#34 邪神と英雄と白い少女


 日が昇って随分経つ。

 迷いの森とはいえ、その入り口近くであれば、太陽が隠されることは無い。秋ともなればなおさらに明るい。見上げれば、空の青も見えている。

 だが男は動かなかった。木に寄りかかり、目を閉じたまま、眠ることも起きて歩き出すこともできない中途半端な意識に、己を浮かべている。

 彼は昨夜からこの場所に居た。迷いの森とはいえ、出ようと思えば簡単に出られた筈だ。なのに、彼は動こうとはしなかった。先を急ぐ必要もないが、旅を続けなければいけない理由は確かにあった筈なのに。

 男の名前はシーザー。“神殺し”の英雄と同じ名前の旅人である。

[貴様の努力は無駄に終わったな]

 声が聞こえる。姿は見えない。あるいは、彼の見えない所で黒い靄となって、浮いているのかもしれない。

 しかしいくら目障りでも、彼にどうにかできるわけではない。奴の居ない束の間の安らぎが終わり、苦難に苛まれる時がまた始まる。今まではなんとかそれにも耐えてきた。背負ってきたものの重さのせいもある。しかしはたしてこれから先もその重荷に耐える意味はあるのだろうか? ……シーザーの心は揺らいでいた。

[結局あの娘は、自らの感情を抑えきれずに堕ちていったぞ。それが分かっていながら、自分からお前の元を離れた。ククク……]

「………」

[これで分かっただろう。いくら理性を謳おうが、人も獣と同じだ。心は常に揺らぎ続け、ろくなことにならぬと分かっていても、その感情を抑える事はできぬ]

「人は……そんな弱い存在ばかりではない」

[だがほころびはそこから生まれるものだ]

 言葉に詰まる。反論もできない。不快な声は、さらに独自の論理を続けた。

[我々が何故生まれるか、知っているか? 悲劇が無くならぬからだ。嘆き、悲しみ、妬み、恐れ、怒り、憎しみ……人の世など永遠その繰り返しだ。過去の絶望も、未来の希望も、どちらも受け入れられずに迷い続ける。いたずらに絶望を深くする。足掻いても届かぬときは、運命を憎み、世界を憎む。生まれた町を、手を差し伸べてくれなかった全ての人を憎む。筋違いも甚だしいが、それが人だ]

「違う」

[違うものか。貴様もそれを見てきた筈だぞ。人の善意ですら、邪神を生み出すほころびとなることをな]

「人の意志を否定するな……意思を持たない獣となることが、正しい筈もない……!」

 悔しげに、シーザーは叫んだ。しかし、今はそうして抗うことすらも、辛い。

[―――人は獣を嫌い、その生き方を卑しいというな……]

 気配が、その濃さを増したような気がした。

 初めに見えたのは赤い二つの瞳と、縦に引き裂かれた三つ目の天眼。双眸は獲物を窺うように彼を捕らえて離さず、最後の目は彼の残った心すら覗こうとする。やがて三つの目を取り巻いていた暗闇が集まり、形を為していった。漆黒のたてがみと雄々しき双角。見ようによってはあらゆる獣の姿を連想する恐ろしき姿。だが、形を為せばそれはむしろボロを纏った人のようにも見える。ただ、その皮膚は青白く、右腕に至ってはこの世の生き物では例えられない程に大きく、醜く変質している。

 その姿を例える言葉が見当たらない。本性を知る者にとっては悪魔という言葉すら優し過ぎる。それは、この世で最も醜く邪悪な獣の、その為れ果てであろうか。

 彼の名前はエジリア。最古の邪神の一柱である。

[私をこの姿に貶めたのは、そうした人の傲慢に他ならない。獣を排除し、弱者を隷属させることが正しいというのか? 本能を否定し、人は自然の全てを敵に回したのだぞ]

「……そこまで分かっているお前が、人を滅ぼすというのか」

[当然だ。今の私は邪神なのだからな。かつて人は私を“命を冒涜する者”と呼んだ。ならばその通りに人を滅ぼすのが我が役目。私は、そう望まれて生まれてきたのだよ]

