、ミスティの問いに答えてやることにした。

「ミスティ、君には強力な呪詛返しの魔術がかけられています」

「え……」

 ミスティを鏡で診察した時、映ったのは呪詛返しの魔術を示す印だった。それも教会の使うものではなく、汎用的な反射魔術を改変して組み上げられた、独自要素の強い非常に強力なもの。

 こんな魔術をかけられるのは、王立術師団に所属する魔術師であるという、ナダの元婚約者のユスフしかいないだろう。

「あなたが知らないうちに、ユスフは呪詛返しの魔術をかけた……彼はあなたがナダに狙われることを、予見していたんでしょう」

「そんな……」

 信じられないというように俺を見つめるミスティの前で、俺は閉じた道具箱を持ち上げた。道具箱のずっしりとした重みは、いつだって心を落ち着かせてくれる。

「ナダに取り憑いた悪魔が強力な存在だというのも、恐らくユスフの嘘でしょう。彼はナダに憑いた悪魔が、ナダ自身が放ったものだと知っていたはずですから。もしかしたら、あのまま彼女が自滅することを望んでいたのかもしれません」

「そんなこと……ユスフが、ナダちゃんが……」

 戸惑い頭を抱えるミスティの前で、帰り支度を終えた俺は部屋の出口へ向かう。

 ナダに憑依した悪魔を祓うという依頼は果たしたのだ、小切手は既に貰っていることだし、後は速やかに撤退するのみ。

 ミスティがナダやユスフとこれからどう向き合うかは、彼女自身の問題である。

 というか成り行きとはいえ、子爵令嬢を殴ってしまったのだ。大事になる前に、逃げるが吉である。こちとら叩けば埃が出る身なのだ、子爵と言えど権力を盾に詰め寄られたら、あっさりお縄になってしまう。

「ま、待ってください!」

 だが俺が部屋から出ようとしたとき、背後からミスティが呼び止めてきた。

 俺が無言で振り向くと、ミスティは両手で自分の腕を抱きながら、微かに濡れた瞳で俺のことを見つめてきた。

 窓から差し込む月明かりの照らす、彼女の横顔はとても美しく。この世のものとは思えないほどで、俺はつい息をのんでしまう。

 しかしミスティの口から出てきた言葉によって、月光の魔力は瞬く間に消え失せた。

「一つだけ、教えてください。どうしてユスフは、私に呪詛返しの魔術をかけたんですか?」

 ナダの言っていたことを聞いていなかったのだろうか。いくら首を絞められて余裕が無かったとはいえ、彼女の叫びを少しでも聞いて理解したならば、ユスフが行った行動の理由もはっきり分かるはずなのだが。

 それとも、最初から彼女は何も気づいていなかったか。だとしたら、ナダに憎まれても仕方がないと言える。

「ミスティ………これは俺の推測ですが、ユスフがナダを捨てたのは、あなたに惚れたからだと思います」

「え……でもユスフは、ナダちゃんのことを愛していて―――」

「それはあなたの思い込みでしょう。あるいは実際そうだとしても、あなたという存在の介入によって、ユスフの愛は変わってしまった」

 ナダ自身の言っていた通り、ミスティはナダに無いものを全て持っていると言える。地位も、容姿も、何もかも。ただ一つ、「他人の気持ちに対する理解」というものを除いて。

「そんなこと……ユスフが、私を」

 戸惑い俯くミスティに、俺は冷ややかな視線を投げかける。

「あなたはとてもいい人です。今回の依頼で一緒に行動した短い間だけでも、はっきりと感じました。でもだからこそ、あなたはもう少し他人の気持ちというものを考えるべきだった」

「でも……でもっ」

 勢いよくミスティは顔を上げると、全てを否定するような眼差しを、俺とナダに交互に向ける。

「私は別にユスフのことを誘惑してなんかいないのに……ただナダちゃんと三人で、何度かお茶をして、遊びに行っただけなのに……」

 ああ。自分の魅力にどこまでも無自覚な彼女が、ナダの抱く劣等感や嫉妬、ユスフの思う打算と心変わりを、理解することはないのだろう。

 ナダのことを哀れに思いながら、俺は改めてミスティに背を向ける。

「ともかく。これで依頼は果たしましたので、お疲れ様でした」

「はい、ありがとうございました……」

 上の空と言った様子で、ミスティが礼を言うのが聞こえた。

 ナダの部屋を出て、階段を下りて一階に行き、玄関ホールを横切って扉へと向かう。あの痩せたメイドはすでに就寝しているのか、姿はどこにもなかった。

 屋敷の外に出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。空を見上げると月が輝いていたが、すぐに暗い雲に覆い隠される。

 ナダとミスティを診察した時点で、今回の一件に隠された事情は大体見抜いていたが。

 ミスティの態度から、彼女が何も理解しようとせず、ただ盲目的にナダを救おうとしていることが感じられたため。警告はしたものの詳しい説明をすることはしなかったのだ。

 依頼を断られるのを恐れたため、というのもあるが。ナダの本心に触れる前のミスティに、説明したところで笑い飛ばされるのがオチだっただろう。実際にミスティは俺の警告を、冗談だと思っていたようであるし。

 ミスティは決して悪い人間ではない。だからこそ今回の一件が、彼女にとっていい薬となってくれることを願うのだが。

「あの様子じゃ、どうだか……」

 黄色い薔薇の咲き誇る庭園を抜けて、敷地から出ると。俺は辻馬車の停留所を目指して歩き出しながら、ポケットから煙草の入ったケースを取り出した。

 基本的に吸わないようにしているが、依頼を達成した時にだけ、一本吸っていいことにしている。

 一本抜き取って咥え、マジックマッチで火をつけて。旨い煙を肺一杯に吸い込みながら、俺は再び空を見上げた。

 いつの間にか雲が流れ、青白く輝く満月が、再び顔を出していた。

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