#009 京都
京都に着いたのは午前十時だった。
仕事を終えて、京都駅近くのネットカフェのシャワールームで夏着物に着替え、友人宅に着いたのは午後八時だ。友人はわたしを出迎え「汗臭い」とからかう。彼からは香水のラストノートであるバニラの香りがした。形だけ嫌がる彼とハグしてから、彼の娘に挨拶をする。すると彼女からハグを求められたので親愛のハグを交わし、彼に耳をつねられた。そんな平穏な再会の後、平穏な
七輪でしいたけを焼きながら、
「ドクター、今更だけどあの夏は楽しかった。だから、また来てくれて嬉しい」
酔った彼が漏らした本音は実に今更だった。それはそうだろう、もっともだ、とわたしは声を上げて笑ってしまった。
翌朝、彼の娘に起こされてモーニングのために喫茶店に向かった。彼は二日酔いでついてこなかったので、彼女から彼の話をあれこれ聞いた。彼女はあれこれと彼の不満をこぼし、けれど決してわたしに同意を求めなかった。彼らはうまく親子をやっているらしい。サラダにかけられたドレッシングが美味しかったので、土産に買った。
蝉時雨の帰り道、彼女が聞きたがったので、今となっては昔の話をした。彼女は「お父さんを褒められると、自分のことのように嬉しい」と心から嬉しそうに笑った。彼が家族を見つけたことが嬉しくて、その礼も兼ねて彼女に
数日、予定通り彼の家に滞在することにした。
彼女のホームワークを添削し、彼と自家製コーラをつくり、彼の見立てで夏着物を仕立て、彼女を連れて
その後、話の流れで彼が気になるというのでマイアミで買った香水を渡す。彼は薄い和紙に匂いをつけると「ああ、いい匂いだな」と微笑んだ。その香りに久しぶりに触れたわたしは海が見たくなったので、翌日、
勝負と称して釣りをしたところ、彼の圧勝であった。できないことはないのかと聞けば「ドクターができることはできないさ」と笑う。涼しい潮風に秋がくる予感がした。夕焼けの海をいつまでも見ていたかったが、背後で「だれが捌くのよ、こんなに釣って」「なんのために外科医を連れてきたと思っている。このためだ」と親子が無責任な会話をし始めたので、反論のために帰ることにした。彼女は帰ってからも、髪がきしむというので櫛で
そんな風にいつまでも遊んでいたかったけれど、帰りの時間はやってくる。空港まで送りに来てくれた二人に、いつかこちらに来てほしいと頼むと、彼女がニッコリ笑って頷いたので、彼も渋々頷いてくれた。それでも別れがたかった。けれど彼らが「あんたが好きそうな香水をトランクに入れといた」「選んだのはわたしです」というので、帰ることにした。それが夏休みのおわりだった。
空港でトランクケースを受け取り、早速開けてみると荷物の上に箱が入っていた。トラベルサイズの香水は友人からの気軽な贈り物としてちょうどよかった。手首につけてみると、時差ボケで早朝に起きてしまったときのことをはっきりと思い出した。
慣れぬ異国の街、どこまでも静かで、世界中で自分一人しか目覚めていないかのような
空港には研修を終えた秘書が迎えに来てくれていた。
いつもありがとうと労ると、一回り成長したらしい秘書は「知ってますよ」と笑った。秘書はもちろんわたしの香水に気が付き、しかし「ドクターらしい香りですね」と評した。それはまったく予想外の言葉で、わたしはすこし恥ずかしくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます