#31 憎しみ、悪意


 この姿になってから、五感が全く違うものへと変わってしまったのが分かる。それは人どころか狼のものですらない。本来の目も耳も程々に、人の意思のようなものを感じている。

 だから、アルビナが何処にいるのかを悩むことはなかった。今姿が見えずとも、声が聞こえずとも、どれだけ離れていようとも、アルビナとの繋がりをはっきりと感じることができていた。

 例えるなら、それは糸のようなもの。

 へその緒で繋がり生かされる胎児のように、今の俺を生かしている存在を確かに感じることができる。

 それは一つではない。たった一色でもない。砦に捕らわれていたルフェからも感じられたし、月の森の遠くからも感じられた。

 そして、グランドールからも。ルフェ達から伸びていた紐と色こそ違えど、彼らよりもはっきりと太い糸が俺へと繋がっていたのだ。

 それが、信頼や好意、敬意や愛情、そして憎しみや恐怖そのものであることは容易に想像が付いた。そして、そういったもの全てが今の俺という存在を形作っていたのだということも。

 そんな中で、一際太く色濃い意識の糸があった。それが、アルビナの意識の糸だ。

 青や赤、緑に白……色とりどりを編み合わせて太く繋がったその糸は、時折その色の度合いを変化させ、虹色に輝いて見えた。

 綺麗と言うより不安になる揺らぎで、アルビナが今も何処かで苦しんでいるという信号に違いなかった。

「くそっ……!」

 糸の先を追って、俺は道を走った。近づけば近づくほど、糸は揺れ、その色を鮮やかに変えていった。

 否応なく不安が増す。アルビナは泣いているに違いなかった。

 だから、今度こそ俺が助けてやらなければ。アルビナの側に居てやらなければ。

 俺は、アルビナに自分の意識を飛ばした。自らも糸を伸ばすように、アルビナを想った。

「感じているか、この糸を! 俺は、ここにいる。

 俺は今、君の所へ走っている。君を助けるために、この姿になった。

 だから、もう悲しまないで……

 どうか生きて欲しい……」

 俺は想い、そして祈り続けた。




 やがて、視界が開けた。ついに森を出たのだ。

 大地も今は暗く、遠くの地平線は既に影となっていた。しかしこの場所は明るい。見上げれば、真っ白い月が俺の頭上で煌々と輝いていた。冬を待つばかりの草原は既に痩せていて、足の先から硬い土の冷たさが伝わってくる。

 彼女は、その冷たい大地にたった一人でいた。両手をついてうずくまり、小さな肩を何度も上下させ、この冷たい空気を呼吸している。

 側には誰もいない。照らす月の光さえ今は冷たい。

「アルビナ」

 俺はそっと駆け寄りながら、彼女の名を呼んだ。

 一体どうしたのかなんて分からない。でも、何かしてやれることがあると思った。寒いなら身体を寄せ合えばいい。熱があるなら側で看病してあげられる。寂しいなら話を聞いてあげられる。お腹が空いているなら木の実を取ってこよう。……だから、泣いている理由を教えておくれ。

 上げた顔は涙に濡れ、目は赤く泣きはらしてるようだった。その瞳がそっと振り返り、狼の姿をした俺を視界に映した。

「おおかみ……? ナッツの声が、聞こえたのに……」

 ナッツ。その呼び声に失った記憶の一つが呼び起こされる。衝動で埋め尽くされていた心が凪いでゆく。

「そう、俺だ。ナッツだよ。こんな姿だけど、分かるか?」

「ナ……ッツ……? 本当に……?!」

 信じられないような表情のアルビナが、じっと俺の姿を見ている。しかしその表情は、直ぐにまた泣き顔へと変わっていった。

「来てはいけません……っ!」

 そして制止する声。その悲痛な想いに、俺は思わず足を止めていた。

 どうして?と、そう尋ね返すよりも先に、そこに見えた。人であらざる存在を――――

 彼女の身体からにじみ出す霧。最初白かったそれは、空へ昇れば昇る程に色を黒くし、満月の明るい空にもう一つの樹の影を作り出していた。

 俺をここに導いた糸のうち、三分の一はアルビナ自身へと伸び、残り三分の二ほどがその黒い影へと伸びていた。暗い色の糸ばかり、しかしグランドールの色とも違う。

 純粋な憎しみだけではない。そいつは俺を求めていた。俺へと伸びる糸を見つけられず、探し続けているように見えた。今俺がアルビナに声をかけた事で、そいつは俺を向いた。憎く悲しい程に欲していた存在を、そいつは見つけてしまった。

