第8話 補殺
9回裏2アウト1塁。点差は1点。この回を抑えきれば野球部創部以来初の県大会ベスト16へ進出だ。
しかし簡単にはいかない。
2ストライク後、高めのストレートにつられたバッターが空振りをした。三振! だがゲームセットにはならなかった。ボールはキャッチャーミットを弾いてバックネットに向かって転がった。バッターが一塁へ駆け抜ける。いわゆる振り逃げというやつだ。バッテリー間のサインミスのようだった。緩い変化球を待っていたキャッチャーがストレートに反応するのは難しい。
9回裏2アウト2塁1塁。1塁のランナーがホームに帰れば逆転サヨナラのランナーになる。
一年前と似た状況になった。ただ今年の方がアウトカウントがひとつ多い。
神林恭一郎はこの戦況をベンチから見ていた。
イップスはまだ完全には治っていない。その強肩に比類はないが、練習でも十回に一、二回はスローイングが大きく乱れる。総合的な確実性から中瀬がライトのレギュラーポジションを獲得した。もちろん中瀬をはじめ外野陣は、互いの競争の中で大きく成長した。もし恭一郎のスローイングに問題が無くても、ポジション争いはやはり熾烈であったろう。
恭一郎は緊張していた。脈拍が早くなり心臓がどくどくと鼓動するのが聞こえるようであった。胸が締め付けられるように痛い。グラウンドの仲間を鼓舞すべきなのだが声が出ない。立ち上がると足が震えそうだった。
「神林!」
設楽監督が恭一郎を見た。恭一郎は反射的に立ち上がった。やはり足が震えた。
「はい」
「中瀬と代われ」
「…はい」
「自信がないか?」
「…いえ」
「俺たちはオマエを信じてる。オマエも信じろ! 行って来い!」
「はい」
恭一郎はベンチを飛び出すとライトに向かって走った。
セカンドの君嶋が拳を突き出して笑いかけてきた。恭一郎は笑みで応えたつもりだが、顔は引き攣っていた。
ベンチに下がる中瀬が正面から近づいてくる。
「任せたぞ」
中瀬が右手で拳を握り胸をドンドンと叩いた。
恭一郎はすれ違いざまに右手を少しだけ上げ、それに応えた。
「恭一郎!」
通り過ぎた中瀬から叫ぶ声が聞こえた。恭一郎は驚いて振り向いた。
「任せとけって言え」
「え?」
「言え」
「…任せとけ」
「もっとデカい声で、任せとけって言えよ!」
「任せとけっ!」
中瀬の日に焼けた黒い顔に白い歯がこぼれた。
「任せたぞ」
中瀬はくるりと反転し再びベンチに向かった。
ライトのレギュラーである証の背番号9が揺れながら走り去って行く。左の袖には主将の文字が刺繍されている。この重要な局面で交代を告げられた悔しさを中瀬は感じているはずだ。それでも恭一郎を鼓舞し、笑顔まで見せた。
恭一郎はいま、中瀬と共にライトのポジションにつくのだと感じていた。
難しい局面だった。2塁ランナーはさして足が速くない。むしろ遅い方か。1塁ランナーは駿足だ。バッターは3番。ここまでは野手の間を抜くしぶといバッティングで2安打しているが、長打力もある。外野が極端な前進守備をすれば、簡単に頭を越されそうだ。そうなれば1塁ランナーまでホームに還り逆転サヨナラとなる。外野手は定位置にポジションを取った。
セットポジションからピッチャーが1球目を投げた。キィンという打球音が響き打球は一塁側スタンドに飛び込んだ。恭一郎はそのファールで自分が打球に反応し切れていないのがわかり不安になった。2球目ボール、3球目もボール。4球目、再びキィンという打球音とともにボールは一塁側スタンドに入った。ファール。浮足立っているのかまだ打球に反応し切れていない。胸の高鳴りが治まらなかった。
――頼む、こっちに飛んでこないでくれ。
カウント2ボール2ストライク。
セカンドの君嶋が右手の人差し指と小指を空に向かって突き立て、ツーアウト! と内外野の野手に叫んだ。そうだった。ツーアウトだった。アウトカウントも飛んでいた。
