【エイルの挑戦状7】告白の行方

「ほら、早く登っておいで!」


 朗らかな声と共に差し出される手。

 その手に触れるまで、もう少し。


 ゴーグル越しに見える、少し暗く、強い光を感じさせる空。

 その空を背負うようにして立つ先輩。


 顔は見えないけれど、表情は不思議と分かる。

 こんがりと日に焼けた顔、目尻に皺を寄せて微笑んでいる。

 朝に剃っても夕には黒く生えている髭。


 私はゆっくりと、先輩の掌に自分の掌を載せる。

 グローブ越しだけど、何となく気恥ずかしい。


 ――ばしんっ!


 いきなり肩に衝撃を感じた。


「おいおい、そんなゆっくりしていると置いて行くぞ!

 口は達者なくせして、足がなかなか動かないのはお前の悪いとこだな!」

「うるさいよっ、馬鹿兄貴!

 雪山初心者なんだから仕方がないだろっ!」


 まったく、先輩の優しさを欠片でも持っていればいいのに。

 我が兄ながら、その配慮デリカシーのない行動にはいつもながら呆れてしまう。


 でも、仕方がない。

 こんな兄でも、感謝すべき点はあるものだ。


「よいしょっ」


 バックパックを背負い直し、気も取り直して、再び歩き始める。


「そうそう、それでこそ我が妹。

 口だけではなく足も動く、我らが『行って見探検隊』の看板娘!」


 上体を屈めて張り手をかわし、愚かにもバランスを崩す兄を尻目に小走りで先輩の居る方向に進む。


「さあ先輩、アホは置いておいて、先に進みましょう!」


 フェイスマスクで見えない、なんて関係ない。

 惜しげもなく笑顔を振りまき、きっと先輩にもそれは届くはず。

 そして先輩もまた、朗らかな笑顔で応えてくれる。はず。


 私が兄に感謝している唯一の事。

 それは、私を先輩と引き合わせてくれた事。

 先輩と兄が二人で始めた探検隊、兄との繋がりでそのチームに参加させてもらった私は、いつの間にか正式メンバーとして受け入れられていた。


 そうだ。

 たった三人の学生探検隊だけど、この美しい冬山を征するという目的を果たす。

 そして、今回の冬山登山を成功させてユーチューブ投稿用撮影を終わらせたなら、今度こそ告白するんだ。

 そのためのきっかけだってここにある。

 ポケットに浮き出る輪郭をなぞりつつ、私は心の誓いを新たにした。


***


「先輩、真っ白です!」


 おなかの底から叫んでみるが、きっとこの耳に叩きつけられる暴風が全ての音を遮り攫って行く。

 目の前で揺れる黒い塊のような影、それを覆い隠そうとする白いカーテン


 先ほどまでは強く降り注いでいた陽光は何処へ行ったのか?

 身体を横に流そうとする風に抵抗しながら、必死で足を進める。


 頂上まではあと僅か。

 すでに八合目を過ぎて、もう少しと気合を入れ直したところなのに。


 はぐれないように互いの身体を結んだザイルを頼りに、足で大地を刻むように歩く。

 正面から吹き付ける雪が体中に当たり、バチバチと音を立てる。

 吹き付ける暴風、体が揺さぶられて自分がどの方向に歩いているのかすら分からなくなりそうだ。


 そう思いながら足を踏み出した、次の瞬間。


「きゃあっ!?」


 足の裏を支えてくれるべき大地がいない。

 雪で見えづらくなっていたが、斜面に向かって足を踏み出してしまったのだ。


 バランスを崩して、前方に向かい転げる。

 斜面に体を叩きつけられ、さらに谷底から引き寄せられるように滑る。


 ――びぃん!