 影が大きく揺らぐ。アルビナが振り返るのに応じるかのように、ふらり、ふらりと。

「よかったです……またナッツの声が聞けて。でも、逃げてください……! でないと、私は今度こそナッツを殺してしまいます……っ!」

 アルビナの叫び声が言い終わるかどうかという所で、そいつは俺に襲いかかってきた。無数に伸びた枝が手へと変わり、俺を捕まえようとする。

 真っ黒で距離感の掴めないその手を、俺はそこから伸びた糸の揺らぎを頼りにかわしていった。

 アルビナは、その間もずっと悲鳴を上げるように泣き続けていた。

「ごめんなさい……! ごめんなさい……どうしてこんなことになったのか、分からないのです……! でも紛れもなくこれは私で、ナッツを憎んでいます。一緒に死にたがってます。もうどんなに願っても止められない……!」

 その真っ黒い影が一体何なのか、彼女の言葉で理解できた。

 そいつはあの悪魔と同じ存在。迷いの森を守ろうとする悪意。けど決して固有の存在ではなく、自分の中から生まれてきたものであり、かつてそう願った祈りの残り火。

 あの時アルビナから生まれた願いは絶望に染まった。

 俺が、彼女にそんな絶望を抱かせた……

 真っ黒い影のように見えるそれは、いくつもの枝となって俺の逃げ道を塞いで行き、ついには俺の後ろ脚を捉えた。地面に叩きつけられた衝撃こそ感じなかったが、絡みついてくる枝は、まるで茨かなにかのように鋭い痛みで全身を締め上げてくる。俺はそれを剣で刈り払った。

「……アルビナがそう願うなら、死んでやってもいい」

「……駄目……そんなの駄目です!」

 顔を背けたまま、彼女が叫んだ。

 背後の影が、いよいよもって勢いを増した。俺と一緒に居られる事に歓喜しているようにも見えた。

 体をさばき、剣でいなし、俺はその全てに抗う。それでも、いくつかの影が俺の身体を掠めていった。

 アルビナがそんな俺から顔を背けた。その表情からは嘆きの色が見えた。いつ再び捕まってもおかしくない様子に、見ていられないようだった。

「いやです! ナッツがいなくなるのに、笑っていられるわけない……私ひとりが生きていける筈がないんです……!」

「けど……!」

 言い返そうとして、俺は言葉に詰まった。アルビナが受け入てくれそうな言葉が思いつかなかった。そうなって、初めて気が付く。俺達の願いはこんなにも噛み合わない。俺の願いはエゴに過ぎず、アルビナの願いは既に叶うことがない。

 ならどうすればいいんだ!? 自問を繰り返す。けど、矛盾の間に答えを見いだすことなど出来るはずもなかった。

 枝が広がっていく。空を覆ってゆき、少しずつ、月の光も届かない内へと俺の体を閉じ込めようとする。

「いいんです……私のことなんか! 私なんかの為に、ナッツが命を投げ出す事なんてないんです……! 私はアルビナではないのですから……」

 悲しそうに、彼女が呟いた。救いようのないその表情が、俺にこの命の終わりすら予感させ、………………

「馬鹿っ!」

 嫌な気持ちを振り払うように、俺は叫んだ。

「お前がアルビナじゃないっていうなら、一体誰がアルビナだっていうんだ! 俺が十年近くも一緒に過ごしてきたアルビナは紛れもなくお前だ! その間、俺は幸せだった。お前もあんなに笑っていた。その時間まで否定するつもりかよ!」

「それは、私があなたを騙していたから……! アルビナになりすまして、ナッツの好意をかすめ取っていたのですよ、私……!」

 闇は一層濃くなるばかり。やがてそれは月をも隠し、この場所から光を奪っていった。

「アルビナを殺してしまったのも私! 取り返しの付かないことは、もっと……もっといっぱい……っ!」

 やがて、俺が呼吸している空気すらも、闇に覆われた。もはや何処から手が伸びてくるのかを判別するのは不可能だった。

 ほんの僅かな意志の気配を辿り横へと飛び退いても、次に足を付いたそこは闇の敷いた手の平の上でしかない。もう一度跳ねれば、今度は闇そのものに身体がぶつかる。……いつの間にか、逃げ道すら完全に塞がれていた。そうして俺の四肢は、再び影に捕らわれた。

「私は、ナッツを助けたかっただけなのに……

 やめて……もうやめてください……私、ナッツを殺す事なんて望んでいません……!」

 その手が、俺の身体を引き裂いていく。

 周囲には一片の光すら見えない。もはや、目を開けているのかどうかすら分からない。意識が消えかかっていた。

「消えるなら私一人だけで良かった筈でしょう……!? どうしてそれができないのですか!? どうして…ナッツを連れて行こうとするのですか…… 私の罪なのに……そんなことしていい筈がないんです……」

