夜更かし
遠越町子
夜更かし
芽依はホットコーヒーを頼んだことを後悔していた。このカフェに入ってからゆうに三十分は過ぎている。コーヒーはカップを半分ほど満たしたまま冷め切っていた。
「夜更かしがしたい」
芽依はカップの縁をなぞりながら独りごちる。蓮はそれを拾い上げた。
「夜更かし?」
この男は、芽依のつぶやきを聞き逃さずこうして会話へと繋げてくれる。そうして会話が弾んでいくのは芽依にとって楽しいことでもあったが、コーヒーを台無しにしてしまった原因でもあった。
蓮とは大学で同じゼミに所属している。今日はゼミでの飲み会だった。芽依は参加こそしていたが、あまり乗り気ではなかった。飲み会が教授の自慢大会に変わったところで芽依がこっそり抜けだすと、店の外にはちょうど抜け出すタイミングが被ったらしい蓮が立っていた。そのまま流れでカフェに入ったが、芽依はコーヒーを飲み終わったらすぐに帰る気でいた。正直、この男とこんなに楽しく話が続くとは思っていなかったのだ。
「うん、夜更かし。夜更かしがしたいんだよ、私は」
「あれ、でもこないだ先月分の補助金申請してなかったっけ。俺、大学で書類記入手伝ったよな」
「活動時間拡大推進法のことではなく!」
勢いよく返事をした後、芽依はその節はありがとう、とお礼を付け足した。その様子をみて蓮は小さく吹き出す。
「正式名称でいうやつ初めて見た」
活動時間拡大推進法。通称、秋の夜長法と呼ばれている。この法は数年前に施行された。仕事に、趣味に、家庭に、付き合いに、年々忙しくなっている現代人のために、活動時間を国ぐるみで増やそう、という趣旨のものである。
「何が秋の夜長法だよ。季節関係ないじゃんあれ」
秋の夜長、という通称が示すとおり、この政策によって開拓された時間の大半は夜であった。言い換えるなら、睡眠時間。補助金によって、一人一台の睡眠用酸素カプセルを持つことが推奨された。各事業者には、営業時間の延長によっても補助金が支給されるらしい。
反対の声も上がる中、それでも忙しい現代人にこの計画は受け入れられていった。現在では、酸素カプセルの普及率は七割を超え、日付を超えても街のどこでも光を見ることができた。先月には、国民の平均睡眠時間は四時間を切った、というニュースが流れている。
「よく思ってない派なの?」
蓮は意外に思いながら芽依の顔を覗き込む。蓮の記憶のなかでの芽依は、アクティブなイメージだ。活動時間が増えることに苦言を呈するような姿は想像できない。
「や、別に特別反対したいわけじゃないけど」
急に顔を覗き込まれたので、芽依はドキリとした。こいつはたまにパーソナルスペースが狭くなる癖がある。なんで、私がちょっと照れなきゃならんのだ、あ、まつげ結構長いんだ。じゃなくて、ちがうちがう。芽依は雑念をぬるいコーヒーで飲み込んだ。
「てか、お前こそ寝るの好きだったんでしょ。やじゃないの?」
秋の夜長法が施行される前、大学一年生の春。始めて蓮とあったとき、自己紹介で蓮が寝ることが好き、と言っていたのを芽依は覚えていた。そのときは数年後同じゼミに入ることになるとは、思いもしていなかった。
「まあ、俺はねえ。実は恩恵受けた派なので」
「ええ? なんで?」
芽依の大げさな反応が嬉しかったのか、蓮は嬉々として話し始める。
「前は俺、寝つきが死ぬほど悪くて、眠りがめっちゃ浅かったのよ。だから、長時間寝ないと寝た気がしなくてさ」
話の合間に蓮はカップを傾ける。蓮も芽依と同じようにぬるいコーヒーを、ちびちびと飲んでいるらしい。
「でも、酸素カプセルで寝るようになってからは、もう嘘みたいにぐっすり眠れて。だから、前より確かに睡眠時間は短くなったけど、正直今の方がきちんとした睡眠とれてるかなって感じ」