 ザイルが引っ張られて音を立てる。

 先輩と兄が崖の上で叫ぶ声が微かに聞こえる。

 まずい、このままでは全員が遭難してしまう――


 その不穏な想像に平常心を失パニックった私は、自分とザイルをつなぐ金具カラビナを外そうとした。外してどうなるものでもないのに。


「大丈夫か!」


 その時、彼女にとって頼もしい声が、暴風の音を割って耳に届いた。


「先輩!」


 先輩はザイルを片手に持ち、急峻な斜面を下りて助けに来てくれた。

 思わず目の奥がツンとする。


 先輩の伸ばした手を取った。


 そして――金具カラビナから手を離してしまった私は、手を握ってくれた先輩もろとも、斜面を転げ落ちてしまったのだった――


***


「大丈夫か?」


 一瞬、気を失っていたのだろうか。

 先輩に頬を軽くはたかれて目を覚ます。


 とたんに耳に入って来る、凄まじい風の音。

 叩きつけられる雪、奪われてゆく体温。


 しかし、何も見えない。

 目をやられた!?


 視界を埋め尽くすのは白、白、そして白。

 それ以外は何も見えない。


「落ち着いて! 吹雪によるホワイトアウトだ!」


 何か触れるものを探して手足をじたばたさせる私を宥めるように、耳元で大声をかけられる。


 ホワイトアウト。

 視界に入るもの白一色になり、外界の識別が困難になる現象。


「大丈夫だ、落ち着くんだ」


 再び声を掛けてもらう。


 大丈夫? 何が大丈夫なのだろうか?


 気が付けば私は荷物を失っていた。

 背負っていたリュックも、手にしていたピックも。

 身に付けていたもの以外を全て喪失していることに気づく。


「大丈夫だ!」


 何度目だろう、また励ましてもらった。


 自分のミスのせいでこうなったのに。

 先輩だって不安だろうに。

 それでも先輩は私を気遣い、私を安心させてくれようと声を張り上げてくれるのだ。


「ずびばせん……」


 まともに声を出せないのは涙のせいか、それとも冷え切った体のせいか。


 そんな私をぎゅっと抱きしめてくれる。

 一つのかたまりのようになった私達を、吹雪は容赦なく吹き付けて来るのだった。


***


 気が付くと、吹雪はおさまっていた。


 首をぐるりと巡らせてみるが、まるで視界を動かしたことが感じられない、一面の白色。


「吹雪は落ち着いたようだが、ホワイトアウトは続いているようだな」

「ホワイトアウトって、吹雪とかで視界が真っ白になることじゃないんですか?」

「いや、視界にあるものが基本的に同等の白い状態で埋め尽くされるような、気象条件が整った状態も白い闇ホワイトアウトと言うんだ」


 ほえー。

 流石は先輩、山にまつわる知識にお詳しい。


「この状態では、道も斜面も判別できない。

 普通の山道でもないのだから、下手に歩くのは危険だ。

 ここに留まり、救助を待つ方が良いのだけれど……」


 私でも先輩が言いたいことは分かる。

 荷物がない。

 テントも、小さなシャベルも、火を熾す道具だってない。

 何より食料がない。


 この状態で生き延びることがいかに困難であるのか、そんなことは私でもわかる。

 違う、何も分からない。生き延びるにはどうすれば良いのか、それがどれほど困難なのかが、だ。


「とりあえず、何を持っているか確認させてくれないか。

 俺は何も持っていないのだが……」


 そう言われてポケットのジッパーを下ろして、中から小さな包みを取り出す。


「こんなものがありました」

「良くそんなものがポケットに入っていたなぁ。どうやって入れたんだか……」


 ビデオカメラ。

 なにしろ私達は、ユーチューブ投稿用の動画撮影を目的としたチーム、『行って見探検隊』だ。

 動画を撮ってナンボの私達の生命線、いつでも取り出せるよう私のポケットに常駐させている。邪魔だけど。


「これで全部かい?」

「んーと……。あ、こんなのも出てきました」


 そう言いながら私はジャケット内の特製隠しポケットから金属の筒と布を引き出した。


「……これはなんだい?

 映画で見たことがあるような? 三節棍?」

「そんなマイナー武器ではありません。

 私達の登頂制覇記念撮影用に持ってきた組み立て式の旗です」


 ほら! と言いながら組み立ててみる。

 人が潜れるほどの高さと幅を持つアーチ形状が出来上がる。

 旗に「祝☆登頂記念!」と書かれているのが何とも虚しい。


 旗の下で片足立ちで両手を上げポーズを取る私を見ながら、先輩はぽつりと呟いた。


「……良くこんなのがジャケットの下に入るもんだね……」


 ツッコミというより真面目に呆れられている言葉が私の心を刺す。


「ありがとう、これで全部かな」

「いえ、その……」


 実は、もうひとつある。

 頭に思い浮かべながら、ポケットに浮き出る輪郭をなぞる。


 本当はこんな状況で出したくない。

 出したくない、のだが……


「これです!」


 私はポケットから、大きなハート形チョコレートを取り出す。

 分厚い上に、めっちゃデコってある、お手製チョコ。


「何これ、すごい!?

