第一章 縁切り神社の怪異③

 引き合わせを終えて風見が自席に戻っていく。それを亜寿沙が名残惜しい気持ちで見届けていると、阿久津という男は首を触りながらのっそりと口を開いた。

「あー。俺は、阿久津せいという。一応、特異捜査係の係長ということになってるな。いままで一人係だったから気ままにやってたんだが、それじゃやっぱり駄目だったらしい。というわけで、今年度からは君と二人の係になるようだ。君も災難だな」

 なんとも他人ひとごとのように言ってくる。

 そのうえ自信なげで、やる気もなさそうで、どうにもだらしなそうな男に見えた。

 こんな男が上司だなんて正直亜寿沙は認めたくなかったが、決まってしまったものは仕方がない。

 しかも、上手うまく隠したつもりだった落胆の色を彼には見透かされてしまったようだ。

 こんなだらしない見た目をしていても、腐っても警察本部刑事部の刑事。本当に見た目通りのダメ人間ならば、そもそもこんな精鋭の集まる部署に配属されるはずがないのだ。

 しばらくこの男の下で働いて実績を積んで、来年度には他の係に異動できるように頑張ろうと、亜寿沙はそう考え直すことにした。

 気を取り直した亜寿沙は背筋を伸ばしてピシッと敬礼し、はきはきした声で答える。

「いえ、そんなことありません。岩槻亜寿沙と申します。よろしくご指導願いますっ」

 とはいってもひとつだけどうしても気になるものがあった。

 それは彼から漂ってくる香りだ。青りんごのような独特な香料の香りがする。

 これは香りを売りにしている柔軟剤の匂いだろう。多少なら我慢できるが、使用量が多いのか強く香りが持続するタイプなのか、とにかく香りが強い。

 おそらく亜寿沙以外の人間は、この香りを苦痛とは思わないだろう。むしろ良い香りだと思うに違いない。

 だが、亜寿沙の異常なほど敏感なきゆうかくは香りを必要以上にぎ取ってしまう。

 とくに化学香料の香りはキンと頭に響いて頭痛のもとになってしまうのだ。

 内心、スーツのポケットにいつもお守りのように忍ばせている鼻せんを取り出したくて仕方がなかった。鼻の上から挟み込む洗濯ばさみのようなものだ。

 しかし、今しがた紹介されたばかりの上司を前に、服についた香りが苦手なので鼻せんをさせてくださいなんて失礼なことはとても言えない。まして許可もなく勝手に鼻せんをするなんてできるわけもない。

 だからいつものように、匂いを感じながらもひたすら我慢するしかないと自分に言い聞かせるしかなかった。

 阿久津はじっと亜寿沙の顔をみると、げんそうに小首を傾げる。

「そうか? それならいいんだが、さっきからなんか妙に距離を取られているような」

 半歩だけ後ろにさがったことを気づかれていた。できるだけ気づかれないようにそっと動いたつもりだったのに。

 やはり刑事だけあって、こんな外見でも他人の行動をよく見ていることがうかがえる。もしかすると見た目に反して有能な人なのかも? と少しだけ希望が湧いてきた。

 それに、これから一緒に行動することも多くなる相手だ。遅かれ早かれ亜寿沙の体質については伝えることになるだろうから、それなら今話してしまった方が手っ取り早い。

 亜寿沙は敬礼していた腕をおろすと、素直に話してみることにした。

「すっ、すみません。私、嗅覚過敏で人一倍、臭いに敏感な体質なんです。……その、係長の服から香る柔軟剤らしき香りが強くて、つい……。もしかして使用量を間違えてたりしませんか?」

「え? あ、そうかな? そういえば、ここんとこ書類仕事がまっててずっとここで寝泊まりしてたから、家帰ってなくてな。知り合いがコインランドリーに行くっていうから一緒に洗ってきてもらったんだ。え、そんなに臭うかな?」

 阿久津は心配そうに、くんくんと自分のワイシャツを嗅ぐ仕草をする。

「い、いえっ、他の方が不快になるほどではないと思います。気になるのは私だけで」

 亜寿沙は、物心ついたときから他の人より嗅覚が異常に鋭かった。他の人が感じないレベルの臭いであっても亜寿沙の敏感な鼻は感知してしまい、気持ちが悪くなったり頭痛の種になったりするのだ。

 そのためシャンプーやボディーソープ、洗剤のたぐいはすべて無香料のものを使っている。香水やコロンは一切使わない。

 自宅ではそうやって極力刺激の強い臭いのない空間ですごしているのだが、一歩家の外にでるとそうはいかなかった。

 通りがかりの通行人や職場の人たちからただよう香りや臭いが容赦なく襲い掛かってくる。

 満員電車の中の身動き取れない状態で臭いにまかれると体調が悪くなって電車に乗り続けることができなくなってしまうため、なるべく電車の混まない朝早い時間に出勤するように心がけてもいた。

