第4話

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真っ黒を唾液で塗りつぶした汚さを足し合わせて、部屋の中に生まれた恐るべき力のカケラが鱗のように寄り集まって、現れるのは邪悪のワイバーンだ。


それも山一つ二つなら簡単に消し飛ばせそうな力を中にひそめているのがわかる、小さい部屋の中に身体を折って収まっているだけの、世界を壊す竜種————きっと伝説などに伝えられる邪竜といったところだろうと力の差だけでわかって、ニタは恐れる。


こんなものにどう対応すればいいのだ。


彼は不可能を理解して、冷たく冷たく自分の命のカウントを始める。


「やっぱりそうきた。じゃああのナイフは搾りかすってところ————だとしたら、だとしたら…………?」


けれどそれをどうこうするつもりもなく、イジンは自分の考え事をしているのであった。対等な立場だったら、今やってるのはほとんど自殺なんだぞと声を荒げておきたかったが、目の前のそれに何か目をつけられたらと思うと、それも出来なかった。


少年はなんでこんなものがこの場所にと、イジンを恨む。


最上級といえばドラゴンで、それらと比べればなんてことはないとはいえ、それでもワイバーン、竜種なのだ。

国の十数個は簡単に消し飛ばせる化け物なのだ。


なのに。


「多分これも残ったゴミね。だったらまあ、そのうちどうにかなるでしょう。ニタ、引き上げるわよ」


目の前のイジンは、全く気にも留めないで煽りに煽るのである。


「ちょ……先生!さすがに煽りすぎです!呪いの竜ですよ!ちょっとは恐れてもいいじゃないですか先生!」


ニタは竜とイジンの顔を何度も見直して、少しずつ怒りをあらわにする竜の顔に恐怖を覚えて止めにかかった。分類としては呪怨のに入るだろうし、呪いについては確かにイジン以上に扱えるものなどいない。けれどそれでもそんな扱いをできるのか?本当に大丈夫なのか?なんでだ?


「というかなんでそんな風にできるんです!だって!」


彼が一つツッコミを入れたところで、そろそろ怒りを表してもいいかなと竜が唸る。


「……貴様ぶち殺されたいのか?我邪竜ぞ?おい女、もうちょっとは崇めてもいいんだぞ?我暗黒竜ドンディスペルクナ・オクニスだぞ?」


声のトーンは全部、身体の色以上にどす黒い低音だった。


「ああほらマジギレしてるじゃないですか!いいんですか先生!僕まだ死にたくないんですよ!」


「おお分かってくれるかそこのガキ。そこの女の名前を教えてくれたら特別にお前だけは赦そう。我が呪いの力をもってすれば貴様らどころか街一つの人間全て皆殺しにするのは簡単なのだからな、ちょっとは敬ってくれるがいい。そうだな、尊き我の敬称としてドン・Oというのを下賜してやろう。さあ教えるがいい」


それは存外な親しみやすさをもって、ニタに答えてくれる。

それでも荘厳さと殺意、圧力を兼ね備えていて、これが教会から聞こえてきたなら神々しさすら帯びていただろうと思えるほどのだった————声すらも呪いから始まっているのだろうか。


「いいんですか!先生!言っちゃいますよ僕!ドン・Oさんに!」


耐えきれなくなって、ニタはそう吐き出した。


「え?別にいいわよ?」


もちろんイジンは気にも留めない。


「良いんですか!イジン先生!」


だからニタは、そう名前を言ってしまう。

呪い相手には、隠すべきという名前までもを、ついに吐き出してしまう。


名前とは、この世界で初めての呪いだ。生きている限り自分と自分でないのを分けねばならず、自分でない何かを一つに決めなければ自分すらも分からない。だから名前というものは、呪いにかかわるなら明かしてはいけない。

だから呼ばれて雑に自分の名を明かした竜は、かなりのやり手かただの馬鹿かのどちらかが決まったかのようなものなのだ————それを弱い方に見る理由があっただろうか?


少年は何が起こるか怖くなって、数歩後ろに下がった。もうどう見ても彼にどうこうできるレベルではなかった。魔法瓶は既に呪いを吸い込みきって満タン、それでも足りない。自動発動の自己防衛機能が無力化されるほどなのだ、勝てるわけが。


なのに、だからこそ。


「ええ。大丈夫よニタ。もう全部終わっているから」


だからこそイジンは全く気にしないで、息を吐いてヒールを鳴らすのである。


「言ったな女……貴様は楽に殺しはしない。21億の時間の暗闇の中で、いつとも知れぬゼロの音へと目を閉じるがいい!」


当然竜は怒りを込める。邪な感情を込めれば込めるほど、当たり前だが呪いは強まる————思いの強さというのが呪いの強さでもあり、長く抱えてきた復讐が死で終わることもそうだ。それに元来の厭われてきた黒鍵の虚空が重なり合えば、ほんのわずかな時間の他生すらも殺せるほどになる。


イメージとして抱くどんよりとしたものが実体化し、目に映る恐ろしい影になるほどだ————暗黒竜と自ら名乗るだけある。それはまっすぐにイジンへ向けて襲い掛かる。余波が無数の雨になって、ニタにも叩きつけられた。


「てててていててえ!!!!」


きっと威力の数千万分の一らしいそれでも、雹かと勘違いする痛みだった。音を上げねばならぬほどの痛みと圧力。

けれどそれが通り過ぎたなら、着弾点にあがる真っ黒い煙の中身について、一つ二つは気にかけねばならなかった。


余波でこれなら、本命を受けた師匠は。


しばしの静寂が流れると、ニタはその中に誰かがいないことを恐れて走り出した。


「……師匠!師匠!大丈夫ですか師匠!」


「無駄だ。生物として人間には耐えられる呪いの量ではない。100年も年月を重ねられぬモノの定めよ。ちっぽけで矮小な姿と見て侮ったか、魔法かぶれごときが」


「師匠……?師匠!イジン先生!」


ほんのちょっとの部屋の先、だけれど無限に遠い先。手を伸ばせなかったら二度と届かないと思えそうな虚無の先、ありとあらゆる失敗の先。


「仕方あるまい。奴は我が尾を踏んだ。恨むのならば少し慣れたからといってなんでもかんでもできると付け上がった、お前の師の目の悪さを呪うがいい。もっとも、呪いは我が肉体でしかないがな!はは!」


「そんな……そんな……イジン……先生が…………!」


ずっと返事が返ってこないのが、本当にそうなってしまったように思えて、彼はその場に崩れ落ちた。感情で感覚がマヒしたからか、ほとんどひざなどに痛みは感じなかった。そんな、こんなところで、先生が?


「……ドン・Oさん…………」


彼は、できるなら蘇らせてくれと言いかける。殺した相手にそれを願うなどなんということだと、すぐに諦めて静かに倒れたくなる。


「なんだ。何をやっても蘇りはせんぞ。生きることは常に一方通行、動きしものはいつか静まりぬ、だ。だが…………?」


けれど、竜が何かおかしいと気づくのと同時に、彼も理解するのである。



重力がない。まるで逆さまの力で打ち消されているように————!



そう、それをしているのは、当然。



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