第一章 縁切り神社の怪異⑤

「で、この形代に書かれている『山際綾子』っていう名前だけど、これがガイシャの名前かどうかは今、うちの強行三係だかここの刑事課だかで調査中なんだろうな。ってなわけで、俺たちはこの山際綾子って人物が縁を切りたかった人間を捜しに行くとするか」

「……え。目星はあるんですか?」

 まだ山際綾子なる人物がどこの誰なのかすら分からないのに、その人にかかわる人間をどうやって捜すんだろうと亜寿沙が不思議に思っていると、阿久津が小さく口端をあげて苦笑する。

「安井金比羅宮には縁切り縁結び碑ってのがあって、形代はそこに貼るものだって言っただろ? これは千切れた下半分だから、もしかするとまだ上半分が碑に貼られたままかもしれない。もし上半分を見つけることができたら、そこにはこの文章の前半部分が書いてあるはずだ」

「じゃあ、そこに彼女が縁を切りたかった人の名前が書いてあるのかも、ってことですか?」

「そういうこと。猿渡、ちょっとその形代の写真とらせてもらってもいいか?」

 阿久津の頼みに、猿渡は快く応じた。

「どうぞ。こうした方がとりやすいっすかね」

 猿渡は写真がとりやすいように形代のはいった証拠品袋を長テーブルに置いた。

 彼が動くたびに、ふわりと青リンゴのような化学香料の香りが亜寿沙の鼻をくすぐる。最近どこかでいだ香りだ。考えるまでもない。さきほどまで阿久津の服から香ってきていたものと同じ香りなのだ。

「もしかして、コインランドリーで阿久津係長のシャツを一緒に洗濯した知り合いって、猿渡鑑識官ですか?」

 突然そんなことを口にしだす亜寿沙に、阿久津と猿渡はきょとんとした顔をする。

「そうだけど……ああ、そうか。柔軟剤の香りでわかったのか」

「はい」

 真面目にうなずく亜寿沙。阿久津は口元をほころばせると、まだわけがわからないという顔をしている猿渡に教えた。

「彼女は人一倍きゆうかくが鋭いんだってさ。お前、柔軟剤の使用量少し多すぎるらしいよ」

「へ? そんなことで一緒に洗ったとかわかったんすか?……あー、たしかに、適当に入れてたっすね。昔からよく大雑把すぎるとか言われるっす。あ、もちろん、仕事では丁寧さを心がけてるっすよ!」

 慌ててそう付け加える猿渡だったが、

「わかってるって」

 阿久津にそう言われてほっとした表情になる。

 そして今度は、面白いものを見るような目で亜寿沙を眺めてきた。

「それにしても彼女、今度特異捜査係に入った子でしょ? どんな子なんだろう、あの係でやっていけるのかなって噂になってたんすが、面白い子っすね」

 馬鹿にされているような気がして亜寿沙はきゅっとけんしわを寄せた。

「何が面白いんですか?」

 つい声音が強くなるが、猿渡は気にした様子もなくニコニコしている。

「阿久津さんの下で働くの、普通の子だったらきついんじゃないかなって思ったんすよ。だけど、いやぁ阿久津さんと同じくキワモノっぽくて良かったなって」

「キワモノ……」

 この半日一緒にいただけでも、阿久津が刑事部内で変わり者扱いされていることは薄々感じていた。

 しかし自分もそれと同じくキワモノの部類だとみられたことに、亜寿沙の眉間の皺はますます深くなる。

 これまで最速で昇進してきた自分はエースやエリートとしてみられることは多かったが、キワモノなんて評価は初めてだ。不本意この上ない。

 むっとしたオーラを全身に漂わせる亜寿沙を、阿久津は苦笑を浮かべてやり過ごしていた。


 通称・縁切り神社。

 正式名称を安井金比羅宮という。

 北野署を出た阿久津と亜寿沙は、循環系統206番のバスでさか神社前で降りたあと、祇園のはなこうを南へと進んでいた。

「安井金比羅宮は、ふじわらのかまたりがお堂を創建して家門や子孫のために祈ったことに始まる由緒ある神社なんだ。当時は見事な藤が植えてあったらしくてな。もとは藤寺と呼ばれていたんだそうだ」

