第2話

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逆さま魔法使いと言っても、外でまで上下逆さまではない。この世には逆さま粒子と逆さまじゃない粒子があって、逆さま粒子の濃いところでは逆さまに、そうじゃないところでは普通になる、とイジンは言っていた。


イジンそのものは逆さま粒子そのものであり、同時に逆さま粒子を放出している。逆に普通の人間は逆さまじゃない粒子を放出していて、結果として釣り合っているのだと。ただ家の中のような閉鎖空間ではそれらが入れ替わって、最終的には逆さまになってしまうのだとも、同じくである。


つまり今の彼女は地面を歩く、少し見慣れない風貌の女というところでしかない。ただ問題は一つだけあって、それは————。


「クソ熱い日よねぇ。ほんと、なんでこんな日にクソみたいな呪いの武器作るのかしら。ほんとやってられないわよねぇ、ニタ」


家の中では思ったことが誰かに伝わることであり、彼女はほとんど家の外から出ないゆえ、慣れ切っているせいで、口が死ぬほど悪いということであった。


「イジン先生、外ですよ。少しはクソとか抑えてください」


石畳をコツコツと歩く二人は、イジンの方が頭一つ分ニタより高い。まるで母と子のようであったが、明らかに違う髪色が二人を、血縁ではないのだと示していた。

ニタはどこにでもいるような青年、イジンはこの世ならざる近づいてはならない異形のもの。そんな風に思えるだろう。


イジンがそうしてにガラクタのように声を出す。


「しょうがないじゃないの、クソ暑いのはクソ暑いんだから事実よ。事実を事実って言って何が悪いの?誰に聞かれるわけでもないし、口にするなんて」


そんなこと思っていたのか。全く、この師匠は。


「聞かれるんですよ。ここは家の中じゃないんですからね!」


「……あ、そうだったわね…………失敬失敬、クソなやらかししちゃったわ」


「ほらまた……いつもクソクソ思ってたんですか?家の中で。表裏ないのがいいところって言われましたけどね、それって先生は裏表バリバリってことじゃないですか。まったくもう」


「……裏表ないの、存外悪いことだったわねぇ……」


ふふっと息を吐き、彼女は日傘をわずかに上下。銀の光が雨の後だったのか、少し反射してより輝いて見えた。まるで魔導結晶のプリズム。同じように言葉もいくらか移り変わる。いろいろ変わって、イジンが問いかける。


「それはそうと、行き先はエルムの中央で良かったかしら?」


イエスと答えて、深い紫と新緑の花々が並ぶ道を、二人は歩いていった。生えたばかりの新芽が露に重なり、初夏のさわやかさを二人に示すようだった————遠くに見える家々も、心なしか蒼んで見えた。


活気よりも吹き抜ける風が心地よく、呪いのナイフの為に動いているとは思えないほどだ。まだ時間は昼下がり、人々が動いている時間だろう。


「はい。住宅地のあたりでして……住人が首を吊ったままで発見されたらしく、大騒ぎになってたところで呼ばれて、解呪しに行ったら化け物が、って感じです。そんでもってそっちの解決はしたんですけど、ってところですね」


人通りのいくらかが、運び屋か移動かだろうと思える速度で消えて行った。残りは多分休みか冷やかしだのか。二人はマルシェに入りかかり、腹は減っているのとイジンが問いかけたので、ニタは否定して話を続けた。


「それで……確か、借金がどうとか、というところ、で…………」


声がかかるのをいちいち断りながら、彼はとぎれとぎれに言葉を紡ぐ。めんどくさいとイジンが何ぞの魔法をかけて、それをフィルターにかけたように聞こえなくした。


「ならまずはそこの交友関係から行くとしましょうか。まずは雑にどんなヤツらがいるの?」


そして彼女は、自分の食事は欲しいけどと屋台に立ち寄る。


「そうですね……まず……」


しょうがない人だと思いながらニタは、財布にいくらあったかなと銭を見てから、売り子の顔を見て気づく。細い線ではあるが全体で細いわけではない、矛盾したような中肉の女————とはいえどこかに不思議な魅力を隠していて、ミツバチの巣のような甘さをたたえている、この女は————!


「悪いわね、ちょっと腹減っちゃって……バカほど腹にたまらなくていいから、長持ちするやつあるかしら」


そんな彼女に汚言混じりでイジンは注文していたので、ニタは驚いてちょっと待てとブレーキ。いきなり何をしているんだと突っかかるのだ。


「待って師匠!まずとかそういうんじゃない場合です!この人です!この人その死んでた人の奥さんです!師匠!なんでいきなり大当たり引いてるんですか師匠!この人ですよ!」


首をつっていた男、ダッハ・ジェラールの妻。ローラン・ジェラールと言っただろうか。なんでそんなのがこんなところで屋台の売り子なんて……?もともとは宿屋を夫と子どもらと営んでいたはずだったのに……?


何を別にと、イジンはそれを気にも留めなかった。


「そんなこと何度も言われないで分かってるわよ。呪いの臭い一番濃いんだから」


「わかっててやったんですか!」


「わかっててやったの。あ、ありがとうね。これ、おつりはいいから」


うるさい弟子を制止し、彼女はハニーサンド一口齧ってから、砂金を一包み放り投げる。雑に1か月分の生活費にはなるだろう。そんなのをどうしてポイと?とニタは呟いて、それを見る。


「うん、うまいわ。竜の心臓くらいうまい。いいテクね、私の料理作らない?」


そんなこと気にせずイジンは消滅させるように食べ終えると、ハンカチで手と口を拭ってから肩をすくめた。


「ちょ……イジン先生!いきなり何を!」


「あらあら……ありがたいですけど、私はここが気に入っていますから」


ニタの苦言を全く気にせず、売り子ローランはイジンに微笑みかける。


「そう。ならこないだ亡くなった亭主にでも差し上げてくださいな。どこの誰がクソみたいな呪いをしたんだか。ご愁傷様ですわね」


「そうですね……では、ありがたく受け取りましょう。本当に本当に、その時はいろいろと大きなことが重なりましたから…………」


「大きな事、というと?」


「どうも何か悪いものに憑かれてしまったようでしてね、少し前に解呪師さんを呼んだのですけれど……その人でも手間取るくらい、強いのだったらしくて。大けがをしてほうぼうで終わらせてくれました……」


「ああ、それって僕のことですね……って、聞こえてます?おーい!」


その当人が目の前にいるのに、全く知らない様子で彼女は言葉をつづけた。


「本当にあの時は大変でした……。それで、古びたナイフを持って行って、これが悪いんだって血を流しながら持って行きましたよ。ええ。本当にその時は……」


「あらあら……それは本当に大変でしたねぇ……お察ししますわ」


イジンはそれから、一通りを聞いてからニタに呟く。


「認識阻害よ。今のあなたは透明人間みたいなもの。あなたが話すのもあなたに話すのも聞こえないわ————さて、ありとあらゆるところから聞いていくわよ。あなたがこの人の家で解呪した時の日のことを、全部ね」


そしてローランに手を振り、二人はまたマルシェを歩いていく。


その姿もすぐ、一人に見える。

それから女の姿も雑踏に紛れる。誰もいないような、不自然な空白が進んでいく。



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