#30 剣


 次に目を開けたとき、俺は地の上に四肢を広げて立っていた。

 目の前には、憎きグランドールと機械弓を構えた十人前後の兵士達。砦も見える。……さっきとなんら変わることのない風景。だが、戒めから解き放たれた身体は今までに感じた事がないほどに軽い。

「狼……? いつの間にそこに居た!?」

 グランドールが驚愕の表情を浮かべ、兵達にはどよめきが広がっている。

 見回す内、視界の隅に磔台を見つけた。

 そこに、見るも無惨なルフェの青年がいた。胴体にいくつもの矢が突き刺さり、命が尽き果てているのが分かる。

 ……それは……俺だ。いや、俺だったものの抜け殻。もうそこに俺は居ない。

 磔台の足元に立っているのが、今の俺。深い濃灰色の毛に覆われた四肢と身体。その姿は、狼そのものだった。

(お前に最も相応しき姿だな)

 相変わらず聞こえてくるその声の主を捜して辺りを見回したが、あの角の生えた狼の姿は無かった。代わりに、俺の傍らに悪魔のような影が、黒い靄のような姿ながらも今度ははっきりと見えていた。おそらくそれが“その声”の真の姿なのだろうか。曲がりくねった角と、右袖を破り醜く変形した異形な腕の、黒衣の悪魔。その形は、地上を闊歩するあらゆる獣の特徴を継ぎ合わせたかのようで、見ようによってはあらゆる獣とも見えた。

 当然、人の顔もそこにはあった。彼は、堕落や殺戮、そして快楽を悦ぶような邪悪な笑みを浮かべていた。獣の姿の中、唯一人に近しい表情が、そうした邪悪な表情を浮かべている事にぞっとした。

[――――さあ、お前の願いを存分に叶えろ。クックック……分かっているぞ。ここにいる人間ども、生かしておくわけにはいかぬだろう?]

「その通りだ……!」

 こいつらは確実にラティエに害をもたらす。一人たりとも逃しておけない。俺は地を蹴り、一番端に居た兵士の一人に飛びかかった。

「ひぃっ!」

 情けない悲鳴を上げ機械弓を構えるも、矢はさっき俺を処刑する時に撃ったきり。装填されている筈もない。俺の顎は兵士の一人の腕を、鎧の上から容易に咬みちぎっていた。

「こいつ……! 一体何だ!?」

「矢を装填しろ! 警報を鳴らせ!」

 騒然となる兵士達の中、やはりグランドールが最も早く事態を理解していた。この俺が、自分達を皆殺しにするつもりでいる事に気付いたのだ。

 兵士達がその指示に正気を取り戻し、一斉に矢の装填を始める。彼らが再び矢を構えるまでの間に二人、さらに狙いを定めて発射されるまでの間にもう一人の喉を食いちぎった。直後に放たれた矢は、俺の身体をかすりもしない。今の俺にとっては枝を避けて歩くに等しい楽な行為だった。

「手前の者から順に撃て! いーか、よくねらえ! 撃った者は直ぐに下がって装填! 奴に近寄らせるな!」

 それでもグランドールの指示は的確で、順に矢を放っては近寄らせてはくれなかった。しまった、アイツを最初に仕留めておくべきだった……! そう後悔している所に、再びあの声が聞こえた。

[なんだ? こんな矢が怖いのか?]

「怖くなんか……!」

[魂無き矢などに、今のお前を殺せぬ。もしお前がこんな矢で死を受けるとすれば、それはお前の心が矢を受けて傷を感じるからだ]

 意味が分からなかった。悪魔はそんな俺にこう訂正した。

[……つい先程まで人であったお前にそれを受け入れるのも無理な話か]

「じゃあどうするんだよ」

[矢を弾くと、それを願うといい]

「何だよそれ!」

[なぁに、狼に生まれ変わるよりも簡単な事だ]

 楽しげに笑うその悪魔に腹が立った。

 ええい! こんな矢を受けて死んでいられるもんか!

 俺は言われる通りに「矢を弾け」と願いながら、手前にいた兵士の一人に突っ込んだ。

 その彼が放った矢は、真っ正面から俺を捉えた。そして眉間に突き刺さるその少し前に、矢は風でも受けたかのように逸れて後ろへ過ぎていった。外しようもない距離で放った筈の矢が逸れたことに驚愕する間もなく、俺はそいつの額を食い破っていた。それを見て悪魔が笑う。

[できるではないか]

「だけど、これじゃあきりがない。グランドールを仕留めなければ」

 体術にも優れる奴のこと。こんな下っ端のように間単に首を取らせてはくれまい。

「せめて武器があれば……いや、こんな体じゃあ……」

 その時、一本の黒い剣が視界に映った。それはシーザーの剣だった。この騒動の中でほったらかされ、広場の一角に転がっていた。

 狼の体では剣など振るえないというのに、不思議とその剣に惹かれた。己の体の一部であるかのように、本能がそれを必要としていた。

 俺は隙を見てその剣まで跳躍すると、剣の柄を口にくわえ込み、着地に合わせて飛んでくる矢を剣の一振りで弾いた。それは不思議な程に俺がくわえ込んで使うのに丁度良い形状を為しているように思えた。そして、大きさ程の重さを感じなかった。どういうわけか、既に大剣の形をしていなかった。