 藤は小さな薄紫の花をたくさんつけて房状に垂れる上品で可愛らしい樹木だ。

「きっと、とても美しいお堂だったんでしょうね」

 少し前を歩く阿久津について歩きながら、亜寿沙はいにしえの境内を想像してそんなことを口にする。

「さぁなぁ。なんせ千年以上前の話だから今となっちゃどうにもわからんが、その藤をとく上皇がたいそう気に入っていたとかで、ちようであるわのないを住まわせたんだとさ」

 当時の天皇の愛する人を住まわせた、紫の花に彩られたお堂。

 縁切り神社といううすら怖さを感じる俗称や、今回の事件で切られた手首がこの神社の形代を握りこんでいたという事実から、どうしてもおどろおどろしいものを想像してしまっていたが、その歴史は意外にもロマンティックだった。

「でもその後、崇徳上皇はほうげんの乱に敗れて讃岐さぬきに流され、最愛の阿波内侍とは二度と会うことなく生涯を終えた。そのことからこの神社にまつられている崇徳上皇は後世の人々が彼のような悲しい目にあわないようにってんで、幸せな男女の縁を妨げる全ての悪縁を切ってくれるんだそうだ」

「それで、縁切り神社って呼ばれているんですね」

「男女の縁だけでなく、あらゆる人間関係の悪縁や、病気、それに酒や煙草との縁も切ってくれると言われてるらしい」

 京都市街の東部、祇園の花見小路を南へ抜けてけんにんの横を東へ曲がり、しばらく歩くと鳥居が見えてくる。

 その鳥居をくぐった瞬間、祇園の華やかさとは違う不思議な感覚に包まれた。

 それほど広くない境内には、平日の昼間だというのにたくさんの人の姿が見える。

 ぱっと見た感じ若い女性が多いように見受けられるが、男性やカップルなどもちらほらお参りしていた。

 そこで、亜寿沙はさきほど感じた不思議な感覚の正体に気づく。

 静かなのだ。

 これだけたくさんの人が集まっているのに、話す声があまり聞こえてこない。みな静かに自分のやるべきことを淡々とこなしている。そんな空気を感じた。

 息を潜めるようにして本殿の前に立つと、亜寿沙はあいさつ代わりに手を合わせた。

(えっと……神社は手を打つんだっけ、打たないんだっけ)

 それすらわからずまごついていると、隣で阿久津が本殿に向かって二度深くお辞儀をした。つづいて鳴り響くように二度手を打ち合わせて、

「二礼二拍手一礼だよ。神社のお参りの基本はな」

 と教えてくれる。

「そ、それくらい知ってます」

 なんとなく子ども扱いされたような気がして、亜寿沙はついそんな言葉を返してしまう。

 気を取り直し、初めから知っていたかのように二礼二拍手をしてお参りを済ませる亜寿沙に、阿久津はくすりと小さく笑った。

「そんで、そこに並んでる人の列の先にあるのが、例の縁切り縁結び碑だ」

 言われたとおり、本殿の横に整然と並んだ人の列が見える。

「この先ですか?」

 その先に何があるのかと列の前方をひょいっとのぞいてみた亜寿沙は、社務所と本殿の間に建てられたソレを見て、ぞわっと全身の毛が逆立った。

 一瞬、白髪の巨大な頭がそこにあるのかと思ったのだ。

 よく見ると髪でも頭でもないことはすぐにわかったのだが、それはいままで見たことのない異様な姿をした碑だった。

 高さ一・五メートル、幅三メートルほどの白い塊。

 全体に白く見えるのは、碑全体を覆い尽くすほどに白い紙が重ねて貼られ、盛り上がった紙が垂れ下がらんばかりになっていたからだ。

 おそるおそる近くまで行ってみると、その白い紙一つ一つに黒字の模様とペンで書き連ねられた文字があった。

 その白い紙には亜寿沙も見覚えがある。

 切られた手首が握りこんでいた、あの『形代』と同じものだった。

「これが、縁切り縁結び碑……」

「ああ。形代に願いを書いて手に持ったまま、頭の中で願いを唱えながらあの穴の中をくぐってまたもどってくる。そんで、最後に縁切り縁結び碑に形代を貼り付けると願いがかなうって言われてるんだ」

