さかさま魔法使いと呪いのナイフ

栄乃はる

第1話

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 僕の師匠は、全部が全部逆さまだ。


 街のはずれにある家だって、完全に上下逆さの形をしている。屋根を半分地面に埋めて、天窓のところに上下逆さのポーチと玄関ドアがある。そこから中に入ってみれば、床————というか天井には何もない。当然のことながら彼女は天井————こっちでいう床を歩いて暮らしていて、奥の方からのそりと出てくるのだ。


 当然テーブル、棚、机。ありとあらゆる家具だって上下逆さ。もちろん家の中の空気だって逆さま。吸うかわりに吐かないといけないし、吐く代わりに吸わないといけない。そして言葉にする代わりに思わないといけなくて、思うかわりに言葉にしないといけない————だから、彼女の前では嘘は付けない。

 何も考えていない限り、人間は真実しか思えないからだ。


 だから。


「おやすみ、ニタ。今日もめんどくさい顔してやってきたねぇ。仕事だろ?何持ってきたんだい?」


 彼女の言葉は、逆に嘘をつけるようになった内心であるのだと、ニタはいつものように息を吐いた。


 ぺたぺたと天井を歩いてくるのは、今ちょうど寝たばかりという様子の女。髪の色は当然なく、色素というものも逆さまらしい真っ白。肌の色も同じだけれど目の色だけは死んだように黒く、それに似合うように真っ黒いローブを纏う姿は、ナイトキャップと合わさって魔女そのものだ。


 漂うどこか胡散臭いところも、どこか人間離れしているところも合わさると、幻想のようにも思える。だからニタは、むしろ安心できて口を開くのである。


「おやすみなさい、師匠。今日はですね、解呪が2つと……」


 そして少年はそのまま、彼女の家へと入り込む。当然普通なら天井に落ちるけれど、すぐに上下反転の魔法をかけてもらって、彼は魔女と同じように床へひっくり返る。そこで慣れた落下をして、しりもちをついて痛みをこらえ、彼は立ち上がる。


 いつものことだ。入れていた自分の瓶詰が割れていないのを確かめてから、彼は彼女の食事————呪い、毒などの詰まった魔法瓶を取り出して、テーブルに置く。それから古ぼけたナイフを一本取り出す。


「今日も面倒な仕事、持ってこさせられました……その前にお食事ですよね、どちらからなされます?」


「その前に」


 すると彼女は取るに足らないなとナイフ以外を軽く開けて、ゴクリと全部飲み下した。

 両方とも悪くすれば、人が数人は死ぬくらいに溜め込んだ邪悪。けれど彼女にとっては少し軽い朝食程度————それを指で拭って、彼女は指をパチリと鳴らした。そうすれば魔法瓶の残滓が完全に消滅し、色が消え去り完全に解呪されるのだ。彼女は欠伸をしてから続ける。


「ねえ、ニタ。いつも私のことはイジンでいいって言っているでしょう?これで12度目よ。思うのはいいけれど、ちゃんとそういうのは口に出しなさいな」


 そしてムスリとして見せると、肩まである髪が緩く震えた。すくめたのに魔力でも触れたのだろう。30、40ほどに見える彼女は、あまり深刻じゃないからいいわよと息を吐く。ニタははにかむ。


「ごめんなさいイジン先生……外で生活してると、普通は口に出したことが思うことなのでつい……」


 彼はそれでも敬意は示したく、先生とつけて呼んでやる。それは許されて、イジンが手を伸ばす。


「いいのよ、表裏無いのがあなたのいいところだから。そうであることは、いつまでたっても難しいこと。まだそうであるのは、あなたの美点。外ではそれ、いつもありがたいから————ま、それはさておいて。お仕事の話しましょう。今日のは何?」


 続いて細い指が、錆まみれのナイフをつまんだ。


 先生、というのはいいんだ。本当にいつも、不思議なひとではある。ニタはそれを軽く見てから、肩をすくめて彼女に伝える。


「その前に……このナイフ、いつの時代のだと思います?」


 それを受けてイジンは、少し雑に考え込んだ。


 上下反転の魔法にある程度反発しているそれは、見かけに反して羽毛程度の重みしか感じられない。

 古ぼけているにもかかわらず、明確な赤さびの塊がないのも気にかかるところだ。なにかに守られていたように、黒錆のところどころが赤い程度でしかない。新しいのだろうか?けれど、どこか漂っている雰囲気としては————。


