第2話

 いしつぶてのように叩きつける雨。

 凄まじい風。

 あきらかに見知らぬ世界。


 意識を失いかけて、しゃがみ込んだとき、目の前の扉が開き、建物の中に引き込まれた。

「今日はひどい台風だ。店はもう閉店だから食べちまえ」

 灯りを落とした店のカウンターで信じられないほど美味しいモノを夢中で食べた。同じように飛ばされた部下たちが頭をよぎって嗚咽がこらえきれない。

 着崩していたコック服を脱いで、カウンターの端の席に引っ掛けると、その壮年の男はゼンを店の奥に招いた。店の奥には梯子のような急角度の階段があって2階に続いている。

 その夜、何か月かぶりに体を清潔にし、屋根の下で眠った。

「国に帰れるまで、ここに住んでいいぞ」

 次の日の朝、悦男と名乗った男はまずそう言った。

「異世界転移てやつかあ。まじやべえ」

 悦男は口の中でそんなことを独り言ちた。

 水回りの使用方法を一通り説明し、自分の古い服を押し入れから引っ張り出す。

 家族で住むには手狭だから、少し離れたところに古い一軒家を所有していてそっちに住んでいる。昼に休憩するときぐらいしか使わないから、自由にしていい、と。

 悦男はそれから彼の名前に「然」という漢字を与え、商店街の力仕事と店の調理補助の仕事を紹介してくれた。




 ―――――あの時の絶叫は耳を塞いでも聞こえてくるような気がする。

 朝、確かに少し具合が悪そうだったが、ほぼいつも通りだったのに。

 厨房で、ふと悦男は足を止めた。

 オーブンを覗き込んでいた然が見上げた顔は蒼白で、白目の真ん中で瞳孔が浮いていた。

「悦男さん。どうかしましたか」

 然の呼びかけに、悦男は答えられないようだった。みぞおちを押さえ、腹の底からこみ上げるような絶叫を上げて後ろ向きに突然倒れた。

 抱え上げた体は重く、ぐったりと弛緩していた。

 彼の体の中で何が起こったのかわからなかったが、何人もの仲間を看取ってきた然にはこれは絶対に助からないことだけははっきりとわかった。


 常連客が呼んだ救急車で悦男の体は運ばれていったが、数時間後には白木の棺桶にはいって戻ってきた。

 幾人もの仲間が戦死して、その度に途方に暮れた。

 視界が真っ暗になるような究極の絶望。

 見知らぬこの世界で悦男は命綱だった。あの台風の夜に引き戻された気がした。



 その真っ暗な世界にリュックサックひとつで流星が飛び込んできた。

 ああ、この娘が“亜津子”だ、とわかった。

 外国船の料理人をしていたという悦男は船乗りに通じる荒々しさがどこかにあって、彼の故郷の兵士たちを思い出させる空気感があった。細かいことは気にしない、そうでなくて突然店に転がり込んできた穢い身元不明外国人を店の二階に住まわせたりしない。

 その体がもう命を失ったことを知らないのか、悦男の顔には昨日と同じように無精ひげが伸びていて、亜津子は父のその頬をなんどもなんども撫でていた。

 亜津子は朝から晩まで厨房にこもって働いているから肌は真っ白で、料理に差し支えるから化粧もしていない。黒いゴムで縛っただけの豊かな髪。

 少女のような外見、それでいて真っすぐな意志のあるまなざし。

 長い睫毛が朝露のような涙を弾いてぽたぽたと落ちていく。

 うつむいたうなじから先の背中になだらかに曲線が続く。無造作に背中が開いたスタイルの白い上着からわずかにのぞく肩甲骨。

 これ以上なく絶望しながら、然はその白い背中が呼吸で上下するのを見つめていた。



 ぼんやりできたのは葬式の日までだった。

 その翌日には、店の運転資金として借りていた融資の返済計画を尋ねに信金さんがやってきたからだ。商店街の仲間はその無神経さに激怒したが、亜津子は冷静だった。

「私がこの店を継ぎます。融資は継続してください」

 堂々とそう言い放って銀行員を追い返す。

 東京に戻って、師匠に挨拶して退職し、トンボ帰りで戻ると、父親の住んでいた実家と家財を処分。いくらかの資金を準備すると、その資金と店を担保に融資を継続させた。

 早朝から必死に仕込みをこなし、深夜まで信用金庫に提出する沢山の営業計画の書類を作成する。カウンターにうっぷしたまま力尽きて眠り込む亜津子を抱え上げる。

 梯子のような階段を登って、彼女を2階の布団に連れていくのは然の仕事になった。

 そんなこんなで、店に下宿していた然と、実家を失って転がり込んできた亜津子はなし崩し的に同居するようになった。


 ただの同居人だったのは、短い間だった。

 亜津子は然が引こうとした境界線を飛び越え、不適切な同居関係から逃げ出そうとする彼を拿捕するとほとんど警察の事情聴取かという勢いで好意を自供させ、抱きしめてどこにも行かせなかった。



 台風が来るたびに夏はバラバラに破壊され、持ち去られていくようだ。

 深夜の街並みは暗く、開いた窓からの風はもう肌寒さを感じる。

 然は月を見ながら故郷を想う。

 故郷は魔獣であふれ、荒れ果てていた。

 転戦を繰り返し、掃討戦に明け暮れ、その最前線で敵の瘴気によって歪んだ時空の隙間からこの世界に飛ばされた。

 そもそも再び元の世界に戻ることができるのか。

 戻った場所が最前線ならば、一瞬で命を落とすかもしれない。

「大丈夫よ。私は料理人だもの。どこの国にでも行けるわ」

 自信たっぷりに亜津子は言う。

 苦笑いせずにいられない。

「そうだな、俺の故郷の料理は不味いから、亜津子が来たらあっという間に有名になって国中から客が来るなあ」

「じゃあ、宿をやればいいんだわ。この風景の田舎ならきっと最寄りの町も遠いでしょう。この風景を見に来る客のための宿屋を建てて料理を出すのよ」

「俺の実家は羊しか飼ってないからなあ。食材が集まるかなあ」

「じゃあ村の農家と契約して野菜や果物を作ってもらえばいいのよ。私は今のうちから羊料理を勉強しておくからきっとうまくいくわ」

 体の中の何かを引き絞られているような不安に襲われる夜がある。

 亜津子はそんな夜はけして離れないでいてくれる。

 彼女はいつも底抜けに明るくて、おおらかで前向きだ。

 この世界に飛ばされて混乱と恐怖でおかしくなっていた然を、面白がりながら適当に宥め、親切に受け入れ面倒をみてくれた悦男と同じ。

 素晴らしく白くなめらかな背中に触れていると、どこにも行きたくないと思う。


 一兵卒に過ぎない然が、平和なこの地で隠れ住んでそして死んだからと言って、世界に何の影響もないだろう。

 だが、悦男が立ち上げてくれた店のSNSのおかげで、日本中に散らばったかつての部下たちがこの町に集まってくるようになった。

 しばしば、部下たちは故郷の味に似せた料理を食べに立ち寄ってくれる。今日来たハイゲイドとアルムに故郷の味によく似た酒を出したのがいけなかった。帰りたくないと泣き出したからだ。日付が変わるころまで今の家族のことを語り、そして泣きながら帰っていった。


 帰るあてもないくせに、彼を含む仲間たちは皆「帰りたくない」と思っている。

 だが、おなじぐらい帰りたいとも、思っている。

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