空港にて

木村

#001 マイアミ



 マイアミに着いたのは深夜一時過ぎだった。予約していたホテルに遅くなったことをびチェックインを済ませ、荷物を運んでくれたボーイに時差ボケでまだ眠くもないことを告げると、近くのクラブをすすめられた。マイアミは眠らない街だ。クラブなど行ったことはないけれどごうっては郷に従えという先人せんじんの教えもあるし、そうしようかなと答えると、ボーイは「スーツはお薦めしませんよ」と微笑ほほえんだ。たしかにこの場所でスーツは無粋ぶすいだったね、とボーイにチップを渡した。

 部屋で薄いシャツと短パンに着替えて、ホテルを抜け出す。

 この時間でも気温は二十五度を超えているが、湿度が低く、潮風しおかぜが心地よい。ライトアップされたショッピングモールは昔に観た映画のようで、なんとはなしに治安が悪そうだと失礼なことを考えながら歩いていると、パブのテラス席で飲んでいた酔っ払いに「一緒いっしょに飲まないか」と声をかけられた。断ると、「なら一緒におどろうか」と酔っぱらいはゲラゲラと笑い、ユラユラと踊る。それもまた映画のようですこしおかしかったが、やはり怖かったので早足で逃げた。

 ボーイに薦められたホテル近くのナイトクラブはとても賑わっていた。ギラギラと夜闇やあんを切り裂くネオン、ドロドロに混ざりあった人種の坩堝るつぼ。音楽を楽しむのか、震動を楽しむのか、酒を楽しむのか、初心者の自分にはなにもわからず、バーカウンターでウイスキーを頼む。地面から突き上げてくる低音にグラグラと揺さぶられながら、ウイスキー片手にフロアを眺めていると、トン、と背中をつつかれた。

「踊らないの?」

 振り返ると、一人の青年がカウンターにひじをついていた。今さっきまで踊っていたのだろう、肌は汗ばみ息はすこしあがっている。けれどその目は素面しらふで、ただただ楽しんでいる少年のものだ。彼は踊らないことなんて考えられないという傲慢ごうまんさで「こんなところで、踊りもしないで、一人でスコッチを飲むなよ」とわたしを笑うと、わたしの手首をつかんでフロアに連れ出した。踊れないよ、わからないんだ、と彼の耳に叫ぶと、揺れていればいいんだよ、楽しければ、と彼は大声で叫び返してきた。

 スモークのかれたフロア、色とりどりに照らされた人々、足から頭まで突き抜ける音楽、体内をめぐるアルコール。ユラユラと、グラグラと、肌は汗ばみ、湿った空気に馴染なじんでいく。大きな化け物の胃袋の中で、溶け合いながら踊っているかのようだ。

 彼が慣れた手付きで腰を抱いてくるので、やめなさいと手の甲をつねる。彼はゲラゲラ笑う。彼からは甘苦いタバコの香りと使い古された革製品のような香りがした。少年のように笑う彼には背伸びをした匂いだが、この場所にはよく合っていた。フロアでクラクラになるまで踊ってから、バーカウンターに戻り、一杯奢おごるよというと、彼はニコニコ笑った。聞けば、彼は地元民で、たまにクラブで踊って観光客に奢ってもらうことが趣味しゅみだそうだ。なんて愛らしい青年だろうと、思わず笑ってしまった。

 その後彼は聞いてもいないのにお薦めのレストランだとか、夕焼けがきれいに見えるスポットだとか、最近のレジャーを耳元で叫んでくるから、結局三杯奢ることになった。香水をたずねると大声でブランドを教えてくれたから、それだけ覚えてクラブを後にした。

 ホテルに戻り、シャワーを浴びる。自分から香る匂いがいつもと違う。それで、いつもと違う場所にいる実感がわいてきて、すこし楽しくなった。

 翌日、ショッピングモールで彼の香水を購入した。トラベルサイズのそれは、旅の思い出に丁度いい値段と重さだった。その後は観光客らしくビーチを散策し、海の匂いをまとい、ビールとげた魚を食べて、油の匂いをまとった。ホテルに戻ると昨日のボーイに「今日は踊らないのですか」と声をかけられ、あれはもういいよと答え、夕食の予約をとった。ドレスコードを尋ねると、ボーイは「ここはマイアミですよ」と笑った。

 数日の滞在たいざいを終えて、空港くうこうに向かう。

 最後の日だからと彼の香水をまとうと、甘苦いその香りは彼よりわたしに似合っているように思った。すこしはこの街に馴染なじんだろうか、そうであればいいと思いながら、また来たい街だな、とタクシーの運転手に話しかけると、彼は「次はスーツはやめなよ」とクスクスと笑った。わたしはすこし恥ずかしくなった。

 空港で土産を買い、搭乗とうじょうを待ちながら、この滞在を思い返す。焼けた肌からはマイアミの香りがする。けれど着慣れたスーツからは自分の香りもした。そして空港には、ありとあらゆる場所の匂いがする。目を閉じて、しばらく海と都会と思い出の香りを楽しんだ後、わたしはこの土地を後にした。


「ドクター、おかえりなさい。休暇は楽しまれましたか?」

 空港に着くと、秘書が待機してくれていた。

 迎えはいらなかったのにと告げると、秘書は「マイアミから帰ってこられなかったら困りますから」と笑った。それはそうだろう、もっともだ、とわたしも笑った。

 秘書に荷物を預けると、不意に秘書がわたしの肩に鼻を寄せた。秘書にしては珍しい不躾ぶしつけな動作に驚くと、「香水ですか、珍しい」と秘書も驚いた様子だった。

「……ドクターにしては、なんというか……」

 旅の思い出だよ、と答えると、秘書は「あぁ……楽しまれたようで……」と勘違かんちがいした様子の相槌あいづちを打つ。否定するのも面倒めんどうだったから、あいまいに微笑んでおいた。

 秘書にこれからの予定を聞きながら空港を歩いていると、ふと自分から香るものがひどく異質に思えた。たしかにつけたときはあんなに馴染んでいたのに、今は借りてきた匂いのようだ。タバコのような、革製品のような、しかしどこか甘やかで、汗ばんだ肌を思い出すこの香り。

「わたしには似合わないかな、……甘すぎるね、この香りは……」

 秘書の言葉をさえぎって尋ねてみると、「……すこし、その、生々しいですかね……」と秘書はあいまいに微笑んだ。その答えはよくわからなかったが、その顔が答えだった。

 この旅の思い出は自分でまとうのではなく、たまにぐだけにしよう。もしくはまたあの場所に降り立つときの旅のともに、……また次の旅の予定を立てなくちゃならなくなった。秘書はわたしの顔を見て、「まずはお仕事ですよ、ドクター」と笑った。

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