 今朝は辞令交付式前に職場にくるわけにはいかなかったので、早朝の電車で最寄り駅に着いたあとかも川のほとりでぼんやり時間をつぶしてから来たのだ。

 そうやって他の人はしなくていい苦労をあれこれするはめになる、本当にやっかいな体質だった。

「そんなわけでつい距離をとってしまっていました。なるべく気にしないようにします」

 亜寿沙が当然のようにそう口にすると、阿久津は顔の前で手を振る仕草をした。

「あー、いいよ。そんなの我慢しないでくれ。俺が気を付ければいいんだから。それより、他に苦手な臭いとかある? 食品の匂いは? たとえば、コーヒーとか」

「いえ、コーヒーは大丈夫です。どうやら自分の好きなものの香りは強く香っても大丈夫なようなんです」

 いままでも嗅覚過敏のことは歴代の上司たちに同様に伝えてはいた。刑事や警察官の仕事というのは、臭いのきつい場所に入るケースもしばしばだ。

 孤独死の現場で腐乱死体を目にしたのも一度や二度ではない。

 そういう現場では普通の嗅覚の人間でも吐き気をもよおす悪臭がたちこめているものだ。人一倍臭いを感じてしまう亜寿沙は初めて死臭の漂う現場に臨場したとき、死体を拝見する前に臭いで気を失ってしまった。

 それ以来、現場で死臭などの気配を少しでも感じたら鼻せんをするようにしていたため、上司に体質について説明しておく必要があったのだ。

 いままでの上司や同僚たちには、鼻せんをする姿を陰でわらわれたことがある。

 当然だろう。そんな姿、どう見てもこつけいだ。

 職場の自動販売機でコーヒーを買う亜寿沙に、なんでコーヒーは大丈夫なんだ、やっぱり嗅覚過敏なんて気のせいなんじゃないのかと言った同僚もいた。

 そう言いたくなる気持ちもわかる。

 しかし、阿久津の反応はそのどれとも違った。

 一言、

「そういうもんだろう」

 とだけ言うと、

「昨日から入ってなかったからシャワー浴びるついでに着替えてくるよ。教えてくれてありがとう。あ、岩槻のデスクはそっち。座って待っててくれ」

 と告げると、そそくさと第一捜査課の部屋から出て行ってしまった。

 亜寿沙は指示された席に腰を下ろす。まだお昼前だというのに、少し疲れを感じた。一番の疲れの原因は、やはり自分の体質のことを話したせいだろう。

 どういう反応をされるのかが怖かった。

 いままでも周りの人の反応は、同情されたり逆に不快に思われたりと、相手によって様々だった。しかし、阿久津の反応はいままで経験した誰とも違っているように思う。

 まだ出会って小一時間も経っていないのに既に亜寿沙の体質を自然と受け入れている節があって、それがなんとも不思議だった。

 デスクの上に置かれているノートパソコンで通勤経路の設定など異動初日のもろもろな作業をし終えたところで、シャワー室から阿久津がもどってきた。

(あれ……?)

 だらしない印象の強かった阿久津だが、無精ひげをそってこざっぱりすると意外にも目鼻の整った顔立ちをしているのに気づく。風見が正統派俳優系イケメンだとすると、阿久津は少しタレ目がちで目元が優しげな癒し系イケメンといえるかもしれない。

 うっかりじっと見つめてしまった亜寿沙は、阿久津から怪訝そうな視線を返されて慌てて目をらす。

 ちょうどそこに、羽賀課長から声がかかった。

「たったいま、きた署に行ってた連中から電話があったで。特異捜査係にも見てほしいもんがあるんやて。ちょっと行ってくれへんか」

「はい。北野署って、三係が行ってるとこでしょう?」

 阿久津の言葉に、課長は「ああ」とうなずく。

「例の燃えたゴミ収集車から、人間の手首が出てきた現場や。なんでも、その手首がなんや紙切れみたいなもんを固く握りしめてたらしくて、お前に見てもらいたいらしいんや」

「紙切れ、ですか……?」

 握りしめていた、ということは死後さほどたっていないご遺体の一部ということなのだろうか。

 阿久津が、つっと視線を亜寿沙に移した。一緒にくるか? と言っているのだろう。

 亜寿沙は、ポニーテールが揺れる勢いで大きく頷いた。

 警察本部刑事部に配属されて初めての事件。

 胸が高鳴りつつも、緊張で手のひらに汗がにじんできた。

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