6,狼 ― ナツェル

#29 狼


 今更ながらに後悔している。

 あの時、咄嗟にアルビナの名を呼んでいた。いくら否定したところで、自分の中ではアイツは紛れもなくアルビナだったらしい。

 泣いたり笑ったり怒ったり……あの頃には見られなかったそんな表情も、巫女として尊敬されるのも、かつて俺がどんなに願って止まなかった姿じゃないか。十年前のあの日、願いは確かに叶っていたのだ。

 こんな幸せな生活をあれほど夢見ていて、俺はどうしてそれを受け入れられなかったのか……!

 幸せそうなアルビナに、どうして背を向けるような真似をしたんだ……!

 アルビナを守ると約束しておきながら、俺はまた裏切っていた。守れなかった。

 アルビナは、俺を見て泣いていた。俺はアルビナが走れるように、不安を与えまいとして必死に痛みに耐えていたのに、……なのに、見えていなかった筈のアルビナの目は、まるで俺の嘘を見抜くためだけに光を受けたかのように、声を堪える俺を向いてその目をしっかりと見開いていた。

 アルビナの足が止まったのを見て、俺はまた今度も駄目なのだと思った。

 思えば、願いを叶えたアルビナに対し、俺がした約束はただの一度だって守られちゃいない。……ナッツはその名の示す通り、何処までも弱虫で、小さな存在だ。シーザーなら、アルビナを守れただろうか?

 ああ……もう起きあがれない。地べたに這いつくばる俺を、あの時の“狼”が見下ろしている。何も言わずに、憐れみ、蔑んでいる……

「―――――なぁ、俺、死ぬのか?」

 狼は目を細めるだけで、答えはやはり返ってこなかった。



「まだこの声が聞こえているなら、そして考えられる頭があるのなら、少しは後悔して欲しいな」

 声? 聞こえている。

 でも、あれからどれくらい時間が経ったのか分かりはしない。この意識が理解している時間感覚は、ひどく曖昧だ。あの直後、あの場所ではないのだけは確かだ。アルビナは逃げ出せただろうか……?

 俺自身の体は、訓練用の的にする為の杭に磔にされている。目の前にはずらりと並んだ弓兵。……それこそ、射撃訓練でもするかのように整列している。

「ナッツ。君が今も私の側に居たなら、もっと幸福でいられた筈だ。君は死ぬことは無かった筈だろうし、私も自分の立場を悪くしてまでこんな厄介な任務を請け負わずに済んだのだからな。実に残念だ。今では私は君を処刑せねばならない立場だが……正式な処刑の手続きを踏んでやるのは、私が最後にしてあげられるせめてもの情けだと思って欲しい。気紛れだが、かつての部下への慈悲のつもりだよ」

 やけに口が達者なのは、グランドールの声。側にいるようだが、俺からその姿は見えないが、その声からは今までしてやられてきた事への憤りと、ようやくそれを晴らせるという愉悦が滲み出ている……コイツは八年の間に随分変わったように思えた。ルフェと違って人間にとっての十年は長いから、それは当然かもしれない。

 やがて、ぼんやりとだが頭も冴えてきた。

 弓兵たちの背後に建物が見えるから、ここは砦だろうか? 俺はここに連行され、公然と処刑されるらしい。

 そうすることには何の得もなかろうに、ご苦労なことだ。……俺にとってはこの時間が、アルビナが逃げる時間稼ぎにはなる。せいぜい、口上を垂れればいいさ。俺は、ひとりほくそ笑んだ。それが、グランドールにとっては気にくわなかったらしい。

「白い巫女のことなら無駄だぞ。上からは生け捕りにと言われているが、奇跡の力など無いならそうする意味も無い。あの妙な邪魔者も一緒に、直ぐに始末する。君は無駄死にだよ」

「……ふん……お前ら人間に、シーザーを殺せるものか」

 その名を聞き、グランドールが失笑する。

「“神殺し”にして“竜殺し”……なるほど大層な名前じゃないか。だが、どれほど凄腕だろうとも、軍隊相手に丸腰ではな」

 グランドールの腕がちらりと見えた。その手の指し示す先に、見覚えのある黒い剣が立てかけられているのが見えた。

 それはシーザーの持っていた大剣に間違いない。柄が黒い以外何の装飾もない、ただ大きいだけの特徴のない剣。さっき乱入してきたときに剣を投げ入れて、それっきり回収できていなかったのか?

