7,死神 ー エピローグ

#33 三人目の


 この悪夢の最後の瞬間まで、“彼女”はただナッツの為に祈り続けていた。

 彼が自分を助けようと必死になってくれたのが嬉しかった。もう一度アルビナと呼んでくれたのが嬉しかった。……なのに、そうして助けられる自分がアルビナじゃない事が、それ以上に悲しかった。苦しんできた彼の魂が、真に救われる時がもう訪れないのがとても辛かった。

 “彼女”は祈り続けた。狼の姿に変じた彼がその口に銜えた剣を自分目掛けて振り下ろす最後の瞬間まで、彼の救いを願い続けた。


「もしも私の祈りが叶うなら、どうか彼を本当のアルビナと引き合わせてやってください……」


 不安は既に無かった。いや、不安さえも祈りに昇華させた。

 そうして紡がれる願いや祈りの持つ力を、“彼女”はよく知っていた。

 力を使い果たした狼は、抜け殻となった白い少女の側で、寄り添うように眠っている。

 彼は肉体を失い、ただ望みを果たす為の純粋な想い、力を持った祈りそのものへと姿を変えた。そしてその目的を果たした今、もう間もなく彼は消えてしまうのだろう。

 やがて、

 この夢の終わり。“彼女”は、その祈りが新たな夢を紡ぎ始めるのを見た。

 白い少女が、閉じていた目を開いたのだ。

 隣で眠る狼を虚ろに見つめると、少女は静かな笑みを作り、そして狼へと声をかけた。

 すると、もう目覚めないと思っていた狼もまたうっすらと目を開けた。少女はそれを嬉しそうに見つめていた。

 二人は何かを囁き合っていた。他の誰にも聞くことの出来ない声で、二、三、言葉を交わし、そして少女は狼の小さな手を取った。

 ずっと、そうしていた。狼の身体がこの大気に溶けて消えてしまうその瞬間まで、ずっと……白い少女は笑顔のままで、

 ……そして狼は安らかでいた。


 一方の“彼女”は、その一部始終を見ていた。

 二人の声こそ聞こえはしなかったものの、抱いていた想いや感情は、確かに“彼女”まで届いていた。

 ……だから少女がナッツに向ける涙すら流さない笑顔に、“彼女”はいたたまれなくなった。

 “彼女”がそうして土の上に降りると、少女も又ふらりと起きあがった。それは煙が揺らぐように、力の無い動きだった。

「――――――ナツェルっていうんだよ。あの人の本当の名前。誰もその名前で呼ばなかったから、ナツェルとあたししか知らないの」

 それが、少女が彼女に対して言った最初の言葉だった。

 “彼女”は確かにそれを知らなかった。知っていたら、ナッツ……いや、ナツェルと幸福な時を過ごせたのかもしれない……でも、それよりも先に感じたのは、少女がそれを自分に教えてくれたという不思議。

 二人だけの秘密であるなら、“彼女”になど教えたくなかった筈だ。なのに少女はそんな気持ちに反した。

「私を憎んでもいいんですよ。そうした方がよっぽど楽でしょうに」

 口を動かさず声を出す“彼女”に、少女は首を振って答える。

「……ナツェルはそんなことしてほしくなかった。アーネアス様もそうでしょう?」

 “彼女”を指して女神の名を呼ぶ。呼ばれた“彼女”は、自信なさげに俯いた。

 そんな実感は少しもない。結局儀式より以前の記憶は戻らないままなのだから。今となっては本当に存在していたのかすらも疑わしい。

 ひょっとしたら、自分は誰かの残像でしかないのではとさえ思う。

 彼女の姿は、儀式で踊る巫女装束と同じ。衣装も、髪の色も、肌の色も、その上に彫られた刺青さえも……

 ただ、彼女は人ではない。実体のある肉体は存在しない。幻影のように浮かぶ姿は、様々な祈りが混じり合った虚像でしかなく、声を出すときにすらその口を動かすことはない。表情が雲のようにゆっくりと変化するだけ。存在を超越している雰囲気こそあれ、自我の生まれた“生前”の影響を色濃く残したその姿は、目の前の白い少女とよく似ており、長い間月の森に君臨してきた女神と言うには威厳が足りない。

