第五章 氷解する謎と真実
氷解する謎と真実(一)
※
そういえば妹に一切相談していなかったことに気づく。
でも大丈夫だろうと思う。妹は絶対に喜んでくれる。
いつになるかは分からない。だがそのときは、顔をくしゃくしゃにして泣いて笑って、自分の手で涙をぬぐって、立ち上がったその足で駆け寄ってくれるはずだ。
明日開催される〈ジェーン・ドウ・ゲーム〉に感謝しなければならない。
同時に、自分に殺される三人の参加者達にも。
いや、可能ならばもう一人。それも密室トリックで――。
五 氷塊する謎と真実
スーツを着た白髪の男が、こちらを見ている。
四十後半から五十前半の、壮年の男。彼は右手に手帳を持ち、それを読みながらこちらに話しかけていた。声は聞こえない。ただなんとなく、状況を伝えているのだろうと、彼の表情や所作から読み取れた。
この男は誰なのだろうか?
そこで場面が変わる。
幾人もの視線がこちらに向けられている。
場所はどこかの家の広いリビングだろうか。
不安そうな眼差し、高圧的な目線、悲しみを携えた瞳、見定めるような目付き。それらの全てがこちらに向けられていて、まるでこちらが話し始めるのを待っているようだ。
この人達は何を聞きたがっているのだろうか。
そこで場面が変わる。
どこかの室内から部屋のドアへ向かっていく映像。
ドアを開けると、不安と恐怖を綯い交ぜにしたような表情の若い女性。彼女はこちらにむかって何かをまくし立てている。やがて彼女に案内されるように二階のとある部屋へ。その部屋の前には四人の男女がいて、一人の男が手にしている斧で今にもドアを壊そうとしていた。
なぜドアを壊す必要があるのだろうか。
そこで画面が変わる。
白い物が地面に敷き詰められている。雪だ。
感覚がないので寒さは感じない。なのに雪解風を感じるようなリアリティがそこにはあった。次の瞬間、映像が左に流れ、そこにいた人物と視軸がつながった。
例の五十がらみの白髪の男だ。こちらがその男に近づいていくと、彼は指先を地面に向けた。雪の上に複数の足跡が残されている。
この足跡がどうかしたのだろうか。
そこで画面が変わる。
豪雨の中、舗装されていない小道を歩いている。
一緒にどこかに向かっているらしい前を歩く男が何かに気づいたのか、急に前方に向かって走っていく。彼に付いていくこちらの誰か。すると開けた場所に出たところで、雨も気にせずに頭を抱えて立っている男に再び会う。彼の向こうには崖があり、 壊されたのか、あったはずの吊り橋が向こう側で垂れていた。
吊り橋はどうして壊されたのだろうか。
そこで画面が変わる。
長テーブルに豪奢な料理が並んでいる。
その長テーブルを囲むように十数名の人間が着席していて、上座には年配の女性が座っていた。祝い事か何かなのか、誰かの乾杯の合図で皆がティーカップを手に取って、口に運ぶ。其処かしこで始まる談笑。料理に手を伸ばし、舌鼓を打つ食事会の参加者達。すると映像が突然、高速で年配の女性のほうへ向く。彼女は苦しそうに喉をかきむしると、そのまま椅子から床に倒れた。
年配の女性に何が起きたのだろうか。
そこで画面が変わる。
竿縁天井が見えた次の瞬間、映像はふすまを映し出す。
どうやら和室で寝ていたこちらの誰かが起きたようだ。ゆっくりと布団から抜け出るこちらの誰かはふすまを開けて、廊下へと出る。すると突然走り出し、映像が右に左にとぶれる。そこが目的の場所なのか、こちらの誰かは荒々しい虎の描かれたふすまを乱暴に開け放つ。
腰が抜けたかのように畳に座る女性。彼女の震える指が頭上を指し示す。そこには、四メートルほど上にある梁から垂れた縄で首を吊っている老人がいた。
老人はどうやってその高さまで上がったのだろうか。
そこで画面が変わる。
車を降りると、バロック調建築かのような館があった。
同じように車から降りてきたスーツの青年がこちらの誰かを館の入口へ案内する。すると入口には、例の五十絡みの壮年の男がいて、こちらに向かって手を挙げた。傍にはパトカーと警官が数名。壮年の男は刑事であり、こちらの誰かと知り合いなのかもしれない。
館の中に入り、どこかの部屋に連れていかれたこちらの誰か。その視界に異質なものが映る。椅子に座った首のない死体だった。
こちらの誰かは一体、何者なのだろうか。
そこで画面が変わる。
それが何度も続き――。
目が覚めた。
いつの間にか寝ていたらしい。しかも自室の床で。部屋に入ったときは眠気が襲ってくる気配すらなかったはずなのに、全くもって不可解な意識の消失。一体、自分の体に何が起きたのだろうか。
私は立ち上がるとベッドに座る。
