#007 東京
東京に着いたのは午後六時だった。医学生相手の講演があるのだが、どこでも頼りになる秘書はスキルアップのため研修を受けているタイミングだった。秘書には「代わりをつけてください」と何度も
やれ幸いと
都心にとったホテルのフロントは整えられた匂いがした。ボーイに尋ねると、フロントは『竹取物語』をイメージした匂いなのだと教えてくれた。
部屋で荷物を広げてから、深呼吸をする。フロント同様に癖の少ない香りだ。ハーブと
医学生相手の講演は長引く。彼らは質疑応答で感想を長く話そうとするためだ。いつもは秘書がうまくいなしてくれるのだが、今日は一人。予定時間をオーバーしても終わりそうになかったので、ものは試しと『魔法の言葉』を発してみた。すると会場はシンと静かになり、数秒後にワッと笑われた。理由はわからなかったが、そのおかげで切り上げられた。ホテルに戻ると、既に日が落ちていたので、
その結果、翌朝は四時に目が覚めた。昼間に散歩するよりは涼しいだろうとホテルを抜け出す。
都会は狭い通りが多い。わたしはそういった通りを歩くのが好きだ。狭い通りの奥にある小さな
店に入るとスタッフにアメリカ英語で「英語は話せません」と申告された。日本人はこういう冗談なのか本気なのかわからないことをいう。秘書も最初の頃はすこし抜けていて、ナスは苦手なんだよと話したら、とても難しい顔で「ナスとは、医学用語ですか?」と聞いてきたことがあった。懐かしく思い返しつつ、メニューを指差して注文すると、スタッフは安心したようにニッコリ笑ったが、すぐに「アッ」と声を上げた。咄嗟に「コーヒーは食後で」と答えると、スタッフは心底安心した顔で帰っていった。なぜリスニングはできるのに話せないのか。もしやわたしと話したくないのかとすこし不安になったが、どうにもならないことなので
「お待たせいたしました。モーニングセットです。お好みでジャムをお使いください」
ハッと顔をあげると、先程のスタッフが真っ赤な顔で食事を持ってきてくれた。なんてきれいな英語なんだ。わたしが礼を述べるとスタッフは照れた顔で微笑んだ。こういうことをされるから日本が大好きなのである。スタッフはその後「お困りごとはないですか?」と聞きに来てくれたので、この辺りのお薦めを尋ねた。スタッフは観光地図を持ってきて、百貨店で夏着物の着付けサービスをしていることや、
朝の日本橋を歩きながら、夏着物を買うことを検討する。昔、友人は「見た目ほど涼しくないぞ。おれはこんなものを着てでも年下に見られるのが嫌なだけだ」と顔をしかめていた。それでも、この街にはアロハシャツよりは着物がそぐうだろう。旅の恥はかき捨てという先人の教えもあるのだし、とオープンしたばかりの百貨店で夏着物を買い、着つけてもらった。スタッフはお似合いですと褒めてくれたが、鏡に映る自分はどう見ても着物に着られている。すこし恥ずかしくはあったが、そのまま街を歩いた。店が次々開き、
いくつかの店でいくつかの民芸品を買って、そろそろホテルに戻ろうかと考えていたとき、突然、滝のような雨が降ってきた。近くの店の軒下に逃げ込んでも、バシャバシャと足元で水が跳ねて、足首を濡らす。蝉の鳴き声も途絶えず、空さえ青いままなのに、滝が落ちてきている。どうしたものかとサングラスを
「あなた、
透明な氷同士がぶつかって鳴るような
すぐに店のオーナーらしき男性がわたしにタオルを投げてきた。商品を濡らしてはまずかろうと着物についた雨を拭いていると、薔薇の彼女が店の奥から「コーヒーでいいかね」と声をかけてきた。断ろうとしたが、それより前にオーナーが「我が物顔で居座るねぇ、女王様」と彼女をからかい、彼女は「そうよ、平民は大人しく従いな」と笑う。仲は良さそうだ。
そんな二人に案内され、店の奥に入り、小さな食卓を囲んで座る。挽きたての豆の香りがするというと、彼らは嬉しそうにコーヒー豆へのこだわりを話してくれる。この店のことを尋ねると「切れ物を売る店だね。
「こんな雨が降ってるときはどこにも行けないのだから、ソワソワしないでコーヒーを楽しみな。なにも取って食ったりはしねえさ」
それはきっとその通りなのだろう。小ぶりの鋏を一つ買い、コーヒーを飲み、雨が上がるのを待った。店の中は、並べられた刃物のはりつめた輝きにピタリと合う、
ホテルに帰るとスタッフがクリーニングを提案してくれたので、着物を預けた。後で、あの匂いが消えてしまうのはもったいないように感じたが、それを含めて旅先の匂いだ。わたしは部屋の凍える雪の匂いを吸い込み、これから始まる休暇への期待を胸に、眠りについた。
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