 なんでこんなものを持ってきたの!?」


 下手をすれば鈍器になりそうな重厚なソレをしげしげと眺める先輩。


 ……それはですね、登頂してから貴方にプレゼントする予定だった少し早めのバレンタインチョコレート、なのですよ?

 本当は、自分の気持ちを告白しながら渡すという自主イベントだった、んですよ?


「実は、登頂記念撮影で、これを皆で取り囲んで撮る予定だったんです。

 えるかなー、と思いまして」


 だけど、自分が足を引っ張って遭難状態の今、とてもそんなことは言えない。

 だから、私は誤魔化してしまう。

 本当の気持ちを言えないのにチョコを出さざるを得ない悲しみ。


「でも、良かったよ! これがあれば、しばらくは生きて行けそうだ。

 本当に助かったよ!」


 へへ、褒められてしまった。

 仕方がない、この気持ちを査収して、ここは我慢しておこう。


「さすがに他にはもうないよな?

 なら、天候が安定している間に、どこか避難場所を探そう!」


***


 その後、周辺を歩いて回り、ちょうど良い地形を見つけて雪を掘り返した。

 想像に違わず、すこしくびれて奥に入れる岩肌が見えるまで雪を掘る、掘る、掘る。


 これには、無駄に頑丈な私の旗のポールが役に立ったと自慢しておこう!

