#25 音


 森の道を抜けていく間も、この夜が明ける事はありませんでした。私は、足元も見えない暗闇を、手を引かれるに任せて早足で歩き続けるだけ。

 ナッツはそうして歩いている間、どうしてなのか一言も声を発してはくれません。ただ、繋いだ手から彼の不安が伝わってくるばかりで、温もりの他は彼の背中すらも見えません。私の手を引くその人がナッツなのは分かっていても、時折見知らぬ人に連れ去られようとしているのではないかという不安に襲われる事があります。そうでなくとも、この暗闇の中で見えるナッツの感情は別人のようでした。まるで、群からはぐれた手負いの……狼のよう。

 ……狼。

 その単語から、私は直ぐさまアルビナの描いた童話を連想し、アルビナと同じ事を考えたという事に、よく分からない戸惑いを感じました。

 彼女と私は違う。今ならそれを確信できるのに、全く同じ事を思っていたのですから。でも……

「もう村には戻れないのですか? みんなには会えないのですか?」

「そんなことはない。人間達をどうにかできれば、また村に……」

 手の力を緩めながら、彼は言い直しました。

「いや、もう村に戻るつもりなんか無い」

「……………」

「俺達は二人だけで外を旅するんだ。ここじゃない、何処か別の場所へ。俺達を受け入れてくれる所なら何処だっていい」

 自分の群を探す狼と、森の少女。少女は狼を想い、狼は少女を守り続ける。

 二人の旅する姿がこんなに悲しいものだなんて、はたしてアルビナは想像していたでしょうか?

 狼はそれまで暮らしていた群に馴染むことができないまま。少女は光を失い、ただ自分の手を引く狼だけを頼りに歩き続けなければいけません。そして少女もまた、最初に狼を助けた少女とは全くの別人。狼がそれを真に自覚したときには、こうして繋いでいる手も離され、少女だけが暗闇に置き去りにされるかもしれないのです。そして……


 ―――――お前は本っ当に変わんねぇな。


 彼は群の中の誰よりも賢く、そして鼻が利きました。そして誰よりも少女の側に居ました。だから狼は薄々そのことに気が付いていた筈です。気付いていてそれでもなお、私を最初の少女だと自分に言い聞かせながら手を引いていました。そんな彼があまりに不憫で、見ていられなくて、なんだか怖いとさえ感じていて、……それが、悲しくありました。

 恐れていました。間もなく訪れるであろう、今のこの関係が壊れる瞬間を。私が過ごしてきた八年の想い出が否定される瞬間を。この想いが、無くなる瞬間を――――― 今それが、この闇に紛れて直ぐ近くまで迫っていました。

 一昨日までは想い人。昨日は恋人同士。しかし今日の私達は………

 誘拐、救出。そして手を引き合い駆け出す二人。

 少女と狼。しかしその真実の姿はあまりにも……救われません。

「少し休もう。疲れただろう?」

 しばらくして彼は立ち止まり、気遣いの言葉をかけてくれましたが、その声はやはり先の見えない不安と戸惑いに満ちていました。

「果物を取ってくる。ここで待ってて」

 彼は私を樹の根元に座らせると、そう言って私の手を解こうとしました。私は離れようとするその手を強く握りしめました。

「直ぐに戻るよ」

「嫌………っ! 手を離さないで下さい……真っ暗ですごく、怖いのです」

 口ではそう言いました。本当は、もう彼が帰ってこないような気がしていたから。私をここに置き去りにして、彼は本当のアルビナを捜しに行ってしまう気がしたから。でもそんな本音ですら、関係が壊れてしまいそうで、口にすることはできません。

「……でも食べないわけにはいかないんだぞ。ひょっとしたら、これからずっと走らなきゃいけなくなるかもしれない。森の中を迂回して、何日も歩かなくちゃいけなくなるかもしれない」

 私は言葉も無くただ首を振りました。

 理屈で納得できるならそうするべきなのは分かっています。でも、今彼を失うのが、彼の存在を感じられなくなるのが、たまらなく怖かったのです。それは飢えよりも早くやって来る私の“死”に違いありません。