 縁切り縁結び碑の中央下部にぎりぎり人が四つんいになれば出入りできる大きさの穴が開いている。

 並んでいた参拝客は碑の前で一礼したあと、形代を手に持って穴に入って戻ってきてまた一礼してから、碑の裏にある台でノリをつけると碑に形代を貼り付けていた。

「なんか願っていくか?」

 阿久津に言われたが、亜寿沙はしばらく縁切り縁結び碑と参拝客たちを眺めたあと、ゆるゆると頭を横に振った。

「やめときます。私にはいま、どうしても切りたい縁とかないですし」

 強行係に配属されるよう良縁を願ってみることもちらっと頭をよぎったが、今日配属されたばかりでそれを願うのは神様にももう少し辛抱しろと𠮟られてしまうだろう。

「阿久津係長は願うこととかないんですか?」

「係長なんていうガラじゃないから、さんづけでいいよ」

「じゃあ、阿久津さん」

「うーん。そうだなぁ。俺も願いたいことがないわけじゃないが、俺の場合は余計面倒なことになりそうだからやめておくよ。それにしても、貼られてる形代が随分多いな。こりゃ、二人で手分けして捜しても時間がかかりそうだ」

 阿久津は碑を眺めて、がしがしと頭をく。

 そうだ、すっかり観光気分になっていたが、ここには捜査の一環として来たんだった。

 このまるで髪の毛かと思うほどに何重にも重ねて貼られた形代の中から、あの手首が握りこんでいた形代の上半分を見つけなければならないのだ。

「俺は、ちょっと神社の人に事情を話してくるから、岩槻は境内の周りに何か気になるものがないかざっと見てきてくれ。あと、ついでに防犯カメラの場所も」

「はい。了解しました」

 いったん阿久津と別れた亜寿沙は、境内の中をつぶさに見て回り、ついで鳥居を出てぐるっと周りを回ってみた。

 いまはまだ被害者、加害者ともに何の手がかりもなく、あの形代を書いた主がここをいつ訪れたのかの目星もつかないため、これだけたくさんの人が訪れる人気スポットで防犯カメラ映像をただ漫然と見たとしても何の手がかりも得られないだろう。

 それでも、いつ防犯カメラの映像が必要になるかわからないから、念のために場所だけは確認しておく必要がある。

 神社の中には防犯カメラのたぐいは見当たらない。

 境内への入口は三か所。それぞれに鳥居があり、先ほど亜寿沙たちが入ってきたのはどちらかというと裏口ともいうべき出入口のようだった。

 正面の鳥居はひがしおお通という大きな通りに面しているが、それ以外の二つの鳥居は住宅街の狭い道路に面しており、どこにも防犯カメラの類いは見当たらなかった。東大路通を少し下ったところにコンビニがあったから、防犯カメラがあるとするとそこぐらいか。

 それを確認して境内に戻ると、鳥居のそばで阿久津が待っていた。

「お疲れ。神社に捜査の許可はとったぞ。でもいまは混んでるから、形代を捜すのは人のいなくなる夜にしてくれってさ」

「夜って、ここは何時までやっているんですか?」

「社務所が閉まるのは夕方らしいが、境内には二十四時間入れるって」

 そこでリリリーンリリリーンという黒電話のような音が響いた。阿久津がポケットからスマホを取り出すと耳に当てる。

「はい、阿久津です。はいっ。はい……わかりました。やっぱ、立つんですね。すぐに戻ります」

 それだけ手短に答えると、彼はすぐに通話を切って亜寿沙に視線を向ける。

「課長からだ。捜査本部が立つってさ」

「警察本部にですか?」

「いや、北野署の方。俺たちもそっちに派遣になるから、いったん北野署に戻ろう。被害者も割れた。一週間前から行方不明者届が出ていたそうだ」

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