売り物

「……」

 テレビで『自動車に乗るときはシートベルトをしましょう』と言っていたのを覚えていて、母親に言われなくてもシートベルトをしたものの、十歳になる直前の彼女にはまだ上手く合わなかった。胸にかかる筈のベルトが顔のところに来てしまうので、それは頭の後ろにやって腰のところだけベルトを掛けるようにした。

 十分ほど走ったところで京子けいこは自動車を止め、

「ここで待っときな」

 と玲那に声を掛けて彼女を残し、雑居ビルへと入っていく。

 自動車が止められたそこは、派手なネオンの看板がギラギラと辺りを照らしている、明らかに品のない通りだった。

「……」

 玲那はその雰囲気を不快だと思った。

『なんか……きもちわるい……』

 そんな風にも感じる。こんなところには一秒だっていたくないとも思った。けれど、それを実行できるだけの能力はこの時の彼女にはまだない。

 数分で京子は戻ってきたが、その隣に、知らない男を従えていた。その知らない男は当たり前のように助手席に乗ってきた。そして後部座席に乗っていた玲那を見て、

「おお! この子か!? こいつぁすげぇ! マジで小学生やんか!!」

 と興奮が抑えきれないといった風情で声を上げた。

「―――――!?」

 玲那は、声も出せなかった。男を見た瞬間に眩暈を覚え、意識さえ失いそうになった。

 見たくないものが、思い出したくないものが、凄まじい勢いで自分の中から湧き上がってくるのを感じ、体中の血がザーッと音を立てて流れ出ていくような悪寒も覚える。

 かつて同じような光景を見たことがあると、彼女は働かない頭のどこかで微かに思っていた。吐きそうなほどに不快で、眩暈がしそうなくらいにおぞましい記憶。いつの間にか彼女自身がただの悪い夢だったと思い込んでいたそれがまぎれもない現実であったと思い起こさせる光景だった。

『…あ……ああ……っ』

 彼女は察した。これから自分が何をされるのかということを。あの悪夢がまた自分を滅茶苦茶にするのだと彼女は察してしまったのだ。

「…っ!」

 助けを求めるように母親の方を見るが、しかし母親は娘のことなどまるで関心がないという風に不機嫌そうな顔で黙って自動車を運転していた。

 十五分ほど自動車を走らせると、大きなマンションの前に着いた。それは、団地という感じのそれではなく、見るからに高級そうなものだった。男は逸る気持ちを抑えきれないといった感じで車を降り、「こっちこっち」と京子を促した。

「おいで」

 後部座席の娘に対して掛けられた短い言葉は、決して反抗することを許さない命令だった。

「……」

 玲那はそれに逆らうことができなかった。シートベルトを外して自動車を降りると、京子が彼女の細い腕をがっしと掴んだ。逃げられないようにする為の力と威圧が込められているのを玲那は感じ取っていた。

 ウキウキとした男の後ろを、母親に引きずられるように少女が歩く。それに不審を覚える者は誰もいなかったのであった。


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