 それが神の理であることをシーザーはよく知っている。

 人に望まれて生まれるのが神。言い換えれば、神は生まれながらにして望まれた役目を負う。

 エジリアを生み出したのは、どんなことをしてでも生きようとする、衝動とも呼ぶべき生存本能なのだろう。それは生命の根幹に根ざす意志だが、やがて人の文明が彼の示す生き方を否定した。「獣にも劣る生き方だ」、と。

 エジリアはしばし言う。[私の醜いこの姿こそ、命に対する人の考えに他ならない]。――――彼が人の想いより生まれた神である以上、その言い分は正しい。

 しかしたとえそうであったとしても、邪神は否定されなければならない。多くの英雄譚でそうであったように、彼らは世界を、そして人を滅ぼす為に生まれた存在なのだから。人は生き続ける限り、その存在を、その根源を、悪と断じて否定しなければならない。

[シーザーよ。よもや忘れてはおらぬだろうな。人を生かしたければ、お前が私を斬ればよいだけのこと。だが……]

「分かっている」

 その先は、聞き飽きた。

 最古の邪神であり、命の願いを束ねてきたエジリアは、人を滅ぼす程の力を持っている。そして同時に、[人は滅ぼされるべきである]とも考えている。手段と動機が揃っているのだから、それだけで世界の命運など決まったようなものだ。

 ところがエジリアはそれをしなかった。独りで判断を下す事を嫌った。

 そしてその判断を、人の中で唯一“神”を殺すことができた者・シーザーに委ね、同時に判断を下すまでの十分な猶予……つまり寿命を彼に与えた。その時からシーザーの無限とも言える苦悩が始まった。

 邪神を斬る剣をこの手で振るうに足る確信を、彼はずっと人の中に探し続けてきた。だが、神話の時代が過ぎた今となっても、その答えは見つからずにいる。

 ……絶望は許されない。シーザーが人に絶望したその時こそ、エジリアは躊躇いなく人を滅ぼすのだから。

[これまで旅をしてきて、人の心の醜さも知った筈だ。感情を抑えられず破滅へと進む者を、一体どれほど見てきた? それでも、まだ決心がつかぬのか?]

「――――――――」

[確かに人は弱い者ばかりではない。だがお前ほどの者でも揺らいでおる。お前は全ての人にそれ以上の強さを期待するというのか? お前が背負ってきた苦しみを、当然の如く耐えろと? それができて当然だと?]

 邪神は醜く笑い、その姿を再び闇へと還していった。今度こそ、シーザーの心を落としたと言うように。

 まだそこにいるのはわかっている。抗いたければ、剣を振るえばいい。だが、今揺らぎ続けるシーザーにとって、剣はあまりにも重く、そして鈍い。……剣がそうさせるのではない。あの“剣”は“敵”を切り裂く武器であり、そしてそれ以外のなにものでもない。斬れないものなど存在しないのだ。斬れないのは、シーザーの心が揺らぎ続けているからだ。[生きるに値しない愚者を滅ぼす]という邪神を、“敵”と認識しきれずにいるのだ。

 ………もっとも、今はその剣すら彼の手元にはない。探しに行くべきなのであろうが、その足取りは酷く重い。白い少女とルフェの青年を取り巻く揺らぎに、彼自身が憔悴しきっていた。

 あの二人には、何ら悪意があったわけではない。ただお互いを救ってやりたかっただけだ。なのに……

 二人の想いをエゴでしかないと断罪できればそれは簡単であろう。自分勝手な思い遣りだったからこそ、叶えられることなど無かった、と。

 しかし、ならば何が正しいことだったのか。救ってやりたいとそう思うことすら罪だというなら、人の想いの全てを否定しなければならなくなる。果たして、それは人が尊ぶべき理性と呼べるものだろうか。

