第77話 後始末 その2
深夜の海には何も映らない。液体化した闇そのもののようなそれは、見つめていると引きずり込まれるような錯覚に襲われる。
そんな夜の海の真っ只中。陸地より一キロメートルほど離れた位置の海面を割って、一人の人間が現れた。
長く伸びた髪を纏め、素潜りに適した服装をしている。
「ふう、何とか回収出来たわね、〈フライウィング〉」
その人物は紫の宝珠を持っていた。
そのまま空に飛び上がって陸地に向き直り、そこで自身を見つめるもう一人の存在に気がついた。
「っ!?」
「こんばんは。こんな夜更けに何してるのかな」
持っていた宝珠をさっと後ろ手に隠し、そして平静を装って口を開く。
「こんばんは。ちょっとひと泳ぎしようと思っただけよ。年を取ると眠りが浅くなっちゃっていけないわねえ」
「……その言い訳はちょっと厳しいんじゃないかな」
「うふふ」
微笑み、しばし視線をぶつけ合う。
それから考えを巡らせつつ言葉を投げあ。
「……どうして気付いたのかしら?」
何に気付いたか、は敢えてぼかした。相手がどこまで知っているのか探りを入れるためだ。
そんな小細工に対し、相手は何も考えていないような気軽さで、あっけらかんと答える。
「帰ってからずっと《気配察知》を使ってたからだよ。黒幕が居るなら、何か動きがあるんじゃないかなぁって思ってたんだ。最有力候補は評判の悪い領主だったから、本当に見つかるかは五分五分だったけど」
まさかヘンリエッタさんがそうだったなんてね、と少女は言い放った。
それを聞いた老婆、ヘンリエッタはやれやれといった具合に首を振る。
「全く、潮に流されて《鎮魂の祈祷》の範囲から出てしまわない内に、と焦り過ぎたわ」
「さっきから気になってたんだけど、その《封魔玉》はどうしたの? 《迷宮》でしか手に入らないはずだけど」
「海を漂っていた死体から抜き取った物よ。受肉した悪魔は、その死に際に心臓を《封魔玉》に変えるの。新たに生まれる悪魔は能力が変化するらしいけど、まあ元々そんな強力な悪魔ではなかったみたいだしそこは問題ないわね」
「へぇ、詳しいね。どこ情報?」
こてん、と可愛らしく首を傾げる少女。
これに老婆は素直に応じる。
「魔神教団は知ってるかしら?」
「初耳だね」
「でしょうねぇ。秘密結社なのに市井に知れ渡っていたら
「それで、あなたはその魔神教団とかいうのから情報を引き出したのかな? それとも、元からその教団の団員だったり?」
「どちらも正解よ。教団には悪魔について調べている内に行き着いたのだけど、今では司祭にまで上り詰めたわ」
司祭ってのは上から二番目の役職のことよ、と付け足す老婆。
少なからぬ誇りを持っていることが窺える口振りであった。
「ナンバーツーなのにこんな田舎に左遷されたの?」
「田舎とは何よっ不躾な子ね! ……コホン、失礼しました。ええ、まあ、たしかに人は少ないけれど、それがアタシ達には好都合なの。監視の目が緩いから契約者探しが楽にできるから。そういう訳でゾンクさんに目を付けて色々と工作をしていたのよ。契約するよう誘導したり、精神が不安定にならないよう〈カームマインド〉を掛けたり、受肉の前兆の《衰弱》をただの働き過ぎだと言いくるめたり。だけど……はあ」
と、ヘンリエッタはここで一つ、大きな溜息をついた。大きな落胆の色が垣間見える、そんな溜息だった。
「まさか、採掘の日に受肉するだなんて。他のタイミングであれば処分せずとも済みましたのに」
「殺したのはあなたでしょ?」
「ええ、あれだけ派手に目撃されては誤魔化せませんから。でもアレは本意ではないのよ? たかがA級に捕縛される程度であっても貴重な検体に違いないのだから」
そう言えば、と老婆はまるでその時思い至ったかのように話を切り替える。
会話を引き延ばしつつ探っているのにさっぱり気配が感じ取れない、とある一人の冒険者についてだ。
「リュウジさんはいらっしゃらないの?」
「うん、疲れてたから眠らせてあげてる。自分がゾンクって人を殺したって気に病んでるみたいなの。悪魔に手を出した時点で自業自得なんだし気にすること無いのにね」