「これなら、……行ける!」

 不自然さを呑み込み確信した俺は、次いで飛んできた矢をかわし、剣を咥えたまま兵士達の作る陣形の中に突っ込む。

 すり抜けざまに剣を振るうと、刃は容易に鎧とその中身を切り裂いた。悲鳴もなく兵士の一人が倒れる様を見て、陣形は滅茶苦茶に崩れた。恐怖から逃げ出す者もいた。この、訓練を重ねたグランドールの部隊が、だ。俺はその情けない姿を見て、勝ちを確信していた。

 しかしこの剣、なんて切れ味だ……! 神話で語られる通り、ありとあらゆるものを切り裂けるっていうのか!?

「狼ごときが、人にでもなったつもりか……!」

 グランドールが腰の剣を抜いた。俺は彼の間と呼吸を見定めると、一気に飛びかかった。

 キィィィィ…………っ

 美しいまでの音色を響かせて、二つの剣が交錯した。だが、二つは決して互角ではなかった。

「っ!」

 俺の振るった剣は、ほんの僅かな抵抗だけを刀身に響かせただけで、容易にグランドールの剣を叩き折っていた。それでもなお勢いを失わぬ剣は、そのまま彼の肩口をも切り裂いた。しかし、まだ致命傷には成り得ない。

 グランドールは直ぐさま新たな短剣を抜き放ち、同時に俺の顔へ振り下ろした。

 飛び込む勢いを殺しきれない俺は、それを完全にかわすことはできなかった。刃は俺の片目を潰し、さらに激痛をもたらした。

『ちぃっ』

 お互いに仕留め損ねた二人の声が重なる。俺は剣の長さに任せ、着地と同時にもう一度剣を振るったが、今度はグランドールの方が早かった。彼はそれをかわす勢いに乗せて短剣をもう一薙ぎした。今度は肩に痛みが走る。

「くそぉ……っ!」

 劣勢。グランドールは笑っていた。俺は負けられない……

 トドメを刺しに走るグランドール。それに合わせるかのように周囲四方から矢が飛んできた。弾道やタイミングの計算しつくされた矢は、完全に俺の逃げ道を奪う。


 ――――、俺は剣を振るった。

 それら、俺の前に立ち塞がる全ての“敵”を薙ぎ払うつもりで。


[その剣はな]

 あの悪魔の声は、剣戟の間もずっと聞こえていた。俺にこの剣の使い方を教えてくれていた。

[ただ“剣”という意味しか与えられなかった、名前無き刃だ]

 シーザーが持っていた時には、柄が黒く塗られている以外、何の特徴もない大剣だった。敢えて言うならば、あまりに大きい。だがそれだけ。

 しかし今はその重さを感じることはない。大きさも恐らく変わっている。

[この世界の不良品なのだよ。概念としての“剣”という意味しか持ち合わせてはいない。だからどんなものに対しても“剣”となり得る。言い換えれば、これで斬れぬ物など存在しない]

 それは、とんでもない代物だった。

 その話を聞き剣を振るうだけで、持ち主であるあのシーザーが本物の英雄だったのだという事に気付かされる。

[いいか、これは理屈ではない。“剣”とはすなわち、そなたの“敵”を打ち倒す為の武器であり戦う力。何かを斬るのではない。そなたの“敵”を斬るのだ]

「敵……」

 俺は、自らに問いかける。

 命を落とし、狼の姿となってまでも滅ぼしたい敵とは?

 それは、アルビナを泣かす奴らであり、ルフェ達を虐げる人間達であり、グランドールであり、彼の振るう剣であり、彼が指示を出す兵士達であり、その兵士達の放つ矢であり、兵士達が振るう凶器であり、人間達の悪意であり、

 ……アルビナのもとまで走らなければいけない俺の、その前に立ち塞がろうとする全ての存在。


 俺が振るった剣は、それら全ての敵をたった一振りで斬り裂いた。

「っ!」

 何が起きたのか、誰も理解できなかっただろう。

 振るった剣から起きた剣風が、飛んできた矢の全て、それを撃った兵士達と、そして今まさに俺に飛びかかろうとしていたグランドールの腕と身体を、容易く切り裂いた。

 この場所に集まっていたいくつもの意識が失われ、砦は一瞬にして廃墟と化したように音を失った。切り離された残骸の落ちる音だけが、微かに草を揺らした。

 辺りに、もはや敵はいない。居るのは、最初に戦意を失くした数人の兵士達だけ。彼らだけが俺の敵意を逃れ、命を取り留めた。だが今や彼らは、目の前で起きた信じられないような“奇跡”を目の当たりにして、正気すら失いかけていた。呆然とする者、天を仰ぐ者、あるいは神か悪魔を見るような目で、この狼の身を見つめる者……

「……ぁ、迷いの…森の……悪魔……」

 彼らは、もはや喪われたと言っていい。身体が存在しているだけで、心は既に無い。いや……あるいは、この剣は彼らの“敵”対心をも斬ってしまったのかもしれない。

[クックッ……やるではないか。よもやここまでできるとは思わなんだぞ。思いのほか、この森と相性がいいのかもしれんな]

