勇気を振り絞って

 陽菜と出会うことになる少し前のある日、玲那は、十年の人生の中で最も勇気を振り絞っていた。勇気を振り絞って、掃除をしていて気が付いた、板間の下の収納に身を潜めていた。<仕事>に行きたくなかったからだ。だから意を決して自分を呼びに来た母親に見付からないようにしたのである。

 だがそこは、床下に簡単な仕切りをして収納のようにしただけのものだった。だから実質的には床下と変わらない。湿気がこもりカビ臭く、空気が淀んで息が苦しくなる気さえした。

 母親が呼びに来るのはたいてい夜の八時頃だから、学校の宿題も夕食も入浴も終わらせた後でそこに潜り込んだ。

「……」

 隙間から辛うじて光は入ってくるもののそこは殆ど暗闇であり、十歳の女の子にとってはあまりにも恐ろしい空間だった。だが、そんな暗闇の恐怖よりも、あの<仕事>は嫌だったのだ。

 息を殺して潜んでいると、何もない筈のそこは意外といろんな音がしていた。家の前の道路を走る自動車の音、隣家から地面を通じて伝わってくるらしい生活音はまだしも、何か得体の知れない小さなものが走り抜けるような物音には、体がビクッと勝手に反応した。

 しかも、十一月に入ったからか、

「さむ……」

 思わず口にしてしまうほど寒い。ズボンとトレーナーを着こんで寒さ対策はしたつもりだったが、一時間もすると体がガタガタと震え始めた。そして玲那は、それに耐えかねて、二時間と経たずにそこから出てきてしまった。この日は結局、母親は来なかった。


 翌日、玲那は毛布を二枚持って、やはり収納の中に隠れた。それが功を奏して寒さは何とかしのげるようになった。だが、空気の悪さとカビ臭さはどうにもならなかった。暗闇と、そこを走り抜けるかのような何かの気配も恐ろしかったが、彼女はそれに耐えた。すると彼女は、自分でも気付かないうちに眠ってしまっていた。ハッと気が付くと夜が明けていた。まだ朝の六時前だったが、彼女は結局、収納の中で夜を明かしてしまったということだ。

 そしてさらに翌日、同じように収納の中に隠れていると、ついに母親が来た。

「玲那? 玲那!? どこにいるんだい!?」

 明らかに苛立った声で玲那を呼び、どすどすと不機嫌さがそのまま音になったかのような足音をさせつつ母親は家の中を歩き回った。

「まさか、逃げたのかよ…!」

 玲那が隠れている収納のちょうど真上に立ち、母親は吐き捨てるように呟いた。苛立ちと焦りが床板を通して伝わってくるような気さえする。この時の母親の顔は、怒りで恐ろしく歪んでいただろう。携帯を取り出し、電話を掛ける気配も伝わってくる。


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