#28 迷いの果て
眠って、目を醒まさなければいいと思いました。このまま、意識の無いまま自分でも知らない内に死んでしまえたら、どんなに楽だったか分かりません。
しかしこの時の私は、外へ向けた意識が無いまでも、思考は確かに覚醒していました。
それは不思議な感覚でした。
何も見えません。音も声も聞こえません。何の気配も感じられません。焚き火も消え、外で朝を迎えた筈なのに、その寒さを感じる事もできません。まるで何も存在していない世界に自分という意識だけが浮かんでいるかのよう。足を抱えて蹲っている筈の自分の身体すら、そこには存在していないのです。それなのに、起きようとすればいつでも覚醒できる事も、不思議なことですが、理解していました。でも、覚醒したその先に私の存在する意義はあるのでしょうか?
私は結局、ナッツにとってのアルビナの代わりでしかなく、今そのナッツすらも失いました。後に残った私は、ルフェ達を守る為、森に立ち入った人間を皆殺しにする、恐ろしい神でしかありません。
それでも、私は人の願いを叶える存在……
考えてみれば、確かに私の言った事は全て現実となって現れていたような気がします。
私を傷つけたバーバスさんは、あの時の約束の通り命を落としました。
ナッツもまた私と一緒に居たせいで死んでしまいました。目の見えない私が言った言葉の通りに。
それは恐ろしい事です。声に出した言葉は、例え嘘であろうとも、あるいはふと漏らした不安であろうとも、それが途端に現実味を帯びて、この世界に実現してしまうのです。そしてこの力を、私は人の想いに翻弄されながら無意識に行使していると、シーザーさんは言いました。
ルフェ達が人間を憎めば、私はその願いを受けて人間の街に天災を導き、やがて人間達がルフェの白き巫女を恐れるようになり、私は……その恐怖すらも叶えてしまうのでしょう。
人の希望を実現するならそれは善き神。しかし、恐れを体現するなら邪神。……いえ、両者に違いなどありません。ともに願いを叶える存在。それが人の想う存在に変わっていくだけ。人を救うか、逆に仇為すか、その違いから奇跡を被る人が、自分達本位に呼び分けただけ。
私がそういう存在であるなら、せめて誰かを救う存在になりたかった……ナッツを助けてあげたかったのに、どうして叶える願いがこんな結果を生むのでしょうか。
救いを求めた次の場面には、全く反対の死を望むのでしょうか。
自分達が殺そうとした存在に恐怖を抱くのでしょうか。
人の心は、そんなにも揺らぎ続けるのでしょうか。
月が満ち欠けを繰り返すように。水面に落ちた月が波風に揺らぐように。
人の中に普遍的な願いや信仰は、果たして存在しないのでしょうか。
揺らぎ無き人の心の投影はあり得ないものでしょうか。
……私には分かりません。たかだか十年にも満たない記憶しか持ち合わせていない私には、人の心の形など、分かるはずもないのでしょう。あるいは……
「シーザーさんは、それを探して旅をしているのですか?」
目を開き、隣で眠り続けている彼の方を見やりました。
英雄の名前を持つ人……いえ、恐らく伝説に存在する英雄そのもの。
かつて邪神から人を救った彼は、「俺に人は殺せない」と言いました。
ひょっとしたら彼も私と同じように、人の願いから生まれたのでしょうか。邪神から人を救うために生まれた神の類なのではないでしょうか。人の心が生み出した邪神を退治するために、“神殺し”という伝説を奇跡として永久に繰り返してきたのではないでしょうか。
……だけど、私にはそうではないことが分かります。
誰よりも神と人を知る彼もまた人。心に揺らぎを持ち続けています。
だから、伝説ではあらゆるものを切り裂くと言われる剣ですら、私を殺せないでしょう、きっと。
―――――決して絶望してはいけない。
そんなこと、ナッツを失った私にできる筈もありません。この世界に彼が居ない。それだけで、私が見るこの世界は悲しみに満ちているというのに。この先、彼がいない世界にどれほど絶望するか分からないというのに。
それなら、私はどうすればいいのでしょうか?