 そんな中、あの子の悲痛な声だけが、いやにはっきりと聞こえていた。

「……もう……やめてください……二度もナッツを殺さないでください……」

「アル……ビナ……」

 俺は聞こえてくるその声にしがみつくようにして、声を絞り出し彼女の名を呼んだ。

「教えてくれ…… 君は……どうして俺を憎むんだ……? 俺が……君を何度も裏切ったから……?」

 アルビナが首を振ったような気がした。辺りは闇で見えていないのに。俺と彼女を繋ぐ糸が、そう思わせているのかもしれない。

「ナッツが私を裏切ったなんて、そんなこと一度だって思ったことはありません……ナッツはいつもアルビナの為に必死なだけ……私は、むしろ嬉しかったくらい。何にも知らなかったから。……馬鹿みたいでしょう……? その想いを受けられるのは私ではないのに、そんなことで喜んでいたんですよ……?」

「そんな……こと……無い……」

「――――じゃあ、あなたにアルビナを忘れることができるのですか?」

 いくつも聞こえていた声が、一つに重なった。その時の声を、俺は忘れる事はできないだろう。俺は確かに、異質な声を聞いた。暗く、重く、鋭く……俺はこの時初めて、念の籠った声ならば人が殺せるのではと感じた。その声は、アルビナのものでありながら、決してアルビナのものではなかった。

「できないでしょう? その女の為にどれ程揺らぎ続けて、死ぬような目に遭っても、それでもまだ私をアルビナと呼ぶあなたに、アルビナを忘れる事なんてできないでしょうっ?!」

 答えられる筈もない。そんな沈黙ですら、彼女を怒りに駆り立ててしまう。

「あの女のことを考えてるから何も言えないのでしょう!?」

    「妬ましい……! 忌まわしい……っ!」

       「ここへ来て、一体何度その名を唱えましたか?」

「六度も! その度に私は消えてしまいたくなる。あなたが忘れるまで、何度だって……!」

  「あなたと一緒に幸せでいたいのです。死ぬときまでずっと一緒に」

「あなたを一人にしません。あなたに付いていきます。あなたを、連れて行きます」

    「あなたを憎んだりはしません。できる筈もありません」

   「いつかはあなたを笑わせてみせます。アルビナを忘れさせてあげます」

  「だから……あなたの行きたい所へ行きましょう。私と一緒に行きましょう」

     「森の外も、遠い町でも、ずっと手を引いていて下さい」

        「私を愛してくれますか? アルビナを愛したように」

    「もうやめてください……っ! 私は独りでしかないんです……」

 いくつもの声がアルビナの声に重なり、やがてどれが彼女の声なのかも分からなくなった。全ての声が泣いていて、一瞬後には憎しみへと呑まれていく。その始終を、俺は何度も何度も聞かされた。

 頭の中がぐるぐる回る。月が満ち、欠け、そして喰われ……そんなのを僅か一瞬の間に何度も見せられているかのようだった。

「私、ナッツが思うようないい子じゃないのです……! アルビナではないんです……!」

     「いけないのですか!? それでは愛してくれないのですか?」

        「ナッツ」

「私は、あなたの願いを叶えてあげたい。幸せにしてあげたい」

 今聞こえているアルビナの声すら、憎しみに染まりながら、少しずつ掻き消えていくのが分かった。膨れあがる感情を次々と否定していく彼女の心は、失われかけていた。

 月の光が消える。辺りが完全な闇に閉ざされた。

「――――君を泣かせているのは、その憎しみか――――」

 呟きが、アルビナに聞こえたのだろうか? 俺を繋ぎ止めていた糸が震えたような気がした。

[しかし憎しみを持たぬ生物などおらん。それも娘の一部に違いなかろう]

 獣の声が聞こえた。それは確かに真理には違いなかったが、俺にはもう躊躇いは無かった。

「だけど、幸せでいるのに必要のないものだ。妬みも憎しみも」

 ますます締め付けを強くする闇の帳を、俺は真っ直ぐに意識した。

 それが、アルビナが抱える妬みや憎しみの感情。

 アルビナを苦しめる、俺が倒さなければいけない、“敵”。

 この意識を、それをなしとげる為に、純化させた。

 動かない身体に代わり、剣に念じる。敵を切り裂く為の存在である剣が、その敵に動きを封じられる筈などない、と。

 剣は自然と動いた。

 俺を捉えていた闇を切り裂き、俺の目に再び月光をもたらした。身体は、……まだ動く!

「……今、助けてやるぞ……アルビナ……っ!」

 跳躍し、最後の一振りに己の意識の全てを込めた。

 この世のものとは思えない音を立て、辺りを覆いつくしていた闇が散っていく。

 闇の晴れた先に、泣き疲れ、倒れ伏したアルビナの寝顔が見える。

 それを見た途端、灯の油が切れるかのように、俺の意識もまた失われていった。


 きっと次に目を醒ましたときには、この一時の憎しみを忘れられるよう………


 消える瞬間、俺はただそれを願っていた。

 動かない身体が柔らかい草の上へと降りる。

 もはや落下の痛みすら感じない。

 ドサッという音が、いやに軽く聞こえた。

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