黒き鏡の玉兎。
錦魚葉椿
第1話
「―――――なんって。もう一度」
まったくもって聞きなれない言葉を聞いたので、音が鼓膜を滑った。
「
「イカスミパスタとわらび餅よね。これ」
その組み合わせの是非はともかく、今月のランチのメニュー名は亜津子にとって全く理解できない世界観。ちなみにオレンジジュース付き。
亜津子はラノベの世界に造詣が深くないので、何が何だが全然わからない。
「わかるわけないじゃない」
白く厚みのある大ぶりのプレートに真っ黒なパスタが盛られている。
彼はパスタが上手だから、それに対して不安はないけれど、このわらび餅っぽい何かは毎年のことながら理解できない。イソジンみたいなフレーバーを足したコーヒーゼリーに甘みのない黄粉をまぶした何か。
「故郷の味なんだよ」
北欧のお菓子サルミアッキに似ている。
このドイツ人は私を毒殺しようとしているのかと思ったあの味よりは多少マシだが、酷い。然は難民だったらしいから、もしかして北欧あたりの出身なのかもしれない。
夏が過ぎると彼は必ずこの料理をメインメニューに加える。
オフィス街を一歩入った裏手の商店街の端っこの店。カウンター7席、テーブル席3つ。20人も入ったらいっぱいになってしまう知る人ぞ知る小さな洋食屋。
ご主人は多分外国人で三十前後、奥さんは先代の娘さんでまだ若そうだ。
店の名前ははっきり思いだせないが、月に一回ぐらいランチに行きたくなる店。
SNSの口コミサイトはそんな普通のコメントの間に「
マニアックな客が必ずいて、まずさなのか懐かしさなのかわからない涙を流す。
最近はそのラノベ感あふれるメニューが刺さったらしい、若い客が増えた。
出しているほうは全然この良さはわからないので、亜津子には今年も心苦しい九月が始まろうとしていた。
―――――3年前。
雑然とした都会の下町を抜けて、記憶より幾分傷んだ公民館に飛び込む。
「ああ、亜津子ちゃんきれいになって」
開かれた扉の音に振り返ったのは八百屋の真知子おばさんだとわかった。
普通の服に黒いエプロンをして、アイメイクが涙ではげ落ちていた。
周りにいる見知った人たちがさっと身を引いて、道を開け、彼女をある所に誘導してくれる。
一番奥の部屋に安置された棺桶の前に膝をつく。
棺桶にはまだ蓋がされていなかった。
公民館の窓から見える紅色の百日紅は満開で、セミの鳴き声が耳を焼くようだった。
棺桶の中に入るにはまだ若すぎる彼女の父親がぴったりとしたサイズでそこにはまり込んで、色とりどりの花に埋まっている。
少し汚れたいつものスタンドカラーのコックコート。
亜津子はたった二十歳で血のつながった人を全員失った。
母が亡くなってから一生懸命育ててくれた父親を、愛していた。
言葉もなく、涙が出た。
集まった商店街の皆は親戚のようなもので、皆でただ泣いた。
亜津子が父親とこの洋食屋で働く未来をみんな信じていた。
中学生だった亜津子が高校に行かず店を継ぎたいといって、大反対する父親を振り切り、一人で東京に出て、住み込みの洋食屋から修行を始め、それなりに名の知れたホテルの厨房に移り必死に働いていることはみんなもちろん知っている。ちっとも帰ってこない娘を、父親は寂しいと思いながら、誇らしくも思っていて、数年後には母親がいたころのようににぎやかな店になるだろうとみんな楽しみにしていたのに。
各自自分の店の商品を持ち込んで、酒を飲みながら、昔の話、そして亜津子がいなかった5年間の話をしてくれる大宴会。そんな通夜だった。
亜津子はいろんな話を聞き、笑ったり泣いたりしながら、そのうちに棺桶の足元あたりに座って呆然と泣いている若い外国人らしい男がどこの誰なのだろうとぼんやりと思っていた。
毎日丁寧に拭きあげている木製のカウンターは独特のまるみと光沢がでている。
それを最後に優しくなでて父親を偲ぶ。
彼女の父は大動脈解離という病気で一瞬で天に召されてしまった。店と、店の二階に下宿する不法滞在外国人を残して。
男は「片岡然」と自己紹介した。
片岡は亜津子と亜津子の父親の苗字だから、彼自身の名前は「然」なんだろうと亜津子は理解した。
然は黒ではないが濃い茶色の髪をしていて、骨太でがっしりとしているが日本人の平均を超えるほどでない体格をしている。目立って整っているわけでもなく、このくらい外人顔の日本人いるよねと思う程度。
一升瓶八本入りケースと酒瓶を軽々と積み下ろしている。
「然さん、ホントに力持ちだよねえ」
最近すっかり年を取った酒屋のじいさんは、積み下ろしを代わってもらえてご機嫌だ。
優しくて親切な彼は商店街でも人気者だ。
カウンターの奥で彼はいつも通り仕込みを始めている。始めは調理補助だったが、亜津子の指導によって今は問題なく調理できるようになった。
眉を寄せて、一生懸命肉の塊を同じサイズに切り分けている。その表情が好きだ。
にこにこしている顔ももちろん好きだけれど。
無造作にまくり上げられているシャツから腕が出ている。いかにも筋肉の束が寄り集まっている働き者の腕と、その筋肉にそって走っている血管が好きだ。
店と然。そのどちらが欠けていても今日まで頑張れなかったと思う。
この人にご飯を食べさせなくちゃと思ったから、怯んでいる隙もなく店を回し続けることができた。
店のカレンダーは何年も前の月のまま止まっている。
その風景写真が故郷のものに似ているから、と然は頑なにそのページを破らせようとしなかった。彼は時々その風景写真を撫で、欠けていく月を眺めている。
そんな夜は然の胡坐の中に座ってくっついておく。
亜津子は然が国を離れた事情を知らない。
料理以外の勉強は真面目に取り組まなかったので、彼が出身の国をなんだか言っていたような気がするが、二秒で忘れた。
大したことじゃなかったからだ。
帰らなくてもいいし、帰るというなら一緒に行こう。
地球儀のどこの国かなんて、小さいことだ。
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