「ふうん、なるほどねえ」
蓮にとっては、意外と秋の夜長法は性に合ったものだったようだ。不満を言う仲間がいなくなったようで、芽依は少しつまらなくなる。
「それじゃあ、私の気持ちは君にはわからんのだね。まったく悲しいよ」
芽依はおどけてそう言った。それを見て蓮は、くくくっと静かに笑う。蓮はどうやら笑い上戸なようで、些細なことにもすぐ笑う。おかげで芽依は、いつもよりよくふざけてしまっていた。
「それって夜更かししたいってやつ? むしろ今の方が夜更かしできてるんじゃないの?」
まだ半分にやけたままの顔で、蓮は芽依に質問を投げた。
「いや、ちがうんだよ。私がしたい夜更かしってやつはさ、なんていうかこう」
適切な言葉が見つからない。芽依は自分の語彙力に少しあきれてしまう。
「……例えば」
「うん」
ぐるりとカフェの中を見渡す。午後十時を過ぎた店内には、まだ多くの客が思い思いの時間を過ごしていた。芽依と蓮のように飲み会の帰りらしき人や、参考書を広げて勉強をする人、パソコンで仕事をこなす人など様々な客がいる。法施行前とはガラリと変わって、この時間でもまるで昼間のようだ。
「ここもそうだけど、最近二十四時間営業の店増えてきたじゃん。そうじゃないとこも、大体朝五時には開いて、日付変わって午前二時くらいまでは開いてるでしょ」
「確かにそういう店増えてきたな」
「そうなると、みんな寝静まってる時間ってめっちゃ短いよね」
蓮は話を聞きながら指を折り時間を数える。
「まあ、大体三時間くらいかあ」
「そう、そうなるでしょ。ちがうんだよそれじゃ」
カフェの外はキラキラと街頭や店の光がまたたいている。人通りは多く、これから数時間は減りそうにない。
「私が好きな夜更かしってのはさ、しんとしてて、暗い中ひとりで起きてて。まるで、この世に一人みたいで、私一人だけで楽しいことこっそり独り占めするみたいな」
今の世の中は、寝静まる街並みが遠くにあるようだった。
芽依が話し終わると、蓮はうなずき、なにかを考えるように黙りこくってしまった。少し抽象的な話になりすぎてしまっただろうか。手なぐさみにカップを持ち上げた。冷めきったコーヒーを飲むかどうかためらう。
「今そういう夜更かしをしようと思ったら、もうほぼ徹夜確定になるな」
蓮は思案顔のままそう言う。声につられて芽依が顔をあげると、ぱちりと目が合った。
「芽依は二人で夜更かしは嫌?」
まっすぐ言葉が飛んでくる。初めて名前を呼ばれた気がした。
「え?」
発言の意図がわからず芽依がそれだけ答えると、蓮は楽しげに笑った。
「話聞いてたら、なんか俺もしたくなった。夜更かし」
芽依に向けられた笑顔に、心臓がまたドキリとなった。この男はこの笑顔でたくさんの人を引き付けてきたのだろうか。芽依は自分が少し浮かれていることに気が付いた。
「今日これから夜更かし、しない?」
「徹夜することになるけど」
「カラオケとか行ってもいいし、俺んちで映画鑑賞会とかでも」
「まあ、うん、そうだね」
芽依は曖昧に返事をする。しかし蓮はそれを肯定だと受け取ったらしい。
「よしじゃあ、決まり」
そう嬉しそうに言うと、蓮はぐいっとコーヒーを飲み干し、席を立った。そのままカフェの出口まで歩き出す。芽依はすこしためらっていた。蓮が、ちらりと芽依の方を振り向く。
この男となら、二人で夜更かしも悪くはないだろう。芽依も残っていたコーヒーを勢いよく飲み干した。
夜更かし 遠越町子 @toetsumatiko
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