「見かけは新しいわね。土にうまってたとしても、長くて5年ってところかしら。でも使われていたみたいな感じはあるし……作られて15年、というところでしょう」


 そのくらいで、イジンが近しいところで間違う。

 さすがに彼女でもここまでは読み切れないだろうと思っていたから、ここまで精度高いとはとニタは息を吐き、答えた。


「120年前だそうです。それも100年くらいは土に埋まっていて、掘り出されたのが15年前、それからずっと使われて、5年埋まっていたというのです————すごいですね、掘り出されてからの年代はぴったりですよ」


「あらあら、目利きをはずすなんて……面白いわね。でもそれがどうしたの?それだけじゃあ、私にかかるような大問題ではないはずよね。どんな面白いのがあるのかしら?例えばそれが、実は呪いを無限にまき散らす危険なナイフだったりとか?」


 彼女は珍しく、きゃいきゃいと静かに手を叩いた。薄い唇が緩く持ち上がり、ここまで来たならとだいたい察しているのを暗に示す。


「すごいです、それもぴったりですよ……!これ、使った人が呪いの塊になって化け物になるっていうらしいんです。それで……」


 そしてニタが続けるのを、彼女は遮って微笑む。


「なるほど、わかったわ。それでその化け物をどうにかしろってのがお仕事なんでしょう?でもそれならこんな悠長な頼み方はしてこない。私の方に直接飛んでくる————さしずめその子、どこかへ逃げちゃったってところ?」


「すごいすごい!それもその通り!それでなんですがね、ししょ……イジン先生」


 するとニタはナイフを取って、大事なことなんですがねと呟いた。それは当然聞こえなかったが、どういうことなのかだけはだいたい伝わる。彼女はその手を取って、身体を少年に寄せて聞く。


 イジンの手が、静かに呪いを感じ取る。

 ああ、そういうことか。彼女は呟く。


「ここまで来れば御察しでしょう。やられました」


 そこまで強いわけではないが、後を引くタイプの呪い……ジワジワと肉体を呪いの結晶に変えていくタイプの物だろう。ただそこまで強いものではない。せいぜいがワーウルフ程度の理性と野生のモンスターになり替わるくらいだ。しかし呪いの防御の十全な彼を呪える、というのが本当の問題か————。


 軽く1世紀を生きる魔女の弟子なのだ。そのくらい出来なければ。

 イジンは状況を確認させろと示す。ニタは受け入れる。


「やれるだけ防護はかけておいたんですけどね、最後の最後でざっくりされちゃって……解呪も試したんですけど、僕じゃ手を出せないところに生えているみたいで」


 長袖の下の傷跡が、露わになる。一直線に伸びるそれからは、幾何学的な何かの手の文様が続いて、彼の体の方にもきっとあるとわかる。治癒から考えて、ここ数日のことだろう————ということは、あの魔法瓶の中身は途中のアレか。


「……おそらく心臓ね。追い詰めたポチはドラグーンより凶悪。命を代償に支払ったというところかしら————吸い取り切れなかったのかしら。少し待ちなさい」


 だったらとひとまずの処理として、彼女は彼の手に口づけをする。本当に本当に、軽い軽い冗談のようなキス。けれども力を抜き取られるような、痛みと快楽の混ざり合った不快な接吻。


 ぐにゅりと彼の腕のスティグマが歪み、彼女が顔を離すとそれは輝きを放つ。


「……っ!」


 傷口から獣の手が伸びる。イジンが顔を離し、それを手に握る。真っ黒いギザギザの粒子伸びた、憤怒や怨念で出来た恐るべき煙。しかしそれも彼女にとっては。


「私の弟子によくもやってくれたわねぇ」


 軽く潰すとそれは完全に霧散、家の空気に消えてしまう。もう完全に無害に成り果てて、ちょっと輝くマナのようだ。

 それを吸い込みきって、彼女はニタを向いて続ける。


「解けたわ。でもこれで終わりじゃないでしょう…………行くわよ」


 そして珍しく玄関へ立ち、自ら扉を開けるのだった。


「私の弟子をこんなにするやつがいる。ならぶっ飛ばしに行かなくちゃ」


 ガチャリ、上下逆さまの外が広がる。久方ぶりの外出が始まる。


「あっ」


 そして忘れていた彼女は、ドタリと上下逆に地面に転がる。



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