第7話

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「うん、ありがとう。じゃあ私はこれで帰らせてもらうわ。お先に」


「おう、お疲れ」


女が仕事を終えて、自宅へと歩いていく。黒髪が風にたなびき、首元の細い傷跡をちらりと見せて隠す。きっと古いのだろうそれは、遠い昔から何度も開いては戻って来たというような感じがして、だから見えないように今までは纏めていたのかと思わせる。


けれど今の彼女は、髪と同じような黒い服を着る理由もなければ意味もなく、見えていても見えていなくてもどうでもよくなっている。


なんせそれは————。


ガチャリと彼女が扉を開けると、逆さまの風が吹き込んだ。本来ここから外へと吐き出されるはずの勢いは、逆に彼女を吸い込んで留めていた。それは明らかに、一人の人間から生まれていて、そんなことをできるのは一人しか頭の中にいなかった。


「あら、昼ぶりね。ミセス・ローラン……いえ、ミス・ローラン?」


「あなたは……」


真っ白い髪、色のない立ち姿。間違いなくイジンだった。

忘れられるわけがない。

どこの誰でもないけれど、間違いなく一つの姿としてあるだけの魔女。それが彼女だ————名も知らぬけれども、顔と声だけは二度と消えることはない、人でない人間だ。


「あなたは、昼の……」


ローランは目をくわと開き、どうして彼女がここにいるのかと慄いていた。

空き巣?泥棒?そんなことは当然想わない。


「なぜ、私の家に……?というより、どうやって鍵を開けたの……それにまさか……。あなたは…………!」


女はとにかく武器をと走り出して、キッチンにあるナイフを取ろうとした。けれど足元が急に不安定になって、まるで沼の上に張られた絨毯を踏んでいるかのように何も利かなくなって倒れた。

イジンがしたことか!彼女は近くにある小物を取って投げた。それは全く、当たらなかった。


「慌てないの。私は少し話がしたくて来ただけよ。別に何を取ろうってわけでもないし、切ったはったなんかするつもりはないわ。けれどそちらがそのつもりだったら話しは変わるのだけれどね」


それはそうだ。イジンが彼女に魔法をかけて、方向感覚を狂わせているのだから。


「……私としては、あなたのハニーサンドをまた食べたいのよ。だからね、ミス・ローラン…………」


魔女はそのまま女を天井へと叩きつけ、自らの重力を解放する。彼女の中に秘められている逆さまの神秘が、ありとあらゆる家具、ありとあらゆる生物、ありとあらゆる感情、そしてありとあらゆる事実までをも反転させて、彼女の世界へと書き換えて行く。


「少し話をしましょうか。あなたが夫を殺したことのお話を。私の弟子が、ちょいとそれに巻き込まれたお話を」


その場に存在しないはずの銀のナイフが、イジンの手に現れて彼女へ向けられた。逆さまになった世界のままで、少年の師匠は椅子と机を並べて紅茶を注いでいた。

高潔なる不埒の茶会としようと、提案された命令をしているようだった————シルク色の陶器から流れてくる色は血のように真っ赤で、その後ろに透けるはずの彼の姿は、イジン以外には残らない。


誰もいないのに聴衆に裁判を開示されているようの想われた。

検察となるべきものが、口を開いた。


「なぜ殺したか、なんてのはどうにかなる理屈。ならば問うべきはあなたがどうやって彼を殺したのか、ということニタからいくらか話を聞いたときは驚いたわ。あなたはどう頑張っても呪いの一つも扱えるような人間じゃあなかった。なのに竜をとどめるくらいの古い呪いが家に固まっていて、やれることとできたことがまるでチグハグ」


彼女がちょいと力を緩めたのだろうか。机の上に置かれていた刃が、勝手に天井へと転げ落ちた。ヒィとローランは身をよじった。けれどあのナイフではなかった。


「でも、だから簡単だったわ。これはあなたが呪ったものじゃないんだ、ってね」


限りなく近い偽物————けれどそれに触れてはいけないと動いただけでもう状況証拠はいらなかった。裁判長のように粛々と、彼女は自分の言葉を読み上げていた。


「そう気づいたら簡単なことだったわ。聖遺物の中で魔の部分をもつ物語さえ見つかったなら、あとはそれがどこにあったかを探すだけ。どうすればよかったかを探すだけ。意外と簡単だったわ。なんせニタが持ってきてくれたんだから」


彼女は自分だけ反転して、それを抜いて机に投げた。それはニタくらいの腕になってようやっと見えるくらいに呪いの煙を纏っていて、うすぼんやりと歪む輪郭は、死がふたりを分かつまでのヴェールめいて見えた。


