第一章 春鳴
一
柔らかい薄桃色の桜。雀や鶯の囀りが優しく山を包む。植物に付いた朝露で足が濡れる。春風が頬を撫でる。優しいそれに口角が上がる。ふと後ろを振り返るとそこには若草の生命が輝いていた。
鳥居を潜り山を歩く。栗鼠が杉の木をするすると登って行く。
幾分か歩いた頃、木が生えない開けた場所へ着いた。
再び目を開く。針領は見違えるように春に満たされていた。菫や蒲公英、白詰草等が咲き乱れ、花の絨毯を作っている。薇等の山草も春を告げていた。気付くと、針領にはしとしとと優しい雨が降っていた。それを全身で受け止めた私は小さく笑って言う。
「やはり
針姫山。それは、深山の元の名前だった。由来など、今となっては分からない。ただ、山名が変わる程の何かがあった。それだけは明言できるだろう。
春の神は、
若葉色の羽衣を纏った彼女は、燕に成る事ができる。燕は、この辺りの地域では春の象徴とされていた。燕に成った盟は、木々の間をすり抜け、時には天の高い場所を突っ切りながら空を楽しむ。村の子供達はそんな盟の姿を空に見つけると、大きく手を振った。その姿を見た大人達は言うのであった。
「この村の春は唯一無二だ」
と。その姿を見た盟は一度美しい十五の少女の姿に成り、子供達と遊ぶのであった。男子とはちゃんばらを。女子とは花冠を作ったり、言葉遊びをしたり。皆で歌を歌ったり。その光景は如何にも平和な村の様だった。
盟は何時も鈴を持ち歩いていた。何時、何処で誰から貰ったのか分からぬ小さな美しい鈴。盟が一歩足を出す毎にリンリンと優しく鳴るこの鈴の音は、春にのみ聴ける特別な音色だった。鈴が鳴り響く限り、春は山を包んでいるのだ。この鈴は盟にとっても、他の神々や村人にとっても色々な意味で大切な物だった。
一つは、盟を探す為の目印であったからだ。盟は兎に角方向音痴である。一度歩いた道でもすぐに忘れてしまうのだ。現に三回程村人や山の動物、四季の神々総出で捜索されたこちがある。この三回以外にも行方不明になった事が十数回ある。その度に、この鈴の音が盟の居場所を示す鍵となっているのだ。
もう一つは、危険を示す音となるからだ。春の間、山や村に危険があると、盟は燕に成りこれを鳴らし回る。何時だったか、村近くの川が氾濫した時、盟はこの鈴を鳴らし回った。しかしこの鈴をこの様に使ったのはこの一度だけで、それ以外は迷子捜索の為に使われている。
この様な音の鳴る物は、四季の神々それぞれが持っていて、四季ごとに鳴る音が違う。夏の神は篠笛を、秋の神は三味線を、冬の神は琵琶を持っている。どの音も美しく山を木霊するのであった。
――針領は春に塗れている。紀石の上でそう考える。雀の囀りが心地良い。花の香りも心地良い。陽の光りも心地良い。やはり春は良い季節だ。春の暖かさに溺れて目蓋が自然と下がって来た。
「盟様ー!」
と言う子供の声で夢から現実に戻された。上体を急いで起こして針領の北側を見ると、案の定村の子供がそこには立っていた。針領に人間は入れない。所謂神域だから。人間は直ぐに花を荒らす。植物を踏み暮らす。針姫山の四季の象徴である針領を荒らしたとあらば、それはもう万死に値する。……と私は思っている。そうは思わない神も居るようだが。
「めーいさまーーー!」
子供が大きく手を振っている。
「ああ、左助じゃないか」
あの子の事は知っている。左助と言う少年。何時も神社に来て昂と遊んでいる八つの少年だ。右目の泣きぼくろが特徴の可愛い子供。お気に入りの子供の一人だ。
久々に左助から声を掛けられたからか、少し嬉しくて早足で針領の入口まで行く。……いつもは昂にべったりの左助が私の所へ来たのだ。少しぐらい喜んでも良いだろう。紀石から降りた時、柔らかな花の風が鼻腔を満たした。左助の元へ着いて早々、私は口を開いた。
「久しぶりだな。左助。……昂を探しているのなら、残念だが私は力になれないぞ」
そう左助に言うと、左助は小さな頭を左右に激しく振って言った。
「今日は、違います!今日は盟様に頼みたい事が……」
「私に?」
「はい!」
「何だ?内容によっては頼まれないが」
左助は言葉を遮る様に力強く言った。
「盟様に探してもらいたい物があります!」
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