第5話

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「あらあらあらあら。その程度の呪いで私を満たせるとでも思っていたのかしらん。想定以上に愚か者ですのね、竜というものは」


真っ白な髪が、この空間においては色づいて見えた。ほんの少しの燐葉が、すがすがしい風のように彼女の周りで踊っていた。木漏れ日のように暖かい感覚が、あたりの恐怖を拭い去っていた。


きっとそれはイジンがしているのだろう。呪いの煙はどこかへと消し去られ、純粋な平穏の空気が部屋を包んでいた。


暗黒竜の色すらも、わずかに濁りが消えていただろう————その当人は言葉にのみ怒りを表し、まだ底ではないのだぞと吠える。


「愚かと言ったか、娘……!だが我が呪詛を受けて生きたことには免じてやろう…………しかし、それもすぐに滅ぶ。今ならば……」


「あら、次があると思っていたの?」


だがイジンは気にも留めない。くるりと身を回して右の手に光を宿した彼女は、不敵な笑みを浮かべて続けるのだ。


「あなたが何年生きてきたか、あなたがどれだけを殺したのか。そんなことをとやかく言うつもりはないわ。あなたの生きざまは私に関係ないし、あなたごときでは私を殺すことだってできないのだから。けれど、けれどね…………」


舌が文字を叩くたびに、その光は圧を増していた。それは存在することそのものの反対にある光であり、本来はこの世界に存在してはいけないし、触れられるはずのないものなのだと、宇宙的な根本がニタにそう伝えた。触れたなら、それそのものがこの世から消滅してしまう虚無であるとも、彼は思った。


イジンはそんな恐るべきものを、人差し指一つで抑えて突き付ける。


「あなた、ニタを呪ったわね?ならばそれで理由は十分。私の弟子を傷つけたこと、後悔しながら死になさい…………!」


そして勝るとも劣らぬ怒りを持って、それを放つ。それに弾速なんてものはなく、あるのは動くか動かないかのみだった。

直線を進み、当たるか当たらずにこの世の外に出るかのみ。


だからピカッと輝きを増したのだけがわかったなら、すぐにその命中ははっきりする。竜が身をよじり、恐るべき欠損に気づいて叫びだす。


「!グォオオオオアアア!!!!!な、貴様何を……!」


ドン・Oの右半身は完全に消滅、残りからはこんこんと泉のように呪いが吐き出されるありさまだった————人間なら即死だろうが、それでも生きるのはワイバーンにしてもかけ離れた力。


あら、これで死ねないとはあなたもすごかったものなのね。イジンはそう前置きしてから、黒竜の断末魔に返事をしてやった。


「何を言ってもすぐに無駄になるけれど、それでもほしいの?」


彼はむしろそうされる方がよいと許容。


「……地獄への土産だ、言うがいい……!我に痛みを与えたのは、古き英雄を除けば今代に貴様のみだろう!誉めてやろうぞ、女!」


それを起こせる貴様も良いものだなと、竜は納得しながら崩れ始めるのである————彼の中に埋もれていた呪いの塊そのものが、どこかへと昇っていくのをニタは見て、それが終わる前に言わなければと、イジンも同じく考える。

だからこそ反転した空間の中で思い、彼に伝えてやるのである。


「褒められても、嬉しくはないのだけれどね…………強いて言うなら、この世にはありえないモノ、かしら。私はそれをヴォイドアークとでも呼ぶわ。全てに触れて虚無ヴォイドへ送り、聖剣めいた光アークを生み出すモノ。だからヴォイドアーク。どうだった?お味は」


「最高だな」


竜は笑っていた。


「遠い昔、神祖のもとにいたころと変わらぬ、久方ぶりの光だ。地上にて見られると思わなんだが、億年の久方にあるとは幸福よ」


それは身体の中にあったすべての漆黒を放り出して、本来持っていた黒玉ジェットのような輝く黒へと色を変える。まるで————いや、本当に憑きものが落ちたのだろう。


「あら、これでお別れにするつもりなの?えーっと」


「ドンディスペルクナ・オクニスだ。先に言ったろう…………だが、貴様になら許してやる。好きに呼ぶがいい」


「そう。クソ竜、あなたまだ————」


まだ。その先にかかったところで、それは満足げに姿を薄めていく。ならば余計なことを語るのも不要かと彼女は止めて、キラリキラリと輝きを周りに散らして、まるで天に昇っていくかの形相を呈しているそれを眺めている。