「ちっぽけなナイフ呪われたものだけれど、古い古い昔の時代の聖剣を、ひとかけら貰って鋳つぶしたナイフだったのね。そしてこれそのものには聖なるものであるという祝福を授けなかった。だから呪いを溜め込む性質だけが残って、いつしか竜まで閉じ込めるようになった。ゆえにそれを嫌われ封印された————けれどあなたは、それをどこからか手に入れた」


そしてそれが効果を発揮するまでしばらく待ったら、獣になってあなたの夫を襲った。そういったところでしょう?とイジンは微笑みかけた。


一切の肯定も否定もローランはしなかった。


目の前のことが受け入れられないだけという風にして佇むだけで、紅茶から戻ってくる湯気も何もかも、悪い夢なんだとしか見られないようにしている。

あの解呪師でも手が出せなかったものが、どうして……?


「それに、この机もこの椅子も、この窓もこのベッドも。全部が全部いわくつきの呪われ。そこまでしてやりたかったのなら、ひと声かけてくれればよかったのにねぇ…………被害者としていたかったのなら、そんなものを使わないことね」


あの解呪師でも気づかなかったモノたちが、どうして…………?!

ブルブルと震えていると、イジンの背中から白銀の手が伸びてカップを取った。そしてまっすぐに女の前に叩きつけられ、避けることも出来ず、まだ熱いままの中身が彼女にぶちまけられた。


「それとも、黙りこくって騙し切れるつもり?」


なのにそれは、全く熱を感じないのである。

もうそろそろ楽になりなさいと、拷問にかけられている気分だった。


「ねぇ、エルミタージュの亡霊さん?」


だからそれにそう囁くと、女は机のナイフを常人離れした力で抜いて、彼女にぶち刺そうと流麗に動くのであった。

まるで暗殺に人生をささげたかのように、思考の間を隙間風になって流れて行ったように、許されない隠し名を明かされたかのように。


けれどナイフは突き刺さる代わりに、ぐにりと馬鹿にするように形を歪めた。

もうこれで裁判めいたものは終わりだった。


「……どこでそれを知った、魔女が…………!」


被告人が本性を現し、身体から筋を空に走らせ、円を描いて魔導文字を連ねて、自らを守るための陣を作る。そこからイジンへ向けて、割れんばかりに冷たい氷を無数に放つ。それも一つ一つ丁寧に研がれた、鋭い刃を。


しかしただ脇を通り過ぎて、家の壁をぶち壊すだけ。

しかし彼女そのものをすり抜けて、家の窓をぶち抜いていくだけ。


「あら、私がいくつかはご存じで?そうでないなら国に帰るのがよろしいかと、ね」


古代の遺物レスト・オールデス・アンダミオスが!」


何度も何度も、放てるだけの魔法を使ったけれど、一切の傷がイジンには増えなかった。どころかその余波が彼女を傷つけ、焦がし、苦しめるばかり。あるだけの魔力を使い潰したところでイジンは女を軽く持ち上げ、床である天井に何度も叩きつけて倒してしまう。


そして漂う魔力の残りを使って、彼女を縛り付けて終わらせるのだった————彼女は床に座らされたぐるぐる巻きのそれの、顎を上げてニヤリと耳打ち。


「そうね。私は確かに古物。けれどあなたはそれに喧嘩を売ったのよ。さあ吐いてもらいましょうか、あなたがどこであれを手に入れたのかを」


「誰が吐くかよ……100年の望みを!誰が!」


しかしそれを最後の力でなんとか反転すると、ローランは最後の力で転移を起動するのである————そして女が叫ぶ。


「あばよ、邪魔な年寄り!二度と顔を見せるんじゃねえ!じゃあなぁ!」


続いて姿が粒子に消え、文字の通り雲散霧消してしまった。


ああ、これで全部やることが消えてしまったか。ああ、これからどうすればいいというのだ————!


というところで、隠れていたニタは姿を現す。


「……いいんですか?あの人を取り逃がして」


「良いのよ。それより————」


当然その隣には、彼が呼んできているナイトがいる。イジンはそれにひとしきりを述べさせて、わかっているようねと答えてやる。


「これで動けるわよね?あとは頼んだわ」


そしてもうこれでやることはやったわと、弟子を連れて家を去った。

最後に軽い探知を入れてみたけれど、あちらもやるだけを尽くしたらしく、探せるものは何もなくなっていた。



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