 シーザーはずっと考えてきた。世界の命運をその背に背負ったときからずっと、今回のような出来事に繰り返し立ち会い、破滅を免れる為の術を考え、時には手を差し伸べもした。エジリアの指示した結末は、彼の手ではなく人の手により惨々たる結末に至ることも多い。そうして英雄は心をすり減らし、いつしか“感情”が消えていった。残ったのは人への“憂い”だけだ。

 全てが終わった後、聞こえてくるのは邪神の嘲笑だけ。

[個人の心など強い筈もない。それは獣も人も同じ。どれほど理性を謳おうとも、揺らがぬ者などおらぬよ]

 人はいつもそうだった。善きことと信じたかと思えば、次の瞬間には破滅を望んでいる。絶望がそうさせる。やがて己一人がその絶望の闇にある事を呪う。世界すら自らの失意の道連れにしようとする。傲慢で、身勝手で……そんな人を、彼は数えきれぬほど見てきた。

[むしろ、人ほど絶望に当てられやすい生き物もおるまい]

「――――そうかもしれない」

 シーザーの同意を見て、エジリアがニィと笑った。

[理性が聞いて呆れる。この世には、理性に収まらぬ失意が溢れておるよ。しかし人ばかりがそこから立ち上がれぬ]

「違うよ。人の迷いをそんなものと一緒にしないで」

 シーザーが出来なかった反論が、何処からか聞こえてきた。悪夢の中に意識を落としつつあったシーザーの自我は、その少女の声によってなんとか引き上げられた。

 一体誰が? 姿を探せば“彼女”は直ぐに見つかった。木漏れ日に照らされて、例の白い少女が立っていた。その小さな身体にはあまりにも不釣り合いな巨大な剣を両方の腕で懸命に抱えている。それはシーザーの大剣だった。

[……そんなもの、だと?]

 機嫌を損ねたエジリアが、少女……アルビナの方に注意を向けた。彼女にはそれが見えていたはずだ。なのに、彼女は少しも退くことはない。剣が守ってくれると言わんばかりに、反論を続ける。

「人だってたった一人で生きていくだけなら迷う事なんてないんだから。群を作る獣がどれだけいたとしても、誰かの為にこんなにも必死になれるのは迷い続ける人だけだよ」

[ふん……何を言い出すかと思えば。それこそ人の思い上がりだ]

 アルビナの反論を、エジリアは鼻で笑った。

「獣とて誰かを守ろうと考える。誰かのために尽くそうとする。それは人だけの意識ではない」

[その誰かを失った時、獣は絶望しないの?]

 今度はエジリアが言葉を失った。

「誰かのために必死になるから絶望もする。迷うのもそう。獣もそうして心を知るでしょう? たった独りだった獣が、そうして感情を知り、獣ではなくなるの。人は人同士の中で暮らしているから、それが獣よりも少し多いだけ」

 アルビナの声には、不思議な響きがあった。エジリアと交わされる激しい論議。ともすれば、エジリアは彼女をどうにかしてしまうかも知れないというのに、アルビナの声にはそれを恐れる感情はもとより、エジリアに対する敵意もない。母親が子供に言い聞かせるように優しく、そして強い声だった。

 エジリアとのそんな論議を続けながらアルビナは、大木に寄りかかるシーザーの方へと真っ直ぐに歩み寄った。エジリアが見えているはずなのに少しも気に掛けていないようだった。

[しかし迷う分だけ堕ちた絶望もまた深い。再び立ち上がれぬ者は人ばかりだ]

「そうかもね。きっとそれは正しい。―――だけど、泣いて、苦しんで、それでももう一度立ち上がれたときには、人は前よりももっと強くなれる。迷いながら、そのたびに立ち止まって、今まで歩いてきた道を振り返って……そうして、また前を見て歩くことを自分で選び取っていくんだから。そうでしょ?」

 立ち止まり、シーザーへ手を伸ばした。その赤い瞳は、確かにシーザーを見ていた。さぁ、もう一度立ち上がろうと、シーザーを誘っていた。

「……大丈夫、人はそう捨てたものじゃないよ」

 森に光が降り注ぐ。

 その中で、自分の身体より大きな剣を持ち、手を差し伸べる白い少女は、美しくさえあった。

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