あの夢はなんだったのだろうか。誰かの体験した出来事を延々と見せられていたような気がする。しかもどれもこれも、楽しくも面白くもない不安を掻き立てる内容だった。中には人が苦しんだり死んだりするシーンなどもあり、寝覚めの悪さは短い人生の中で最悪と言えた。
ペットボトルの水で喉を潤し、ふと部屋の時計を見る。時刻は十五時二十六分。もうそんな時間なのかと私は驚いた。
メイを監禁状態にして屋根裏乃と別れた時間を確認したわけではないが、おそらく十一時ちょっと過ぎだったと思う。それから四時間半弱、私は意識を失っていた計算になる。その間、誰も私の部屋を訪問しなかったのだろうか。ノックされれば文字通りの悪夢から途中で逃げ出せたかもしれない。
私はドアを開けると、廊下へ出る。
メイの部屋のドアノブに自然と目がいく。カーテンで工作された長い布は3号室のドアノブとしっかりつながっていた。念のために近くで確認してみるが、誰かが外そうとした形跡はない。中から強引に開けようとした痕跡もまた。
「メイ。私よ。いるよね?」
4号室にいるはずのメイに声を掛けてみる。
返事はない。もう一度呼びかけるが、結果は同じだった。一抹の不安が過るがおそらく寝ているのだろう。あとでまた在室の確認をすると決め、遊戯室に歩を進める。
その遊戯室には誰もいなかった。三件の殺人が起きたあとで遊戯に興じる人間がいるはずもないが、もしも殺人が起こらず平穏な一日だったとしたら、周防がその人間の一人だったかもしれない。ダーツにビリヤードは、スマートで理知的な名探偵にはお似合いだ。
ビリヤードテーブルを見ていた私は、なんとなく壁際のキュースタンドに視線を移す。キュースタンドには二本のキュースティックが置かれていた。違和感を覚えたが、その原因は分からなかった。
遊戯室を退室するとロビーへの扉を開ける。誰かしらいると思ったが、迎えたのは遊戯室同様の無人の静けさだ。このままロボットの左腕である書庫につながる廊下に進むか、はたまた頭部である〈始まりと真実の部屋〉に足を運ぶか――。
結局、選んだのはその二つのどちらかではなく外だった。
理由は自然の空気を吸いたいという単純なもの。十センチしか開かない横滑り出し窓からでも吸えるが、自然に身を委ねてこその自然の空気である。
そもそも、館の中を歩き回って誰かを探す行為に意味などない。誰かに会いたいなら各々の個室を訪ねたほうが早いのだから。そうしなかったのは、一人でいたいという気持ちが強かったからに他ならない。よって意味がない。
玄関ドアから屋外に出ると、さっそく土と草の香りが鼻孔を刺激してくる。私はポーチから降りて森のほうへ歩いていく。すると徐々に木々の匂いが強くなり、緊張がほぐれていく感覚が全身を駆け巡り始めた。確か森ではフィトンチッドという、人をリラックスさせる成分が針葉樹から発散されているというが、その効果が表れたのかもしれない。
何度か外に出ていたときには然程、あるいは全く感じなかったのは、それどころではない精神状態だったからなのだろう。
私は深呼吸を繰り返すと、回れ右をして戻る。もう少し森林浴を続けたかったが、屋根裏乃が在室を推奨していることを思い出したのだ。屋外に長くいるのはあまり褒められたものではない。
その屋根裏乃が「謎が解けた」と、私の元にいの一番にやってくる可能性もゼロではないとなれば、私の歩幅も広くなるというものだ。
もう一度、メイに呼び掛けてみようと考えたところで、森が途切れる。
真正面に現れる〈ジェーン・ドウの館〉。
刹那、視界に入った〝それ〟が、私の足を止めた。
体が動かない。動かせない。まるで〝それ〟の重要性を知ることができなければ先には行かせないという、何者かの強靭な意思さえ感じる。
(真実に気づけ)
例の声。今度ははっきりと聞こえた。
真実に気づけとは一体、どういうことだ? 全く分からない。というより、私の頭はどうなってしまったのだろうか。なんらかの病魔にでも侵されているのだろうか。ジェーン・ドウに対するものとは別種の恐怖が脳内を侵食していく。
(常識に抗え)
止めて。勝手に話さないで。あなたは誰なの? ううん、知りたくもない。いいから黙って。
(できないのなら)
だから勝手に話さないでっ。
ドンッ。という音が微かに聞こえた。次の瞬間、体の硬直が解けて私はたたらを踏む。危うく倒れそうなところでなんとか踏ん張ると、その状態でしばらく待つ。
例の声は聞こえない。体も動く。とりあえず安心したところで、金縛りを解除してくれたさきほどの音が何だったのか考える。
高いところから重いモノが落ちたような音? 高いところ? 尖塔? そこから何が?