 同じ顔の二人はまるで鏡に映したかのよう。だが二人は似て非なる存在。過去にアルビナだった彼女と、たった今生まれたばかりの新たなるアルビナ。生まれたばかりの少女は、それまでの彼女が決して手に入れられなかったものを持っている。ナツェルの魂を救うのは、自分ではなくこの少女にしかできなかった。……いや、少女はただそうするために生まれたのだ。

「誰も、あたしに憎むことなんて教えてはくれなかった」

 女神は、神殺しの剣にて“憎しみ”や“妬み”そのものを断ち切られた。だから今の彼女はそうした悪い感情を持ち合わせてはいない。そして二人の願いから生み出された三人目のアルビナもまた大きな影響を受けた。

「あたしはこれから先誰かを憎むことなんかできないの。でもそれはきっと良いことなんだよ」

 アルビナは微笑んだ。だけど、少女の微笑みは作り物であることを、アーネアスは知っていた。足のある獣が立ち上がるように、鰭の生やした魚が泳ぐように、葉をつけた木々が太陽へとその身を伸ばすように、彼女はそうする為の存在だから、微笑むのだ。

 素敵な笑顔だ。誰もがその笑顔に安らぎを感じる筈だ。ナツェルもきっと安らかだったろう。

「……もう、いいのです」

 見ていられなかった。

 その笑顔の希薄さを知っているから。

 不完全な少女の感情は、確かに自分に届いていたから。

「憎しみを知らなくても、今あなたの中にあるその感情は、よく知っているでしょう」

「――――――――………‥‥」

「もうナツェルは居ません。あなたが救ってあげたから、安らかに逝けたのです。だからもう……無理をしなくてもいいのです」

 アルビナの表情に、初めて涙が伝い落ちた。やがてその表情も崩れていった。アーネアスの身体に倒れ込む、その最後の最後に嗚咽のような声が零れた。彼女は、そんなアルビナの身体を優しく受け止めてやった。

 その身体は、たくさんの涙を抱え、震えていた。

「……ひどいよ……どうして私にこんな事を押しつけたの……どうして私を生んだりしたの……?」

「ごめんなさい、ごめんなさいね……」

 何度謝っても、それは許される事ではない。

 自分がアルビナではない事を知り、そしてアルビナはもう二度とナッツの元には戻らない事を知ったアーネアスは、この“少女”のような存在を願わずにはいられなかった。例えそうして生まれてくる少女もまた本物ではなく、報われることのない行為がどれだけ残酷なことかを知っていても、それでも今正に命潰えようとしているナッツの心を救ってやるために、この新しいアルビナを生み出さずにはいられなかった。

 一番大事な人と、自分自身が生まれた意味……少女にとってもっとも大事なその両方を、生まれて直ぐに失ってしまうことになると……分かっていながら。

「もっとナツェルと一緒にいたかった……もっとナツェルと生きていたかったのに……」

「あんまりでしたよね……私もその気持ちを知っているのに……許されるわけ、ないですよね……」

 一人目の少女は、疲れ果てた彼と出会い、小さな光を投げかける慈愛の少女。

 二人目の少女は、望む世界を彼と共有する為に生まれた幸福の少女。

 そして三人目の少女は、救われずに死んで行く彼の苦しみを取り去る為だけに生まれた……まるで、死神。

 愛する者を永遠に失うだけの存在。

 これが三番目のアルビナの誕生。

 憎しみなどかけらもない無い、いっぱいの優しさの中から、産声というにはあまりにも悲惨な泣き声とともにこの世界に生まれ落ちた、祝福無き白い少女。

「憎しみだけではなく、この悲しみもあの剣で斬ってしまえれば良かったのに」

 女神はそう思わずにはいられなかった。

 日が昇り、草原を風が吹き抜ける。迷いの森が枝葉の音を鳴らし新しい朝を歌っていた。それは、ようやく森から出られたアルビナを祝福しているように聞こえた。……世界はこんなにも身勝手だ。ナツェルの念願叶ってようやくアルビナの目に映された初めての外の風景……この広い大草原に、人の姿など何処にもない。

 ただ、女神と少女の二人が寄り添い立っているだけ。

 朝の風は相変わらず冷たい。

 陽が昇り一日が始まる。

 そうして永遠に一日が続く。

 途方に暮れたように、少女は呟いた。

「あたしはどうすればいいの…… ナツェルの居ないこの世界で、どうしたら……」

 女神はそれに答えてやることはできない。

 でも、その意味を少女に与えてやることはできる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る