#007 東京



 東京に着いたのは午後六時だった。医学生相手の講演があるのだが、どこでも頼りになる秘書はスキルアップのため研修を受けているタイミングだった。秘書には「代わりをつけてください」と何度もさとされたが、他の秘書をつけてしまうとどうしてもきみと同じくらい仕事ができると期待してしまい、結果的に業務に支障が出てしまうから一人のほうがいいと断わった。秘書は嬉しいのだか困っているのだか怒っているのだかよくわからない表情で「そんなことをいわれたら研修に行きにくいですよ」といった。わたしはなかなか良い上司にはなれないようだ。しかしとにかく今回の旅、わたしは一人で、つまり自由である。

 やれ幸いと隙間すきまに遊びの予定を詰めていたら秘書に見つかり、余計なことをしないようにと仕事を増やされた上に、使い道のわからない『魔法の言葉』を伝授された。とはいえ、郷に入っては郷に従えという先人の教えもあるし、行き先は秘書の母国である日本だ。記憶に留めておくことにした。

 都心にとったホテルのフロントは整えられた匂いがした。ボーイに尋ねると、フロントは『竹取物語』をイメージした匂いなのだと教えてくれた。蝉時雨せみしぐれを抜けて竹林に入ったときを思わせる涼やかな匂いだ。部屋はさらに別の匂いになっているらしく、こだわりだねと称賛しょうさんすると「部屋は季節に合わせ『凍える雪』の香りです」と教えてくれた。今は真夏なのにと聞くと「だから必要なのです」とボーイは人形のような笑顔で答えてくれた。それほど今年の日本の夏は厳しいのだろう。

 部屋で荷物を広げてから、深呼吸をする。フロント同様に癖の少ない香りだ。ハーブと柑橘かんきつ系の匂いがする。おそらくは柚子ゆずだろう、さわやかな香りだった。しばらくそれを満喫まんきつしてから、時差ボケの眠気を無視して仕事に向かった。

 医学生相手の講演は長引く。彼らは質疑応答で感想を長く話そうとするためだ。いつもは秘書がうまくいなしてくれるのだが、今日は一人。予定時間をオーバーしても終わりそうになかったので、ものは試しと『魔法の言葉』を発してみた。すると会場はシンと静かになり、数秒後にワッと笑われた。理由はわからなかったが、そのおかげで切り上げられた。ホテルに戻ると、既に日が落ちていたので、いさぎよく寝てしまった。

 その結果、翌朝は四時に目が覚めた。昼間に散歩するよりは涼しいだろうとホテルを抜け出す。皇居こうきょ沿いの通りをのんびりと歩いていると、同じように散歩をしている人たちが多くいた。どの国でも高額納税者、特に高齢者は早朝に徘徊はいかいするものなのだ。皇居の堀の中のかもを眺めてから、あてもなく歩き出した。

都会は狭い通りが多い。わたしはそういった通りを歩くのが好きだ。狭い通りの奥にある小さなほこらに怯えたり、子どもの秘密基地を見つけて懐かしんだり、楽しみ方は無数にある。だからわたしが早朝徘徊をくり返す高齢者になったとき、家族は見つけられないだろう。そんな失礼なことを考えていたら日本橋にほんばしに着いていた。日本橋の麒麟きりんを見上げ、橋の真上にかかった高速道路を写真に収める。日本は戦後急速に発展した名残りを多く残している独特の国だ。写真を確認してから、近くの喫茶店でモーニングを頂くことにした。

店に入るとスタッフにアメリカ英語で「英語は話せません」と申告された。日本人はこういう冗談なのか本気なのかわからないことをいう。秘書も最初の頃はすこし抜けていて、ナスは苦手なんだよと話したら、とても難しい顔で「ナスとは、医学用語ですか?」と聞いてきたことがあった。懐かしく思い返しつつ、メニューを指差して注文すると、スタッフは安心したようにニッコリ笑ったが、すぐに「アッ」と声を上げた。咄嗟に「コーヒーは食後で」と答えると、スタッフは心底安心した顔で帰っていった。なぜリスニングはできるのに話せないのか。もしやわたしと話したくないのかとすこし不安になったが、どうにもならないことなのであきらめ、置かれていた雑誌を広げる。もちろん読めない。日焼けした雑誌からは乾いたホコリの匂いと、湿ってから乾いた紙特有の匂いがした。白黒の紙をめくり、たまにある四コマ漫画の内容を想像する。