 いや、スコップでもピックでもないんだけど。

 高かったのになあ、とほほだよ。


 それでも、ポールを支柱にして雪の壁を作り、入り口に旗の布を使って風よけにした時には先輩に大いに褒めてもらえたのだ。

 でへへ。


「雪を直接口に含むと、雪に体温が奪われる。

 だから、体力を回復できる見込みがない時はなおさら、雪を直接食べてはならないんだ」


 そう言って先輩は、ナイフを使って器用にビデオカメラを解体して、そのフレームを器に見立ててカップの代わりにした。


 さらに少しずつ、どこからともなく小枝を持ち寄り、乾かす。

 それを集めてレンズで集光し、火をつける。


「焚火だ、焚火だ、落ち葉焚き~♪」

「この状況で、これを楽しめる君のメンタルは、本当に助かるよ」


 苦労して集めて、一瞬で消えてなくなる。

 それでも、その少しの温もりが私達の心に伝わる。


 依然、山のホワイトアウトは続く。

 白以外は、何も見えない。

 周辺の山の形状も確認できないいま、方角も分からない。


 スマホも落とした。

 トランシーバーはバックパックごと消え去った。

 連絡手段はない。


 そんな中、私と先輩は、チョコレートの塊を少しずつ削りながら食べて、生命をつなぐ。

 体力を過度に消費しないように。

 それでもヘリコプターや捜索隊を見逃さないように注意しながら。


 もう、幾日たっただろう。

 一人だったら、絶対に発狂していたろう。

 先輩が言うほど、私はメンタルが強い訳ではない。

 ただそこに先輩がいてくれるから、私は気持ちが落ち着くだけなんだ。


 例え明日、命の灯火が消えようとも、私は穏やかでいられると思う。

 遭難しているのに、不安定になるはずの状況下で、我ながら狂っていると思う。


 外で見張りをしている先輩の後ろ姿を眺めながら、少し鈍くなってきている脳で、私はそんなことをぼんやりと考えていた。


***


「無事か!」


 それから十日を過ぎた頃に、ようやく現れた、抜けるように澄み渡った青い空。

 それを滑るようにして現れたヘリコプターは、凄まじい爆音を立てながら近くに着陸していた。

 そこから兄と、捜索隊と思しき人達がわらわらと飛び出してくる。


 邪魔なゴーグルもつけないで、この寒い中で素顔を晒している兄貴の顔は、切迫した緊張感で満ちていた。


 ああ、普段はシリアスの欠片も見当たらない男なのに、妹の事をちゃんと心配してくれているのかな。

 少しは兄のことを見直してあげようと思う。


「良かった、ようやく救助が来てくれた!」


 呼吸が苦しいため、私達もフェイスマスクもゴーグルも外している。

 だから、その救援隊を見る先輩の眩いまでの笑顔も見れた。

 そしてそれを見ることで、私も強く感じる。


 ――助かったのだ!――


 普段は微笑くらいしかしない先輩が、顔に満面の笑みを湛えて走り出した。

 そこまで元気がない私は、小走りでそれについて行く。


 先輩との共同生活を少し楽しんでいたという本音を心の隅に寄せつつも、これで生き延びたと言う想いがおなかの底からじわじわと湧き上がってくるのが感じられた。


 そうだ、帰ったら、今度こそ先輩にちゃんと告白しよう。


 今回のことで、命の大切さを思い知った。

 人間、いつ死んでもおかしくない、言いたいことは気持ちがあるうちに言わなくてはならないのだ。


 そう思い、私は改めて先輩を見る。


 先輩は手を振り、少し先を嬉しそうに走って行く。

 それに応えて大きく手を振り、兄もまた駆け寄ってきた。


 二人は近づいて、衝突するように抱き合い。


 ――そして、そのままキスをした。


 え?


 目をまんまるくして見ている私。

 捜索隊の人々も、固まって、目を丸くして見続ける。


 そんな時が止まったような情景の中、二人の濃厚なベーゼは続く。


「もう、二度とはぐれないからな! どれほど心配したと思っているんだ!」


 ようやっと顔を離した兄は、笑顔で先輩に向かって言う。


「俺こそ、だ! 今回の遭難で、命の大切さを思い知ったんだ!

 俺は遭難している間、お前のことを片時も忘れたことなどなかった!」


 そう言って二人は抱き合い、そして先輩は吼えるように叫ぶ。


「俺と結婚してくれ!

 本当は登頂に成功してから言うつもりだった。

 だが人間、いつ死んでもおかしくない、言いたいことは気持ちがあるうちに言わなくてはならないと知った!」


 え~~~、と。


 私は力が抜け、ぼふ、と音を立てて雪上に腰を落とす。

 そのまま、雪の上に倒れ込んだ。


 目の前には、昨日までの真っ白な曇り空を笑い飛ばすかのような、青い、青い空。

 雲ひとつない。


 何も考えられないような。

 それでも、弱って鈍った頭は、ゆっくりと巡る。


 そうだ、私はいま、最大の想い人を失ったのだ。

 それと同時に、優しくて頼り甲斐のある先輩としての先輩も失った。

 兄も。特別に優しいわけでも、慕っている訳でもないが、それでも兄。

 でも彼は私のことは眼中になく、大切な人を連れ去った。私の中に兄はもはやいない。

 つまり、私はこの探検ごっこ隊から居場所を失ったのだ。今、この瞬間に。


 遭難かぁ。

 捜索費用とか、高いんだろうなぁ。

 いままでユーチューブで荒稼ぎしたお金も、なくなっちゃうんだろうなぁ。


 この二年間、ずっとこの活動に没頭してきたから。

 大学の授業は面白くないし、明日からどこに行けばいいんだろうなぁ。


 考えれば考えるほど、私には何も残らなかった。

 全身から力が抜けて行く。

 涙腺も脱力し、目尻から滴が流れ落ちるのを感じる。


 そうして私は、力が抜けたまま、いまの自分の気持ちが勝手に口を突いて出る。


「生きられて、よかったぁ……」


 なんで全てを失ったと思う今になって、この言葉が出てくるのか?

 私にもさっぱり分からない。


 ただ、全身の脱力感と、なにものにも縛られない自由な感覚。

 それだけが私を包んでいた。


 もういちど、空に意識を戻す。

 ゴーグルを外している今、青色がダイレクトに目に飛び込んでくる。

 その天頂に、鳥の黒い影が大きく輪を描くのが見えた。


 自由だな。


 青い、青い空を背景に、ゆぅっくり円を描くその黒い影を、私はずっと見詰めていた。


【告白の行方・完】

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