 俺の心配を余所に、グランドールはその剣へと歩み寄り手に取ると、しげしげと眺め始めた。

「なまくらだ。私の執務室にあるペーパーナイフの方がよほど切れるだろうな。“ゴッドスレイヤー”でも期待していたか?」

「……………」

 俺は言葉を失った。そりゃあ、彼が“神殺し”だなんて、考えるのも馬鹿馬鹿しいことだが……現実離れした感覚や身体能力を持っていたのも事実。彼が剣を捨ててアルビナを助けてくれたのならと期待すると同時、グランドールの狂言かもしれない台詞に、焦りを覚えずにはいられなかった。

「ちくしょう……」

「いい目になってきたな。まだ子供だった頃の君を思い出す」

 グランドールは、それを楽しむように薄い笑みを浮かべ、やがて俺に背を向け弓兵の射線から出て、そして合図の手を挙げた。前に控える部下数名が一斉にボウガンを構える。次に彼が手を降ろせば、一斉に矢が放たれる。

 ……いよいよ、俺は死ぬらしい。アルビナはまだ追われてるって言うのに、俺だけがここで死んでしまうらしい。

「安心したまえ。『死を受け入れると同時、君の全ては許される』……私も、そう思っているよ」

 何かの教本だか聖典だかの有名な一節。俺には何の救いにもなりはしない。

「ちくしょう……!」

 俺はもう一度その台詞を吐き出し、悔しさを噛みしめながら目を閉じた。

 単色の暗闇と、静寂の音色が広がり、そして……

[―――――いよいよ諦めたか?]

 含み笑いと共に声が聞こえた。



 まるで耳元に立っているかのような声。僅かな息づかいさえも、耳障りなほどに聞こえてくる。

 壮年を過ぎた初老の男の声だった。その声に導かれ、目を開いた。

 磔にされる俺の直ぐ目の前に、狼が佇んでいた。黒い身体の、角の生えた大きな狼だった。

 ……いや、おかしい。狼に角なんてない。だからそれは狼ではないのかもしれない。しかしその輪郭は、幾度か俺の前に現れたあの狼と同じ奴に見えた。

[さっきまでは腕の一本になろうとも噛み付こうとしていたのにな。つくづく、お前は心変わりが早い。迷い藻掻いた挙句に、最悪の事態に流れ着く弱き者よ]

 まるで、絶望する俺を嘲笑うような声……

「……あの時の狼か? 今度こそ、俺を殺しに来たのか?」

[お前一人の生き死になど取るに足らぬ変化に過ぎぬ。私はな、お前のその誰にも届かぬ無念の声を聞きに来たのだ]

 黒い獣が、肩を震わせた。それが笑っているように見えた。

[移ろい続けた人生の結末がこれだ。お前はあまりにも弱い存在のままで終わる。悔しかろうに]

「…………」

[助からぬお前だからこそ、教えてやる。迷い、移ろい続ける命など強くはなれぬ。それが例え生きる為だとしても、そんな木の葉のような命など容易に腐り果て失われる]

 俺は、狼のその台詞に奥歯を噛みしめた。

 悔しかった。自分がその通りだったから、悔しかった。

「……そうするしかなかったんだ。他にどんな選択肢があったって言うんだ」

[もはや聞いても無駄なこと。諦めたのだろう?]

「俺だって諦めたくなんかなかった! 今だってアルビナを守りに行きたい……こんな奴ら蹴散らしてアルビナの所に行かなきゃならないんだ。……でも、もうどうしようもないじゃないか。腕も足も動かないんだ」

 処刑台に張り付けられた体は杭に縛られている。足はもう地に届くこともないだろう。耳も目もおかしな狼を捉えはじめた。その狼には何故か聞こえているらしいこの声もすっかり掠れ、アルビナに届かせる事も出来やしない。

「もう何もできないのに……」

[……果たしてそうかな? ではお前の声が聞こえる私は、一体何だと思う?]