胸がざわめく。
俗に言う、嫌な予感。そんな漠然とした察知能力を信じるほど私は霊能方面に傾倒しているわけではないが、今回は別だった。説明不可能な何かが私の勘の精度を著しく向上させていた。
それはまるで私ではない誰かの――。
「違う、私は私!」
私は右に向かって走り出す。尖塔に行くならこっちのほうが近い。早く確認しなければという気持ちが、私の脚力を最大限まで引き上げる。
角部屋である10号室を左に折れ、書庫を壁沿いに進み、尖塔の真下へ。
乾いた土の地面には何も落ちていない。しかしまだ反対側がある。私は下方に目を向けながら、尖塔をぐるりと回るように歩く。
黒い服が見えた。人が倒れている。
尖塔の一番上、眺望の利く物見スペースから落ちたのだろうか。仰向けの彼女の首と右足はあらぬ方向に曲がっていて、まるで紐で吊るされた傀儡のような様相を呈していた。首からは夥しい量の出血があり、それは彼女の美貌を彩るかのように鮮やかな赤だった。
「そんな、北条さん……」
北条の立ち振る舞いと雰囲気から、参加者の中で最も死から遠い存在だと思っていた。しかしそんなことはなくて、死神の鎌は平等に参加者の首に当てられていたらしい。
私は尖塔の一番上に目を向ける。
物見スペースで景色を眺めているときに背後から首を切られ、落下した。あるいは落とされた。彼女の状態からその仮説が一番しっくりくる。あるいは自殺。三件の殺人を犯した北条が罪の意識に苛まされてというストーリーだが、どうにも違う気がする。それこそ、彼女にそぐわない心理的負担に思えたからだ。
やはり、ジェーン・ドウによる殺人。そのジェーン・ドウは今どこにいる? 北条を殺したあと螺旋階段を下りてそのあとは?
ここで考えていても仕方がない。まずは館の中に戻ったほうがいい。残された参加者全員に北条が殺害された事実を伝えなければならない。例えその中にジェーン・ドウがいたとしてもだ。
私は北条の瞼を閉じたあと、館の入口へ直走る。
玄関扉を開け中に飛び込む。
「虹崎さん?」
館に入った瞬間に唐突に名前を呼ばれ、心臓がひときわ大きく胸を打つ。
「屋根裏乃さんですか。ちょっとびっくりしました」
「ごめんなさい。驚かせてしまって。ところで外にいたんですか?」
「はい。外の空気が吸いたくてそれで」
「はあ、そうですか。あ、ところで密室の謎が解けたような気がするんです。だからまずは虹崎さんにと思い、今から会いに行こうとしたのですが、丁度よかった」
もしかしたらという可能性が現実のものとなったようだ。最初に私に教えるというのは、信用の証であるはず。だったら私もこの場で最初に伝えるべきだろう。
「あの、屋根裏乃さん。実は――」
私は尖塔の下で見たありのままを屋根裏乃に話す。
彼女が驚きから瞳を見開く。そして言った。施錠はされていたのかと。確認していない旨を話すと、二人で尖塔を上る。まさかという思いを抱きながら上下開閉式の扉を下から押す。屋根裏乃と共に。二人がどれだけ力を込めても扉が開くことはなかった。
屋根裏乃が開口部から下を覗き、北条の死体を確認する。次に少し体を乗り出して頭上を見上げた。彼女の口から緊張を孕んだ声。
「自殺でないと仮定するならば、北条さんも密室で殺されたことになるかもしれません」
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