 しばらくの間、彼が困ったような沈黙を続けていました。

「……よく聞いて。今から上る樹は、寄りかかっているこの樹だ。だから樹の声を聞くんだ。俺が樹の上を歩けば、その揺れが届く。この樹が揺れている限り、俺は直ぐ近くにいる」

「……声も聞かせて下さい」

 まだ私は、手を離すことはできません。

「声?」

「歩いている間も、ほとんどあなたの声を聞くことができませんでした。だから、手を繋いでいる間だって不安で仕方がありませんでした」

「あんまり喋ると見つかる」

「こうしている間はいいでしょう? 今近くに誰もいないと、ナッツなら分かりますよね……?」

「……分かった」

 それでも、ナッツがそのことを了承する様子は渋々という雰囲気でした。

 私は再び樹に背を預けました。樹がトントンと唄うのが分かりました。ナッツが、樹を叩いてみたようです。

「どう?」

 私は静かに頷き、彼の手を握るのをゆっくりと緩めていきました。スルリと手が離れたとき、私の手から一気に熱が失われていきました。

 それからは、樹がノシノシと揺れるのに縋っていました。しかし声は……聞こえてはきません。お互い、何を話して良いのか直ぐに思いつかなかったのです。彼はそんな沈黙を取り繕うようにして、頻繁に樹を叩いてくれました。

「シーザーは、ちゃんと抜けられたかな」

 やがて彼が発したのは、そんな話題でした。

「あの軍隊が全然気付かない罠に一つも引っかからなかったんだ。大丈夫だとは思うけどな」

「罠?」

「警報って言ってさ、動物の性質なんかも利用して、人間がそこを通ったら村に伝わるように作ったんだ。あの後、森中の警報が外から順に反応した。だから、一斉に人間がやって来たのが分かったんだよ。見渡しの大樹からは森を塗りつぶすようにゆっくり進軍してくるのも見えた」

「……ちょっと信じられません。昨日まではあんなに楽しく宴会をしていたのに」

「いや、もう一日前だよ」

 彼はほんの少しだけ笑いながらそう言いました。ノックをする振動が、少しだけ鳴り止んだ気がしました。

「あれからもう陽が昇って、今は昼頃だ」

「……そう……なんですか……」

 未だ視界は閉ざされたまま、今の私にはその明るさすら見えません。ただ、ナッツの声と、背中から伝わる樹の音だけ。

「お腹、空かないのか?」

「……本当は食べたくないんです。不思議ですよね。私、一日以上何も食べてないはずなのに」

「でも、食べなきゃ倒れるぞ」

「はい。分かってます。ナッツと一緒なら、食べてもいいです」

 枝葉の揺れる音が聞こえ始めました。ナッツが枝の上に辿り着いたようでした。

 もうその場所まで来ると、樹の幹を叩く事はできません。枝の上を歩く音はとても慎重で微かでしたが、私は身体を幹に押しつけることでそのすり足の音を拾っていました。幸いにして、彼の乗る枝の揺れる葉擦れの音は、足音よりも大きく聞こえていました。

「……あの人間に、何か言われたのか?」

「…………」

 私は、それを話すべきかどうかを迷いました。それが、ナッツと私の間を決定的に裂くものかもしれないと……

「どうした? 黙ってちゃ俺も喋りようがないぞ」

「……狡いです。そういうのに利用するだなんて」

「アルビナがもしそれで悩んでるなら、俺に話して欲しいんだ。……なんだか、会ってから元気がないから」

 ……その言葉が、もしアルビナの為に発したものだとしても、彼のその台詞には嬉しく思いました。

「アルビナが、人間の国を滅茶苦茶にした……って」

 彼はフゥという、安心したような息を吐き出した後、こう言いました。

「気にしなくていい。人間の思い込みだ」

「でも、竜巻や地震や洪水で沢山の人が死んだって」

「いいんだ。アルビナのせいじゃない」

 それでも、気は晴れませんでした。

 もしそれがなかったらバーバスさん達がこの森で死ぬような事も無かった筈ですし、ひょっとしたら、人間がこの森に攻め入って来る事もなかった気がするのです。

「……本当は黙っていようと思ったんだけど」

 いつまでもそれを気にする私に、ナッツは躊躇いがちに話し始めました。

 もともと彼は、同族である筈のラティエを滅ぼす為にやって来た事。それをアルビナが止めてくれたこと。そして、ラティエを滅ぼさずに済む方法をアルビナが教えてくれたということ。