「お待たせいたしました。モーニングセットです。お好みでジャムをお使いください」

 ハッと顔をあげると、先程のスタッフが真っ赤な顔で食事を持ってきてくれた。なんてきれいな英語なんだ。わたしが礼を述べるとスタッフは照れた顔で微笑んだ。こういうことをされるから日本が大好きなのである。スタッフはその後「お困りごとはないですか?」と聞きに来てくれたので、この辺りのお薦めを尋ねた。スタッフは観光地図を持ってきて、百貨店で夏着物の着付けサービスをしていることや、瀬戸物市せとものいちをしていることを教えてくれた。カンニングペーパーを見ながら話すところもありがたかった。わたしが、表面はパリパリで中はしっとりとした食パンが美味しかったこと、きたてのコーヒーの香りが優雅ゆうがであったこと、サラダに使われていたソースが後を引く美味しさだったことを伝えると、スタッフは「ようこそ、日本へ」とニコニコと笑った。

 朝の日本橋を歩きながら、夏着物を買うことを検討する。昔、友人は「見た目ほど涼しくないぞ。おれはこんなものを着てでも年下に見られるのが嫌なだけだ」と顔をしかめていた。それでも、この街にはアロハシャツよりは着物がそぐうだろう。旅の恥はかき捨てという先人の教えもあるのだし、とオープンしたばかりの百貨店で夏着物を買い、着つけてもらった。スタッフはお似合いですと褒めてくれたが、鏡に映る自分はどう見ても着物に着られている。すこし恥ずかしくはあったが、そのまま街を歩いた。店が次々開き、出汁だしの香りや抹茶まっちゃの香り、それから夏の匂いが広がっていく。街が目を覚ます匂いだ。サングラスをかけて、久しぶりの下駄でゆっくりと街を歩いた。

いくつかの店でいくつかの民芸品を買って、そろそろホテルに戻ろうかと考えていたとき、突然、滝のような雨が降ってきた。近くの店の軒下に逃げ込んでも、バシャバシャと足元で水が跳ねて、足首を濡らす。蝉の鳴き声も途絶えず、空さえ青いままなのに、滝が落ちてきている。どうしたものかとサングラスをおびにかけ、軒先から空を見上げても目が焼けるだけだ。

「あなた、律儀りちぎにそんなところにほうけていないで」

 透明な氷同士がぶつかって鳴るようなりんとした声だった。振り返ると、鮮やかな桃色のドレスをまとい、服と同じ色の髪をした妙齢みょうれいの女性が立っていた。薔薇ばらの花束のような匂いがする彼女は、わたしのスーツの袖をつまむと「こっちにおいでな」と、わたしを店の中に引き込んだ。

すぐに店のオーナーらしき男性がわたしにタオルを投げてきた。商品を濡らしてはまずかろうと着物についた雨を拭いていると、薔薇の彼女が店の奥から「コーヒーでいいかね」と声をかけてきた。断ろうとしたが、それより前にオーナーが「我が物顔で居座るねぇ、女王様」と彼女をからかい、彼女は「そうよ、平民は大人しく従いな」と笑う。仲は良さそうだ。

そんな二人に案内され、店の奥に入り、小さな食卓を囲んで座る。挽きたての豆の香りがするというと、彼らは嬉しそうにコーヒー豆へのこだわりを話してくれる。この店のことを尋ねると「切れ物を売る店だね。はさみでも買うかね、ドクター」と彼女は笑う。なぜドクターとわかるのかと聞けば、彼は「手を見りゃわかるさ」と笑った。

「こんな雨が降ってるときはどこにも行けないのだから、ソワソワしないでコーヒーを楽しみな。なにも取って食ったりはしねえさ」

 それはきっとその通りなのだろう。小ぶりの鋏を一つ買い、コーヒーを飲み、雨が上がるのを待った。店の中は、並べられた刃物のはりつめた輝きにピタリと合う、幽玄ゆうげんな香りがした。薔薇や、挽かれたばかりのコーヒーが混ざると、その香りは深みを増して、夢の中を歩いているかのような気持ちにさえなった。店主は嬉しそうに「すこし良い木を焚いているんだよ」と教えてくれた。きっと、すこしではなく、とても良い木なのだろう。彼らに日本観光をするならどこがいいかを尋ね、いくつかの候補をもらう。どこも楽しそうだ。雨が上がってからもすこし話を続け、昼過ぎに店を後にした。

ホテルに帰るとスタッフがクリーニングを提案してくれたので、着物を預けた。後で、あの匂いが消えてしまうのはもったいないように感じたが、それを含めて旅先の匂いだ。わたしは部屋の凍える雪の匂いを吸い込み、これから始まる休暇への期待を胸に、眠りについた。 

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