少女はそう言ったが、老婆はその言葉を信じない。気配がないため近くに居る可能性は低いだろうが、もしかすると戦闘中に乱入してくるかもしれない。
もしくは町の有力者達に、ヘンリエッタが怪しい動きをしていると吹聴していることも考えられる。
様々な可能性を考慮しつつ次の一手を思案する。
「それで、あなたはどうしたいのかしら? アタシを衛兵に突き出す? それともアタシ達と手を組む?」
「聞くまでもないでしょ? あなたみたいに、無駄に力があるのにそれを悪事に向ける悪い奴は」
声のトーンが、一段下がる。
「きちんと殺さないとね」
「それは残念だわ」
最もあり得た返答だけに、老婆に驚きはなかった。冷たい殺気を浴びせられ、しかし平然と応じる。むしろ意識が引き締まったくらいだ。
会話の裏で魔力も練り終えており、後は戦端を切るだけ。そう考える老婆だったが、少女は殺意を霧散させ、全く違う話題を切り出した。
「ところで私、高い所が苦手なんだよね」
「? 急に何を……」
「《飛行》、《空中回遊》、《スカイステップ》に《縦横無尽》。《シルフダンス》と〈体術〉の〈踏藍空〉もか。空を飛ぶための力は沢山あるけど、もしかすると急に使えなくなるかも、って怖くなっちゃうんだ。そんなこと起こらないって頭では分かってるんだけど、どうしてもね」
「そうなの、アタシにはよくわからないわね」
いきなり始まった謎の話は聞き流し、不意打ちすることを老婆は決めた。
話に夢中な様子の少女は、構えも取らず無防備だ。
「あはは、羨ましいなぁ。《スキル》を使えなくなるかもと怯えなくていいだなんて──」
「隙アリよ、〈ミーティア」
「──《嫉妬》しちゃうなぁ」
「ストライク〉……え?」
初手から切り札。最大火力にして最高速度。流星の輝きにて万物を撃滅する必殺の〈特奥級魔術〉は、しかし不発に終わった。
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個体名 ヘンリエッタ
状態 嫉妬(光魔術、水魔術、天鐘) フライウィング
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二発目、三発目と用意していた〈魔術〉を次々発動させようとするも、どうしてか全て失敗してしまう。戦場を離れて久しいとはいえ、こうまで〈魔術〉の腕が落ちるはずがない。
異常な事態にヘンリエッタの注意が逸れたコンマ数秒で、もう、勝敗は決定的になっていた。
「はい、終わり」
ポン、と肩に手が置かれる。
動く素振りなど無かった。間合いは充分に取っていた。にもかかわらず、何故。
そう思う間もなく、数多の
「《瓦解する安息》、《ライフドレイン》、《酔生夢死》、《過信の一掃》、《虚脱の手》、──」
S級冒険者の《抵抗力》をもってすれば個々はさほどの脅威ではないが、数が数だ。
初めに《抵抗力》削減の《ユニークスキル》を使ったのも有利に働いた。
老婆は瞬く間に意識を濁らせ、浮遊の維持すらできなくなる。
「おっと、落ちないでね。《パペットスレッドプレンティ》」
魔力の糸が伸びて老婆を巻き取った。
「《傀儡化》は成功、と。じゃあ、他のデバフは解除して、お話を聞かせてもらいましょうかねー、《ドミネイトマインド》」
少女は悪魔よりも悪魔的な笑みを浮かべ、情報収集を開始した。
数十分後、聴取を終えた少女は、
「それにしても、魔神教団かぁ。王都で何かしようとしてるみたいだし、はぁ、面倒くさいなぁ」
小さくぼやいた少女は、げんなりとした表情だ。心底から面倒だと、単に面倒なだけで脅威ではないと確信している顔だった。
それから陸地に着いた彼女は、おもむろに背後の黒い海を振り返った。
「ごめんね。私には他者を《復活》させる《スキル》は無い。でも、たとえそれを持ってたとしても使わなかった。それはきっと、とても面倒なことを呼び込むから。だから、ごめんね」
少女の微かな呟きは、波の音に掻き消され、誰にも届くことはなかった。
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