第5話 隣町アースデン

 オバタを出発したヒメノが最初に目指したのは隣町のアースデン。

 サンスティグマーダーの能力者がいることを警戒し、通り道にある彼女の家を迂回して進むヒメノは森の中である。

 父から教わった狩りでよくおとずれていたこの森には鹿や猪が住んでおり気を抜けばそれなりに危険であろう。

 本来は弓や槍を用意して入るべきこの森なのだがヒメノの手には昨日からずっと持ち続けていた鉈だけなので少し心もとない。

 鉈一本では猟師の定石としては木の枝や草を編んだ縄で即席の道具を作るのがセオリーだが、ヒメノは狩りのついでにサンスティグマの試運転をしようと考えていた。

 数を狩っても旅の途中では持て余すので一匹だけ。

 できれば毛の短い鹿のほうが不意に溜まった血で服が汚れないだろうか。

 そう考えつつ鉈を握る右手の指と足の指先をニギニギと動かしながら獲物を待つ。

 それから少し歩くとガサゴソと獣が草木を踏む音が聞こえてきた。

 ヒメノはいったん立ち止まって目と耳を凝らすと右手側に猪を発見する。

 しかも全身を泥の鎧に見をつるんでいて普通の個体よりも大きい。

 いつもの狩りなら手強いが大物だと喜ぶところなのだが、今日はサンスティグマの力を扱うための小手調べなのでいささか大きすぎやしないか。

 正気ならそんな鉈一本で挑みかかるのは危険だと自分でも言うだろう。

 だがこれから自分がしようとしていることを成すためには正気では一生かかっても無理だ。

 使う術は巻物に記されたサンスティグマの力の初歩。

 体内の精気を操ることで肉体的な限界を高め、さらに精気を放出することによって筋肉的な限界を凌駕する。

 全身と右手の鉈を精気で包んだヒメノは動きのイメージを頭の中で固めてから踏み込んだ。


「ブヒっ!」


 ヒメノが踏みしめた足音に猪も驚く。

 空のサンスティグマが持つ放出の特性により足から噴出した精気で加速したヒメノは大地を揺るがすほどの足音を立ててそれを置き去りにしていただろうからだ。

 猪が音の鳴る方へ首を向けた頃には既にヒメノは目の前。

 そのまま彼女は鉈を縦に振り下ろす。


「ビュン!」


 振り下ろした鉈の刃が猪の毛皮に触れる刹那、刃を覆うヒメノの精気は人の手では打てないほど極薄の鋭い刃先となって毛を軽々と断つ。

 そのまま鉈の重みに任せて振り抜くと猪の首は骨ごと切断されて、血を吹き出しながら倒れ込んだ。

 ヒメノは加速の勢い乗って猪の首を狩りつつ通り過ぎたので返り血を浴びていない。

 そのまま猪の血が止まるのを待っていると、目的地であるアースデンの猟師が通りかかった。

 彼はときおりこの森にも狩りに出ていたのでヒメノの顔見知りである。


「こりゃあ大物だな」

「あら、エビゾーさんじゃないですか」

「久しぶりだなヒメノちゃん。その様子だと元気してたようだな」

「え、ええ」


 ヒメノは内心では元気とは程遠いのだがここは空元気で頷く。


「でも大物すぎるから一人で運べそうか? 今日はだいぶ軽装のようだし」

「それはさすがに。良かったらエビゾーさんと二人で分けますか? ボクは王都に向かっている最中で、この猪は偶々遭遇して危険だから撃退したんです。なので食べずにアースデンで路銀に変える予定だったので、良かったらぜひ」