 目の前。兵士達が放つ矢が今すぐにでも放たれようとしているこの処刑場で、狼は堂々と俺の前に佇んでいる。

「一体何なんだ? お前……」

[言ったぞ。私は、お前の無念の声を聞く為にここにいる]

 そいつは俺の足元から見上げているのに、俺を見下ろすかのような威圧感を放っていた。獣のくせに、醜い表情を浮かべ、それを隠そうともしない……まともな存在であるはずがない。

 今も狼の背後からは人間の兵士達の構える矢が俺を狙っている。なのに、この狼は振り返りもしない。まるで、彼の興味を引いた存在以外全ての時間をこの狼が止めてしまっているかのように、放たれることのない矢を背にしながらただ俺だけを見上げ、そして笑っている……

「……俺の願い、聞いてくれるか?」

[――――――]

「俺を助けてくれるか?」

[お前はもうどう足掻いても助からぬ]

「俺の命なんかどうだっていいんだ。欲しい奴にくれてやればいい。だけど、お前なら……アルビナの所まで走れるはずだろう? 俺の代わりにアルビナを救ってやれる筈だろう?」

 力在るこの狼を戒めるものは何もない。その彼がこうして俺の声を聞いてくれるというなら、どうか―――――――

 俺は、心より願った。アルビナの無事を。彼女が泣きやんでくれる平穏を。

「アルビナは人を疑う事を知らないから、これからも裏切られて、沢山傷つけられて、悲しむかもしれない。だから、守ってやって欲しいんだ。アルビナがアルビナでいられるようにずっと…… 無理ならほんの一時でもいい。……あの時泣いていたその元を、お前が取り払ってやってくれ。それだけでいいから……」

[――――――お断りだ]

 狼はニィと意地の悪い笑みを浮かべた。

[そうしてあの娘を守ったとしても、礼どころかまた恨まれるだけだろうからな。自分の事などどうでも良かった、どうしてお前を救ってやらなかったのか、とな。クックッ……]

 ……狼の言うことは、きっと正しい。この願いはエゴでしかなく、アルビナもそんな事を望んではいないというのも、俺には分かってる。

 いつもそうだ。俺は、アルビナの事を助けたいと思っているのに、アルビナの事を理解するのはいつも後になってから。そして、その時にはもう手遅れで、俺は何も出来ないまま、絶望しながら事の成り行きを見守るしかできない。

 ラティエにやって来たスパイの俺をアルビナが迎え入れてくれたように、俺もありのままのアルビナを受け入れてやらなきゃいけなかった。きっとそれが俺の一生の役目で、他にどんな理由があろうとも俺はアルビナを失望させてはいけなかった。なのに、俺は……

 もう何もかも遅い。身体は動かず、俺の死はもう避けられない……

「もう俺じゃあ駄目なんだ。もう走ることもできないから……けど……助けたいんだよ……」

[――――ならば動く足をくれてやろうか]

 我が耳を疑った。絶望と失意に沈むこの場に、その声はあまりにも似つかわしくないほどに甘美な響きであったからだ。

[私を使うよりも、自分の足であの娘の元に走ればいい]

「……でも、どうやって……!」

[願い続けろ]

 まるで突き放すような短い声。しかし、答えなどそれが全てであったのだろう。狼は、さらにこう続けた。

[死の間際まで、叶うと信じ続けることだ。かつてアルビナがそうしたようにな]

「―――――ではさよならだ。その願いが叶うといいな」

 グランドールの声が辺りに響き渡った。時間がまた動き始めたのだ。

 気が付けば、狼の姿も消えていた。明けたばかりの広場は少し眩しくて、その何処にも真っ黒な角を生やした獣の姿を見つける事などできなかった。

 専用の台に張り付けられた俺の腕や足は相変わらず動かない。放たれた矢は狙い違わずに俺の胴体をズダボロにしてしまうだろう。

 こんなので、どうやってアルビナの所に行けるって言うんだ! あの狼め……っ!

 ちくしょう……っ!

 命なんてくれてやってもいい! だが、俺を自由にしろ!

 走れる足をくれ! こんな奴らに負けない強さを……!

 グランドールが手を下ろし、同時に矢の放たれる音がした。矢の突き刺さる衝撃を身体に感じた。

 しかし、痛みを感じる事はなかった。


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