人を救うことも、理性を保つことも、死ぬこともできないなら……
――――お前はもう少し冷静になった方がいい。特にお前の場合は、本来人と交わるべきではない。
シーザーさんの言ったその言葉が、私の脳裏を横切りました。
私はきっと、人の側にいてはいけないのです。何処か落ち着ける場所で、心朽ち果てるまで独りでいられれば……
私は眠り続けるシーザーさんを起こさないように、そっとその場を後にしました。
日が照らし始める前のこの森はあまりにも静かで、きっとそんな場所が何処かにあるような気がしていました。
霧の晴れる時間が過ぎても、その森に日が差し込む事はありませんでした。煙が立ち上るように不穏にその身を伸ばした灰色の木々は、自分達を育んできた陽の光すら拒むようにして、その腕を空へ広げていました。
ラティエを囲む月の森が実りと豊穣の森ならば、ここは木々達が作り出した地獄。地を走る動物は当然、枝を渡る鳥たちですら近づきたがらない迷宮。……妖精達が最後に辿り着く迷いの森。それまで人と歴史を共存してきた妖精種族は、ある時を境にして誰も立ち入る事のできない森の中へと姿を隠したと言われています。
その理由も、今なら分かるような気がしました。
彼らもまた人と交わるべきではないと、そういう結論に至ったに違いありません。そして、このあまりに排他的な森は、それに最も相応しい場所でした。
私は今、その場所に独りでいます。
思えば、私が生きてきたこれまでの時間の中で、独りで居たことなどただの一度もありませんでした。いつも側には誰かがいて、私を支え、励ましてくれていました。
私の家族であり、姉さんのような人だったリュシケ。一緒に暮らしているのにいつも私を「巫女様」と呼んで慕ってくれるロノン。厳しいけど真剣に話を聞いてくれるエシンさんや長老レダ様。そして、……毎日の晩餐を供に過ごしたナッツ。
私の好意は結局片思いに過ぎなかったのに、それでも、私の手を離さなかった……
あの時繋いでいた手は、今はとても冷たくて……でも、強く握られていたあの感覚を手の平が覚えていて、手は握った形を作ったまま動かなくて……
もうナッツは居ないと分かっているのに、目を閉じて闇を作ってやればまだそこにいるような気がして、でも握った手は冷たいまま。手を引かれる感覚すら得られず、私の足は……ついに歩けなくなってしまいました。たった一つしかなかった足音が失せ、この世界から音が無くなりました。
シーザーさんの言う通り、私がナッツの想いから生まれたのなら、耳を澄ませば彼の声が聞こえるかもしれません。でもそんな筈もなく、いつも聞こえていた日常にぽっかりと空いた喪失を、嫌という程に思い知らされただけでした。
彼の声はいつでも思い出せるのに、思い出す度に彼の居ない現実に気が付きます。それが嫌で思い出に浸っていると、最後に辿り着くのは、血まみれで倒れ伏す彼の姿……
私の不安がもたらした、その結末。
「ああぁぁぁ……っ!!!」
声を上げて泣く、その音が森一杯に木霊し、零した涙すらも沢山の根があっという間に吸い込んでしまう。
会いたいと思う声すらも、もはや届きはしません。
私は願いを叶える女神。ならば、本当は彼を救ってあげなければいけなかった筈なのに。
私は彼からアルビナを奪い、彼の想いを奪い、彼の命を奪い……
助けてあげる事が出来なかった……
悪い神様。邪神。人を苦しめるだけの存在。
消えてしまえばいいのに。せめて私がいなくなれば、この世界は少しでも平和でいられる筈。
……でも、できない……!
私は死ねない…… これだけの罪を犯してもなお死にたくないと思っているのです。自らの死を願うたび、私を死なせまいと励ますナッツの声が、思い出されるのです。ナッツはこんな私でも生かそうとしていて、彼自身が死んでしまった今でも、私を救おうとしていて……
もう嫌なのに……!
彼が居なくなったこの世界で、どうやって生きる意味を見いだせるでしょうか。彼を殺してしまった私が、どうして生きていられるでしょうか。
苦しい……この身を二つに引き裂かれるほどに。呼吸すらうまくできず、涙で前も見えず、歩くどころか立っていることもままなりません。
それでも、私は森の奥へと足を引きずっていくしかありません。この場所ではまだ、ナッツを思い出してしまうような気がしました。もっと奥へ進めば、ナッツを忘れる事ができるような気がしました。この心を朽ち果てさせる事ができるような気がしました。
やがて――――――夢中で歩き続けたその先で、私は光を見ました。
木々の隙間から見えたのは、なだらかな地平線とそのずっと向こうまで続く平原。
黄昏時のほんのり明るい空の低いところに、まだ昇ったばかりの月が赤く、大きく、そして不気味に燃えていました。
……こんな月、見たことがありません。
ここは、迷いの森の果て。
生まれて初めて見る外の世界。
そこに望んでいた忘却など存在せず、しかしここにもまた彼との想い出があります。
私にとってそこは、ナッツと見る筈だった風景。私が彼を救うために、「アルビナと会える」と嘘をついた、目的の場所。そして、私が消えて彼が見るはずだった風景。
私にその嘘を叶える力があるなら、あるいはそれは実現していたのかもしれません。ナッツはそれに喜んでくれたかもしれません。
……なのに、ナッツは居ません。私だけが、ここに辿り着いてしまいました。
私は……これから何処に行けばいいのでしょうか。
この世界に、彼との想い出の存在しない場所など結局ありはしないのです。
何処へ行こうとも、そしてどんな時であろうとも、私は彼を想い、彼のいる筈だった風景を重ね、そして喪失を思い知るのでしょう。
なら、もう何処へ行っても変わりません。どの場所にも彼は居ません。
苦しい……
いっそ消えてしまえたら。
でも、私のこの想いはもっと生きたがっています。
ナッツの側にいたいと、泣き叫んでいます。
結ばれる事のない二人なら、せめて一緒に死にたいと……
「はぁ……! はぁぁ……!」
その時、白い腕に斑点の浮かび上がっているのが見えました。
最初は染みだったそれは、徐々に色を濃くし、やがて黒い模様となって広がっていきました。
腕だけではありません。全身の皮膚という皮膚が、疼くのを感じます。
苦しい……
まるで引き裂かれそう……
(ナッツ……! 助けてください……!)
気が付けば、私はナッツの名を呼んでいました。
しかしその人はもういないと、私が全て奪ってしまったんだと、心に分からせようとすればすればするほどに、私の心は死を欲しがります。なのに、何かが私を生かそうとしているのです。
ナッツの声で、「死んではいけない」と囁き続けているのです。
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