「良いのかい? ここのところ空振り続きで母ちゃんにドヤされていたんだ」


 予定よりも大きな獲物なのでおすそ分けを提案するヒメノにエビゾーは大喜びで飛びつく。

 彼も普段はアースデン側の森で狩りをしているわけで、オバタの森に来たのは不猟が理由のようだ。


「ええ。代わりにむこうに着いたら一晩泊めていただければ」

「それくらいお安い御用よ」

「では交渉成立ということで。血抜きは済んでいるので早く解体しましょうか」


 エビゾーが加わったことで手早く肉を処理し、なおかつ荷物運びまで手伝ってもらえたことで楽をしたヒメノは彼とともにアースデンに向かった。

 街につくと肉屋で解体した肉の半分をお金にしてヒメノが受け取り、残りを二人でエビゾーの家に運ぶ。

 大猪なので半分でもかなりの量だ。


「おかえりあんた。随分大きな猪が取れたね。だけどその子は誰だい?」

「前に一回あったことがあるだろう。まだ若いのにオバタの森で猟師をやってるヒメノちゃんだよ」

「あらまあ。ずいぶん大きくなったね」


 エビゾーの妻ミーシャが以前ヒメノと会ったのは2年前に一度だけ。

 そのため見知らぬ若い女性ということで彼女も怪しむ態度だったのだが、エビゾーから名前を言われてヒメノのことを思いだす。

 成長期もありヒメノの身長はその頃と比べて10センチほど伸びている。

 更に弓や刃物で狩りを行う都合上、見た目以上に体中の筋肉が引き締まっていた。


「お久し振りです。今日は押しかけるようで申し訳ないですが、一晩泊めていただけないかと」

「もしかしてあんた、その猪は……」

「お察しの通りヒメノちゃんが宿代がわり持ってきたもんだ。俺も解体を手伝って半分はもう肉屋に持っていった後だぜ」

「……仕方がないねえ」


 本当なら亭主が仕留めた獲物を食卓に上げたかったのは猟師の妻の性なのだろうが、夫の同業者から振る舞われた獲物を無下にするわけにはいかない。

 そして振る舞いを受けた以上はお返しをしなければ失礼なので、ミーシャはヒメノを一晩泊めることにした。


「───なにかお手伝いしますか? 猪鍋ならボクも作りなれていますので」

「お前さんはお客様なんだから、気にせず子供たちと一緒にくつろいでいておくれよ。上等な猪肉を貰ったうえに夕飯の支度までさせたら逆にあたしらがもてなされちゃうことになるしさ」

「そうですか」


 ヒメノの手伝いを断ったミーシャは慣れた手付きで夕飯の支度をし、小一時間で料理は完成した。

 作った料理は脂身とネギの炒めもの、蒸した赤身肉の瞬間燻製、そしてメインとなる麦団子入りの猪鍋。

 父娘二人で一食一品なことが多いヒメノからすると三品も一度に作るのは御馳走である。


「さあ召し上がれ」

「泊めてもらえれば充分だったのにこんな御馳走まで頂いて申し訳ないです」

「御馳走だなんてお世辞がうまいねヒメノちゃんは」

「そんなことないですよ。この猪鍋だけでもボクが作るよりも美味しいし、なにより炒めものと燻製まで一度に出してもらっていますし」

「うちは子供たちも食べざかりだからこれくらいないと満足しないだけさ。ヒメノちゃんは女の子だから少食なのかもしれないけれど、子供ができたらあたしみたいにバクバク食べないと体が持たないって」

「子供は……そもそもそんな相手もいないので」

「まだヒメノちゃんは15歳なんだからそういうのは気が早いって。それにお前はただの食いしん坊だろう」

「そうだよ。ママがウチでは一番食べるんだし」

「うんうん」

「父ちゃんだけならまだしもリューヤとターヤまで。こら、変なことを子供に教えるんじゃないよ」

「俺はそんなことしていいねえって。二人もマセてきただけだろう」

「ハハハ」


 押しかけ半分に泊めてもらったエビゾー一家のだんらんを見ていて昨日の朝まで元気にしていた父のことを思いだしたヒメノは自然と笑ってしまう。

 自分も父の前ではこの子供たちのような笑顔だったのだろうと思うと、死を悼むよりも楽しかった思い出のリフレインが先に出ていた。

 そんな楽しい時間も一時。

 夕飯や湯浴みを終えて寝る前になると引波のように襲ってきた悲しみにヒメノは泣きそうになる。

 だけど安易に父の死を教えて回るのも同情の押し売りのようで良くないと、就寝まで必死にそれを隠し通す。

 借りた枕が溢れ出た涙で濡れるのだけは止められなかったが。


 夜が明けての出発前。

 顔を洗い就寝前に洗って乾しておいた服に着替えたヒメノは昨夜の燻製の残りを持てるだけ持って出発しようとしていた。

「朝食はそれだけで良いのかい?」

「これなら日持ちもするから今朝だけではなくしばらく食事に困らないので」

「だけど肉だけってのも体に良くないから、ちゃんと他のものも食べなよ。いくら猟師だからって女の子らしいものを食べないとお嫁に行けなくなるもんさ」

「大丈夫。そうなったら俺がお姉ちゃんと結婚してやるから」

「出会って一日でプロポーズとはリューヤも相当なお熱だな。そこでモジモジしているターヤも昨夜は俺が止めなきゃヒメノちゃんの寝床を襲おうとしてたくらいだから同類だがよ」

「ハハハ。一緒に寝るくらいなら構わなかったのに」

「ダメダメ。同じ年頃の男と女が一緒に寝るっていうのは意味が違うんだから」

「♥!」


 ヒメノは父と同じベッドで寝る感覚で子供たちに同衾してもいいと答えたわけだが、エビゾーが彼らを止めた意味をミーシャから聞いて顔を赤らめる。

 知識としてそういうことを知っていたし、年頃の嗜みとして一人でしたことはあれど、当然のようにヒメノは純潔である。

 年下とはいえ見た目よりも立派なこの兄弟が同衾したらその先にはあんなことやこんなことが待っていたと聞かされたヒメノは耳から煙が出る勢いで赤面してしまっていた。

 父娘二人で暮らしていたので同年代との交流がヒメノは不足している。

 だから余計に耳年増な彼女は変に意識して、エビゾー一家と別れてしばらくもそれが続いてしまっていた。

 こんな調子で父の敵討ちは大丈夫なのか。

 冷静になってからヒメノが自己嫌悪に苛まれるのはもう少し時間が経ってからの話である。

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