悪知恵
「……」
体を洗い、ワンピースと下着を身に付けた玲那は、再び母親に引きずられるようにして男の部屋を後にして、母親の運転する自動車の後部座席で呆然と座っていた。その間も、あれほど何度も洗ったのに体の中からドロッとしたものが溢れてくるのを感じて、また涙が零れてくる。
しかし
「じゃあな。さっさと寝ろよ」
とだけ言って走り去ってしまった。大した神経をしているものだ。
「……」
時間はまだ十時を過ぎたところだったが、玲那にとってはまるで何日も過ぎたかのような悪夢の数時間だった。明日が土曜日だったことがせめてもの救いかもしれない。
そして土曜日も日曜日も、彼女はまるで心をどこかに置き忘れてきたかのように呆然と過ごす。
「…あ、っ!」
寝るとあの時のことを夢に見て、何度も目が覚めた。
「……う……うぅ……」
その度に勝手に涙がこぼれてしまう。
月曜日には仕方なく学校に行った。普段から陰鬱な彼女が陰鬱に振る舞っても殆どの人間はその違いに気付いてはくれなかった。
『伊藤さん……』
担任の女性教師だけは何となくいつも以上に落ち込んでいるかなと思って職員会議でそう報告したが、
「今後も注意深く見守りましょう」
という結論止まりでそれ以上の踏み込んだ対応は取られなかった。
いや、注意深く見守ろうと思ってもらえるだけでも恐らく当時としてはかなり丁寧な対応だったのだろうが、少なくとも学校内では大きな問題が見られる訳でもなかったので家庭内のことだと見做されて、あくまで見守るだけに留められてしまったということである。
確かに、学校内でのことは学校に責任があるだろう。さりとて学校は保護施設でもなければ司法組織でもない。家庭の問題までは首を突っ込むことができなかったのである。精々、『虐待の疑いあり』と児童相談所に通告する程度が関の山だった。
児童相談所の方としても、実は小学校に上がる頃には彼女は両親からの暴力を避けるコツを身に付けてしまっていたこともあって痣を作るようなこともほぼなく、また、両親の方も、
『かつては<不良>とも呼ばれるような時期もあったものの、立派に更正してみせた』
的に、それなりに世間体を繕うという悪知恵を身に付けていたこともあり、虐待を疑わせる際立った所見も見られない為に表立って動くことができないという事情もあった。この頃はまだ、警察との連携も十分ではなかったというのもある。
世間としても、子供を厳しく躾けることはよいことだという認識が一般的であり、『躾だ』と言い張られてはそれを敢えて『虐待だ!』と強く指摘するのが憚られるという空気がまだまだ支配的なのだった。
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