「なら、オクニス」


きっと成仏といくのだろう。イジンはそれに何も手を出さない。

というより、出せない。戻るのは自分だけだから、誰かの死などには。


「私が死んだときにでも、また会いましょう」


「すぐにでも会えるのを、期待しているぞ。クソ魔法使い」


そうつぶやくと、竜はすぐに姿を消した。

彼女には聞こえなかったが、ニタにだけは聞こえていた。


一体どうしてあんなものがここに広がっていたのだ?とニタが呟いたが、イジンの世界になっていたゆえに聞こえやしなかった。


「ニタ」


代わりにイジンの思っていることが、あたりにまっすぐ響いてきていた。


「どうしたんですか、先生」


彼はいつものように、裏も表もなく問いかける。一大スペクタクルのようなほんの少しの非日常の中で、彼女はさらに一つの目的を固めている。


「徹底的にぶち殺しましょう。掘り出したのを知らないままに使うなんて…………こんなおバカな奴らがまた動いたなら、この街が滅びへの道を一直線に辿ってしまうわ。そうさせないためにも、そして————」



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宿から去っていく二人は、きっとこれから何を追いかけるかを決めているのだろう。もちろんそれを見つめる一つの影は、何をどうするかなど決まっていない。当然のことだ————彼はここにようやっと蘇っただけなのだから。


「ま、我は肉体がない程度では死なんのだがな。あんな三文芝居でよくもまあ騙されてくれるものだ。お笑いよのう、はっはぁ!」


冗談じゃないほどに小さくなった、手乗りトカゲ程度の彼は、自分を復活させてくれた奇妙な魔女に一つだけ礼を言ってから、さあてこれからどうするかなぁと小さな体をコキリ鳴らした。


こんなものでは大々的に動けるわけでもない。今のオクニスにできるのはせいぜい地縛霊か浮遊霊めいたこと程度————ちょっとしたものを動かし、ちょっとしたものを消し飛ばす程度。全盛期から考えれば誤差のゴミだ。


とはいえ、力なき者には見られないという体質になったのは、少し便利であるといったところか。


彼は二人の姿が完全に消えるのを待って、家を這い出て通りの影に隠れる。

そしてするりと、壁なんてないかのように通り抜けた。


「遠い昔に眠りについては起こされて、殴り殴ってようやっと見つけたマシな相手。なれば今度こそは力になってやろうぞ、といこうかのう」


そしてそのまま空を駆けると、自分の一部を縛り付けていた物へと繋がりを頼りに飛んでいく。少し前にイジンがしたようなことくらい、彼にだって出来ない道理がない————彼はしばらく真っ青な空を抜けたのちに、上下逆さまの家へとたどり着く。これから染み出たのを媒体に呼び出された、というところか?


彼はそこに入ろうとしたが、何がしかの結界が張られているのか、それともあいつの何ぞしているのか。理屈までも逆さまになりかけていて、少しためらった。

このままやれば全身祝福になって死にかねない。けれどこの先に行かねば、利用されたことにも…………。


オクニスは少し考えてから、顔だけを中に突っ込んで部屋の中を探り、置いてあったナイフを見つけて眺めた。


「ほう、こいつが縛っていた物の名残りか……うん?」


そして内心が外にはみ出ていることにも気づいて、あの魔女の面倒な性質というやつかと彼は、また面倒をあいつ引き起こしそうだなと呟いてから、重力の反転にも気を付けて、ちょっとした転移魔法を逆転し、錆まみれの刃を引き寄せる。

それから彼は、その正体を見て胸中の火山に火をくべる。


なるほどな、出すためにはこちらから行かねばならんというところか————やはり面白い。


「だが————こんなものを残すとは見損ねたな、英雄よ」


そしてかつてと比べればほんの僅かの呪詛で、かつての輝きすら持たぬそれを握りつぶし、中の呪いをすべて吸い取る。

本来は彼のものだったが、今は愚かなほどに甘ったるい沼水だった。


「まあ仕方あるまいか。奴とて人間の端くれ。調べねばわからんというものはあるだろう————真に塵芥へと戻すべきなのは、これを産んだモノ、使ったモノ。聖女の祈りすらも全き逆さへ変える、愚かしさのみよ」


オクニスは翼を広げ、少しだけ大きくなった体を確かめる。

呪いの根源でないそれは、まるで昆虫の羽をステンドグラスにしたように折り重なり、陽光を様々に煌めかせて麗しい。まだ二百に至る前のころの姿だろうか。ならばその時に握っていたものは————彼は呟く。


「すまんなダニオレス。まだ我は貴様に安寧一つやれん」


そしてまた、その先へと羽ばたく。


あれはかつて自分と戦った英雄の剣の一部だったが、彼の顛末までをも絡めた縛りには、もうその静謐な正しさなど残ってはいなかった。当たり前に見える普通の刃が、それを焦がすほどに邪悪への怒りをたたえていたからこそ強かったのだ。それをそこいらの刃傷沙汰程度に貶められれば、やつも浮かばれまい。


「悪いな、我は敵も討てん————だが、代わりに出来る者ならば、ひとつある。許せよ、英雄」


もうここを見る価値などないだろうと、彼は飛び去っていった。

だから英雄は嫌いなのだ。力を持てば疎まれる。なのにそれを、誰かの為に振るおうというのだから。


けれどあいつは————。



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