第六話 空飛ぶ魚と苦い涙

 アリスとダストを繋ぐ魔力はフェイスの呼びかけでプツリと切れた。アリスの集中が途切れたためだ。


「魔力を繋いだまま意識を引き戻すなんて、『命を煙突に置いてこい』って言ってるようなもんなんだよ! おい、アリスっ!! まだお前の仕事は終わってねぇ! 戻って来い、アリス・ヘンドリッジ!!」


 リュゼは渾身の力を込め、アリスの名を呼んだ。

 その時、薄い瞼がピクリと動き、すぐに不思議な色の丸い瞳が姿を現した。パチパチっ、と驚いたように目を瞬かせたアリスは、

「――っえ、な、何っ?! ダストは……?」

 と、まだ状況を掴みきれずに戸惑いの声をあげた。


「はぁ……まったく驚かせんな。早く起きろよ」


 安堵交じりの文句を口にしたリュゼは、すぐに青い顔をしているフェイスをギリッと睨みつけ、思い切り怒鳴った。


「――クソったれ! あんた、こいつを殺すところだったんだぞ! どうして『待て』と言われたことを守らなかった?! どうせ煙突掃除人だからって下に見てたんだろ。こっちはな、命懸けで仕事してんだよっ!」

「お、俺はそんなこと……」

「リュ、リュゼさん。わ、私は大丈夫です。だから落ち着いてください……」


 徐々に自分に起きたことを理解し始めたアリスは、憤るリュゼを何とかなだめようと試みた。一般人が「魔導煙突掃除人の作業中に意識を引き戻してはいけない」なんて知るはずないのだ。 


 アリスがさらに口を開こうとした時、フェルナンド夫人の呟きがぽつりと落ちた。


「ねえ、この音、何かしら……?」


 ハッと、全員が耳を澄ました。確かにどこからか「ゴゴゴゴゴ……」と地鳴りのような音が響いてくる。


「――ちっ! 逆流か。 どけっ、このバカ野郎!」

「リュゼさんっ!? 逆流って……!」


 誰よりも早く反応したのはリュゼだった。再びフェイスを押し飛ばし、リュゼは排出装置の前にブラシを掲げて立った。


「リュゼさん! 危険です、早く避難を!!」


 アリスはリュゼの発した「逆流」という言葉に一気に血の気が引いた。ダストの逆流は暴発に次ぐ危険な状態だ。アリスの作業によってダストは外に流れるはずだったが、中途半端に誘導されてしまったせいで排出装置側に戻ってきてしまったのだ。


(排出装置はダストの逆流に耐えられる仕組みになっていない! 私のせいでこのままじゃ排出装置の中でダストが――)


 だがリュゼはアリスと目が合うとニヤリと笑った。


「おい、新入り。良く聞きな! 『逆流』はあたしの得意分野なんだよっ!」


 リュゼの掲げたブラシの先が輝き始めた。みるみるうちに光は激しく渦を巻き、その中に大きく黒い影が現れた。


Dive Piscisディーウァピスキス! 押し返してやる!」

「――これは!?」

「まぁ……綺麗」


 リュゼの叫びと共に振り下ろされたブラシから飛び出したのは巨大な魚群だった。魚群は激しく輝きながら排出装置の外壁をすり抜け、中に吸い込まれていく。


 気づけばジョルナンデ夫人はハラハラと涙を流していた。あとで聞いたところ、リュゼの生み出した光景に深く感動したらしい。


 感動するのも無理はなかった。

 リュゼの生み出した光の渦はまるでラピスラズリを煮詰めた神秘的な深い海の底のようであり、生命力に溢れる魚群は海底に差し込む太陽の光を思わせた。

 見る者の心を震わせる。リュゼの「魔導煙突掃除」の技だ。


 ジョルナンデ夫人とフェイスがぼうっとその光景を眺めている間、アリスもまたリュゼの放った技に声を失っていた。


(す、すごい……。普通は外からの情報を遮断するほど集中しないと魔力を操作するなんて出来ないし、そもそも見えること自体ありえないもの。レベルが違いすぎる……)


 皆の心に深く感動を残したリュゼの技は、またたく間に目の前から消えていった。魚群が完全に排出装置に吸い込まれていくと、辺りには静寂が訪れた。


「……ふう、どうだ? 音はまだ聞こえるかい?」


 魚群の消えていった排出装置を呆然と見つめていたアリスは、リュゼの声で我に返り、慌てて耳を澄ませた。


「し、しません……」


 排出装置に駆け寄ると、先程まで発していた異常な熱はすっかり消え去っている。煙突の中に意識を集中させると、すっかり詰まりも無くなっていた。


「リュゼさん、ありがとうございます。私、足を引っ張ってしまって……」


 集中を解いたアリスは屋根裏部屋の窓から顔を出しているリュゼに、おずおずと声をかけた。だがリュゼはそれには答えず、窓から空を眺めたままアリスを手招きで呼び寄せた。


「そんなことより、ほら見な。あんたの初仕事、完了だ」


 リュゼに呼ばれるまま、アリスは窓から顔を出した。隣の窓からはジョルナンデ夫人も同じように顔を出して空を見ている。フェイスは少し離れたところで相変わらず仏頂面を浮かべていた。


「すごい、きれい……」


 空を見上げたアリスの目に飛び込んできたのは、空に泳ぐ魚の群れだった。

 ジョルナンデ家の魔導煙突に詰まっていたダストを導くように、リュゼの生み出した魚群が泳いでいた。空という大海を気持ちよさそうに泳ぐ魚の群れは、チムフィッズの町の上できらめいている。


「……くくっ、あんた悔しいだろ?」

「……はぃ、くやじい、でずっ」


 リュゼの問いかけに答えるアリスの声は涙混じりだった。いつの間にか零れ始めた涙は苦く、アリスは分厚い瓶底メガネで真っ赤になった目を隠そうと試みた。


 そんなアリスにようやく目を向けたリュゼは、心から楽しそうにニッと笑い、そしてまた空に視線を戻したのだった。


「よし。明日からも一緒に働こうな、新入り!」

「……はいっ!」


 こうして、アリスの初仕事は完了した。空に泳ぐ魚の群れときらめくダストは、苦い涙と共にアリスの心に深く刻み込まれた。

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