 獣の悪魔が耳元で笑った。

 しかし、今の俺にはそれを耳障りに感じることもなかった。

 俺は辺りを見回した。アルビナ以外の何かの衝動が俺を突き動かしていた。

 この場所に、まだ何か為すべき事が残っているような気がした。

 空の色から、日が沈もうとしているのが分かった。石を組んでできた砦の壁面は、その赤い陽の光を反射し、一種異様な存在感をこの場所に表している。まるで、建物が建物としてあるのはただの呪いでしかなく、夕日の赤い光を受けることでその呪いがほんの一時だけ解けて呼吸を始めているかのような、そんな景色。辺りが静かであればあるほどに、この石で出来た砦はそれを扱う主である人を拒み、ただ自らの時間をゆっくりと過ごしている。本来なら、俺もこの場所にいるべきではない。それほどに、ここは静かだった。

 だけど……俺はこの砦の中から溢れ出す、騒がしい程の感情を聞いていた。今まで感じたことの無かった、多くの感情を。

 それは怯えと絶望。しかし生き残った兵士たちとははっきりと違う、親しみのようなものが感じられた。

 俺は急ぎ砦の廊下を走った。

 建物の構造は、手に取るように理解していた。目指す場所がどういった所なのかも。

「地下の一番奥……一番逃げ出しにくい場所」

 やがていくつもの強固な扉の並ぶのが見えてきた。気配を探り、さらにその確信を強めた。彼らは、確かにそこにいる。

 俺は、そのうちの一つの扉を、銜えていた剣で斬ってやった。

「な、……どうしたっていうんだ?」

「誰かが助けに来たのか? もしかして……」

 そこに閉じこめられていた沢山の人達が警戒の声を上げた。確信していた通り、彼らはルフェだった。

 ……??

 ルフェ? ルフェとは、ダレの事だろう?

 この耳の長く、浅黒い肌の人達のダレかが、ルフェなのだろうか? いや……そうじゃない。俺が助けなければいけなかったのは、ここにいたダレかではなく、この浅黒い肌をした人達のスベテ……

 だからルフェとは彼らスベテのことだ。そして彼らが死んだらアルビナが悲しむ。

 そう、だから俺は、アルビナが悲しまないように、ルフェ達を助けるんだ。

 閉じこめられていたルフェ達は、突然壊れた扉に疑念を抱きつつ、そこに敵がいない事を知ると、警戒しながらも外へと歩み出した。

 もう彼らを閉じこめようとする敵は居ない。だから、この扉さえ破れば逃げられる。

 役目はこれで果たした。彼らの事でアルビナが悲しむ事はもう無い筈だ。

「狼ですって……?」

 未だ不安そうな表情を崩さない彼らに、俺は背を向けようとした、その時だった。

「ナッツ……? もしかしてナッツが助けてくれたの?」

 俺の名を呼んだのは、女の声。それが聞こえたときには、一度は歩みを止めた。

 振り返ればそこに、女が立っていた。アルビナじゃない女。アルビナと、似ても似つかないルフェ。

 彼女は、俺を知っているようだった。期待の表情で部屋から飛び出したものの、想像していた姿とはあまりにも違う今の俺を見て、落胆と戸惑いの表情を浮かべていた。

 しかし、俺を見つめる強い眼差しは、俺に違う感情を揺り動かそうとする。

「ナッツなんでしょう……?」

「!?」

 女が再び俺の名を呼んだ。

 俺はその声から逃げ出すように、その場を後にした。

 何故だか分からないが、悲しかった。どうしてなのか、その女を思い出せない。名前すら出てこない。それがとても悲しい事のように思えた。

「どうしてなんだ……! 何で思い出せない!?」

[何を悲観することがある?]

 悪魔が、そんな俺の姿を見て笑った。

[届かぬものを得るために、お前が望んだことだ。今の姿をよもや忘れてはいまいな?]

「…」

 俺は身体中のバネを使い、森の中へと駆け出した。

 今この大地を掴むのは狼の四肢。剣を拾いはしたものの、柄を手に握る事はできない。

 代わりに突き出した口とそこに並ぶ鋭い牙が手に代わって柄を銜えている。が、その姿はあまりにも不自然だ。細くしなやかな四本の足は、人よりもはるかに速く大地の上を疾駆する。この姿は、まさしく獣。欲しいものを貪欲に追い求める本能の化身……

[これから先、お前が残していたものは少しずつ強さへと純化していく]

「純化……?」

[人では決して得られぬものに手を伸ばしたのだからな]

「ああ、そうか……」

 走りながら、俺は思っていた。

 だから、こんなにも悲しいのだ。もう人に戻る事もできないから。

 アルビナの為に。その名前さえ覚えていれば、それでいい。

 君が“君”で居てくれさえすれば、俺の名前すら必要ない。

 俺は、今度こそ本当に振り返らなかった。

 森の何処かで苦しんでるであろう彼女の所へ、獣の足で駆け出した。

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