#002 ロンドン
ロンドンに着いたのは早朝五時だった。空港からホテルに向かうタクシーの中、「学会まで時間がありますから、休んで時差ボケを治してください」と秘書は優しい口調でのたまう。普段はただ有能な秘書が時折見せるこの不躾な言動は、業務に慣れてきた
ホテルに着き、部屋の暖房をつけてからコートとジャケットを脱ぐ。コートもジャケットも湿り、重たくなっていた。ロンドンはどこにいても
三時間休んでからラウンジに降り、コーヒーを頼もうとするわたしにウエイトレスは「ミルク?」と尋ねてきた。郷に入っては郷に従えという先人の教えに従い、ストレートティーを頼み、湿った新聞紙を広げる。電子では味わえない紙の香りが、晴れることのない
学会は予定よりすこし長引いて終わり、そうして集まった
このパンデミックにより、わたしを含め
ホテルに戻る頃には日付が変わっていた。冷えた体をシャワーで温め、部屋着に着替え、窓から外を眺める。ロンドンは、景色そのものがアートだ。備え付けの冷蔵庫に入っていたウイスキーを一口だけ飲んでから
翌朝、ラウンジでストレートティーを飲みながら帰りの便の時間を確認し、ふと思い立ってロンドン在住の友人に連絡を取った。いつもは返信が全くない
朝のヴィクトリア駅は通勤通学の人々と観光客が入り交じり、とても賑わっていた。建物とウールが湿った匂いの隙間を、紅茶、スコーン、クロテッドクリーム、ジャムの香りが柔らかに広がる。革靴やヒールの足音、電車のアナウンス、どこかで子どもが泣いていて、どこかで青年が笑っている。この雑多な匂いと音を
「背中に
背後から声をかけてきた友人はとても楽しそうであった。振り返ると、こちらが腕を広げる前に彼は抱き着いてきた。
革のジャケットを着た彼からはジャスミンといくつかのハーブ、鼻に残るスパイシーな苦みのある匂いがする。この物憂げなロンドンを愛し、この都会が似合う彼にぴったりの香りだった。彼はわたしのウールのコートを引っ張ると「相変わらず学生のような格好をしているな、ドクター」と微笑む。声も言葉もとげがあるのに、表情には一切のとげがないところが、相変わらず彼の
彼に近況を尋ねると、彼は返事の代わりに、わたしが午後の便で帰ることとそれをこの時間に告げることの無責任さを問うてきた。それはまったくもっともなことであったので大人しく彼の説教を聞いた。しかし彼は説教の最後に「おれの子どもにはお前さんのような愛の示し方が下手なやつにはなってもらいたくないぜ」といった。わたしは彼の言葉を
そんなことをしていたらあっという間に列車に乗る時間が来てしまった。いっそストで止まってしまえと
「また、来世で」
そんなことはないといつものように思えたことに心から
空港で秘書と再会すると、秘書がまたもわたしの肩に鼻を寄せた。友人の香水だよ、と
「ロンドンに染まりすぎた……
秘書はわたしの顔をじっと見た。『今更なにを仰るのか』と表情で告げているのは分かったので、一歳児への贈り物を考え直しながら、
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