君嶋はホームに向き直る前に恭一郎と目を合わせると、ニコリと笑い胸の前でひらひらと小さく手を振った。恭一郎はそれに応えて胸に手を当て大きく深呼吸をしてみせた。
恭一郎はその瞬間、すうっと視界がクリアになり、外野の芝にしっかりと足が着いているのを実感した。相変わらず胸はドキドキとうるさいが、ふわふわしていた身体に芯が通ったように感じたのだ。
5球目。
ギィン
少し詰まったような鈍い音とともに、打球が1、2塁間を襲った。セカンドベース寄りにいた君嶋が必死に飛んだが、ボールはそのグラブの先を抜ける。鈍い打球がライト前に転がってきた。恭一郎はダッシュでボールを迎えに行く。2アウトなので打つと同時にランナーは躊躇なく走り出している。
打球が遅い。もどかしい思いのまま恭一郎はダッシュしながらボールとランナーを見た。2塁ランナーはすでに3塁を蹴っている。
ダイレクトにバックホームするか、それとも君嶋に中継するか。ダイレクトにすれば時間はかからないが正確性に欠ける。中継を挟めば時間はかかるが正確なバックホームが出来る。君嶋の強肩はチームで三本指に入る。
君嶋は…通常よりホーム寄りの遠い位置で恭一郎とホームを結ぶ一直線上にグラブを構えていた。
ランナーの足、向かい風、捕球位置、そして自分の肩。
恭一郎は君嶋に中継することに決めた。グラブで捕球したボールを素早く右手に持ち替える。
「君嶋っ!」
ダッシュの勢いのまま、全身の力をすべてボールに伝えるようにして恭一郎は腕を振った。
恭一郎の右腕から放たれたボールはグラウンドと平行に糸を引いて君嶋のグラブに吸い込まれ、半身で恭一郎の送球を受けた君嶋はノーステップで、くっと上体を捻ねる小さなモーションから速くて正確なバックホームをした。
送球はキャッチャーが構えたミットに正確に収まり、そこにランナーの足が滑り込んできた。ここしかない、というバックホームだ。
「アウト!」
主審の右手が力強く挙がり、そのコールが球場に響いた。
ゲームセット。
嬌声、歓声、どよめき。
スタンドが揺れた。
送球の勢い余って外野の芝に転がっていた恭一郎は、正座した姿勢でホームベース上の歓喜と悲哀を眺めていた。まるで優勝でもしたかのように何度も飛び上がりながらベンチから飛び出してきたのは中瀬だ。うつむき加減にベンチから出てくる相手チームとは残酷なコントラストだった。
今年の夏が続く自分たちと、この夏にひと区切りをつけた相手チーム。
しかし僕らが過ごしたこの夏に優劣の違いはない。
恭一郎は入道雲の湧きあがる暑い空を見上げた。
「恭一郎!」
君嶋が右手を突き上げて叫んだ。
ホームベースを挟んで両チームが整列し始めている。
恭一郎は立ち上がるとホームに向かって走った。
「なにがイップスだ」
君嶋が並走しながら左手からグラブを取った。
「バカみたいな剛速球投げやがって。人差し指がすっげぇ痛えぞ、腫れるかもしれない」
「捕り方が悪いんだ」
「上等だ」
君嶋はニコリと笑うと、治療費請求すっからな、と嬉しそうにつぶやいた。
⚾ ⚾ ⚾ ⚾ ⚾
「騒ぐな! さっさと整列しろ! 中瀬! おいっ、キャプテン!」
設楽監督はそう叫ぶと、仏頂面を作ったままマネージャーの
「まったく、恥ずかしい。優勝したわけでもないのに」
「中瀬くんは主将じゃなくてキャプテンでいいんですか?」
「ん? あぁ、まぁ、あれだ、…中瀬にも補殺の記録をつけといてやれや。あいつも神林に気持ちよく中継したからな」
「はい」
――これが私たちの野球ですね。
三刀屋は口の中でそう呟くとスコアブックにペンを走らせ、笑いながら泣いた。
(おわり)
補殺(アシスト) 乃々沢亮 @ettsugu361
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