第4話 イップス

 強肩が揃った外野陣は心理的にもピッチャーに多大な安心感を与える。外野をやる気はないか。

 監督にそう言われて一カ月以上が経つ。恭一郎は考えさせて欲しいと答えたまままだ返事をしていない。

 監督はイップスに気付いているのだと恭一郎は思った。いや、君嶋が感づいて監督に言ったのかもしれない。セカンドの君嶋への送球の時にイップスになることが多かったし、それでキャッチボールをするのも君嶋と組むのを避けるようになったからだ。以前は君嶋と組むことがほとんどだったから、君嶋も不思議に思ったに違いない。

 イップスの症状は日ごとに悪くなるようだった。今ではファーストへの送球も覚束なくなってきた。いずれボールを投げること自体が出来なくなるのではないかと恐怖を感じる。

 あの試合のあの光景は忘れることができない。しかし自責の深く大きな傷は先輩や仲間の言葉と笑顔で徐々に癒えているはずだった。決して無くならないにしてもだ。にもかかわらずイップスは改善しなかった。

 イップスは心理的プレッシャーやショックが筋肉や神経細胞、脳細胞にまで影響を及ぼし動作障害を引き起こすものとある。傷が癒えつつあると感じている今に至っても、まだ改善どころか悪化しているというのはどういうことか。恭一郎は解決の糸口すら見つからない状況に、どう考えたらいいのかわからなくなっていた。

 ただ確実なのはこのままどっちつかずの状態を続けていれば、チームに迷惑をかけてしまうということだった。



 練習が終わり、職員室に戻る設楽監督を恭一郎は呼び止めた。


「監督。すみません、お話があります」

「うん、そうか。じゃあ」


 設楽監督はそう言うと反転してグランドの方へ歩き出した。職員室の打合せ室で話をするものと思っていた恭一郎は、意外に思ったが黙って後ろをついて行った。

 設楽監督はグランドに入ると三塁側のベンチに入っていった。向かい側の一塁側ベンチでは薄暗い照明のなか、マネージャー達がまだなにか作業をしているようであった。

 設楽監督はベンチに座ると隣に座るよう恭一郎に促した。


「それで、話しとは?」


 設楽監督は一塁側ベンチに視線を注いだまま訊いた。


「僕は、マネージャーになろうと思います」


 恭一郎は思い切ってそうはっきりと言った。設楽監督の視線は動かない。驚いた様子もない。やはり予想していたのだろうかと恭一郎は思った。


「イップスか?」

「…はい」

「やっぱりな。それで野球は諦めてマネージャーになると」


「はい」


 恭一郎は横に座る設楽監督の表情を伺い見た。

 監督の表情は変わっていない。ただじっと向かいのベンチを見ていた。


「オマエさぁ、将来どうありたいと思ってる?」

「え? 将来?」

「そう」

「え、あの、スポーツに関われるような仕事をしたいと思ってます。トレーナーとかスポーツ用品メーカーに入って用具を開発するとか」

「なるほど、考えてるな。でもそれはか、だ。俺が訊いてるのはか、だよ」

「どうありたい?」

「どういう人間でありたいのか。何になりたい、は必ずしも叶わない。プロ野球選手になりたいと思っても必ずしもなれるとは限らないだろ? 努力だけじゃない、資質や環境やもしかしたら運も必要かもしれない。だが、どういう人間でありたいかは自分の気持ち次第だ。朗らかな人間でありたい、ウソをつかない人間でありたい、冷静に考えられる人間でありたい。それは自分の努力と心構えでなれる。まずどういう人間でありたいかが大切だ。何になりたいかはそのうえで考えるべきことだと俺は思っている」

「……」

「俺は人の気持ちを考えられる人間、知識と知恵のヒントを与えられる人間でありたいと思った。教師になりたいと思ったのも、野球部の監督を引き受けたのもそのためだ。俺は運良くなりたい職業に就けた。オマエはどうだ。遠い将来の話でなくてもいい、いまのこの高校生時代をどういう人間でありたいと思ってる?」


(つづく)

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