第3話︰お父さん、お父さん
「ぎぃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!肝臓があ゛あ゛ぁ!!」
跳ね起きるとそこは布団の上だった。
「……………………えっ」
恐る恐る周囲を見回してみると目に映る背の低い本棚、小型の冷蔵庫、橙色に点灯している天井の小さな豆電球。
日常そのものといった見慣れた自室の光景の中、窓から爽やかな朝日が差し込んでいる。
「……………………なんだ夢かぁ……」
俺はほっとため息をついた。
枕元の時計を見てみると七時半。
少し遅く起きちゃったなぁとか思いながら布団を畳み、顔を洗って歯を磨く。
買っておいた菓子パンを一つ平らげて、ワンルームマンションの扉を開ける。
いつもの道をいつもより小走りに走り、いつもの職場へと足を運んだ。
「おはようございまーす」
事務所の扉を開け挨拶をすると、先輩たちが妙に勢い良く詰め寄ってきた。
代わる代わるまくしたてる彼らの話を窺うところによると、俺は昨日の仕事をばっくれ、家に電話しても全く連絡がとれず軽い行方不明のような状態になっていたらしい。どうやら俺は丸一日ずっと異世界の夢を見ていたようだ。
俺は半年の間三十分前出勤を欠かしたことがなかったから、何か事故にでもあっているのではないかと彼らを心配させてしまったようである。
「えっ……いや違います違います!ただ寝ていただけですって!まさか一日中ずっと寝てたなんて今まで気が付きませんでした、じゃあ今日木曜日だったんですか!?無断欠勤してしまってすみません!」
慌てて謝るが先輩たちはいつもどおりに優しかった。
「一日中って……お前それ病気じゃねえのか?精神的な……」
「ストレスになることあるんだったらちゃんと相談しろよ?」
と言うだけで、誰も全く怒ることもなく、田中先輩に至ってはカフェオレを奢ってくれた。
ただ一度だけ、「起きれなかった原因に心当たりあるか?」という問に、「異世界に行く夢見てました」と答えると、「張り倒すぞお前」とキレられかけたが、それくらいである。
普通に日課の作業に勤しみ、普通にみんなで昼ごはんを食べ、普通に終業時間に解散する。
帰り際、コンビニで買ってきた紙に辞表を書いて、封筒に通帳に入ってただけのお金を入れて、今までお世話になりましたとか記してみる。職長の机に置いて職場を出た。
電車を三つほど乗り継いで移動した。
斎藤先輩から以前に聞いた場所だった。
都心から少し離れた場所にあまり管理のなっていないビルが建っていて、屋上のドアに鍵がかかっていないらしい。前の彼女とたむろしていたそうだが、最近はあまり近づかないようにしているそうだ。そんなのだから振られるのだと田中先輩から笑われていた。
人が滅多に近づかず、夜は眺めが綺麗だそうだ。
「うわぁたっかぁ……!」
ろくに柵もない端から下のほうを覗き込んでみて、俺は思わず身震いする。
強烈なビル風が前髪を揺らした。
何も特別なことはない、非常に簡単な推理である。
俺は小、中含めてもこれまで無遅刻無欠勤。家の電話も鳴らされたらしいのに目を覚まさないなんてことありえない。毎日それなりに楽しいし精神病なんてもっての他だ。
つまり合理的に考えて、あの異世界で過ごした数時間は夢ではなく現実に起こった出来事である可能性が高い。
朝起きたときも一日寝過ごしたくらいの空腹は感じなかったしきっとそうだ。間違いない。
俺があの時決意した内容は、合理的に『ファンタジー世界で』成り上がる。
場所を限定してしまった以上、異世界に戻らなければならないのは当然の帰結といえよう。
「それになぁ……俺を殺した殺人鬼に復讐しないといけないからなぁ……仕方ねえよなぁ……」
お値段銀貨八枚のリウの顔を思い出す。
出会ってから終始怯えていた彼女。唐突にめった刺しにしてきた彼女。
彼女のその可愛い可愛い面を思い出すだけで、心臓の鼓動が荒立つようだった。全身の血液が熱を帯びた。
きっとこれが『怨嗟』という感情なのだろう。『普段は温厚だが怒らせたら怖い系男子』の俺に喧嘩を売るとはいい度胸だ。もう一度会って生まれたことを後悔するほどの恐怖を味あわせてやろう。
もう一度会いたい。会わなければ。
「…………で、異世界行くのってこれでいいのか……?高速道路でダンプに当たり屋したほうが可能性高い感じが……でも運転手可哀想だしなぁ……」
遠く遠くにある地面を見下ろした。
しばらくじっと固まっていた。
正直なところ怖くて怖くてたまらなかったので、大きく一つ深呼吸して、目を瞑ってぴょいと前方にとんだ。
変に勢いがついてしまって、空中でぐるりと縦に回って、頭のほうから地面に近づいていく。
「…………ッッ!!」
恐怖のあまり思わず手から地面に着地した。
『ごん』と『べちゃ』の中間のような音がする。
即死することはできなかった。くびが変な方向に曲がっていた。通りすがりのサラリーマンが悲鳴のようなものをあげていた。
意識がゆっくりと遠ざかっていく。
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