 白い巫女の存在。アーネアスの言葉を伝える恐ろしい魔女の噂。人間に仕掛けた嘘の脅し。

 アルビナとナッツがたった二人だけで、ラティエを守ろうと講じた作り話……

「ラティエのルフェ達も知らない。俺達だけの秘密だ。……ラティエはアルビナが守ってきたんだ」

 遠い声で、しかしそれを誇るように、ナッツは言いました。

「じゃあ、災害と私は何の関係も無いのですか」

「俺とアルビナが話を繋げただけだ。向こうもそう信じてたけどな。実際、十年もの間目立った動きは無かった」

 普通侵攻作戦を十年も継続しないと、ナッツは付け足しました。

「でも、それならおかしいです。災害は本当に起きていたのでしょう?」

「偶然だろ。そんな時もある。あるいは……本当にアーネアスがやっているのかもな」

 彼はそこで言葉を切りました。

「なぁ、アルビナ」

「……その名前で私を呼ばないで下さい」

 次に名前を呼ばれた時、私はその名前を拒絶しました。

「………どうして?」

「その名前は嫌いです。素敵な名前とは思いません」

 何より、それは私の一番憎い人の名前です。でも、ナッツの前でそこまでは、言えませんでした。

「そんなに気にしてたのか?」

「私だけ、白なんですよ? 同じ村で暮らしているのに、ナッツとも別の種族みたい」

「……そうだよな……ごめん。無神経だった」

 彼はそうして謝ると、しかし直ぐに言葉を続けました。


「……昔は、反対の事言ってたのにな」


 彼から返ってきた声は、まるで呟きのように小さなものでした。私への言葉ではなかったのだと気付くのに、そんなにかかりませんでした。そして私は、たちまちに彼への言葉を失いました。

(あ……)

 ……沈黙、……音も光も熱さえも無い時間が続きました。

 そんな中、彼の存在を示すものはかすかな樹の揺れだけ。それすらも、少しずつ、私の所から遠ざかっているような気がしました。

 それが、きっと終焉の音。アルビナではない私が完全に閉ざされる、その扉の音。彼が、その扉を閉める音。

 きっと、彼は気付いてしまった。十分なほどに確信してしまった筈です。

 アルビナの姿をした何か別のもの。愛しい人になりすます不気味な何か。

 そんなものなら、今この場を立ち去ってしまっても気が咎める事もないから。

 彼の足音が聞こえません。

 私はきっと、この暗闇に一人取り残されて、そして……

 その時、何かが私の手首を捕まえました。

 同時にその手の平に触れる、ヒヤリとした冷たい感触。

「ほら、ハグナだ。大丈夫、皮を剥かなくても生でいける」

 それは、ナッツのものでした。手の平に押しつけられた冷たいものは、ハグナの実。

 言葉を無くしたまま、

「―――――」

 無くしたまま、私の思考が一気に現実へと引き戻されました。彼が、再びその手を離そうとしたのです。

 私は直ぐさま彼の身体を両の腕で捕まえました。そうしなければまた彼は何処かへ行こうとすると、そう思ったからです。木の実なんて、本当はどうでもいいのです。たとえここで飢え死にしても、ナッツとは離れたくありませんでした。

 彼の体に抱きついた時、もう一度彼の温かさが伝わってきました。

 大丈夫、ここにいます。ちゃんと戻ってきてくれました……

 何度もそう言い聞かせるうち、気が付くと私は泣いていました。顔を彼の体に押しつけ、涙を零しながら、ぐずり泣いていました。

「アルビナを置いて行ったりはしない」

「嘘っ……! そんな言葉なんて、信じられません……! ナッツは、ずっと昔のアルビナばかり探しているじゃないですか……!」

 堰を切ったように、言葉が溢れ出しました。

 彼を捕まえて、もう何処にも行かない、行けないようにして、ようやく私は本当の言葉を声に出すことができたのです。

「そんな人、私は知りません……! 今ナッツの側にいるのは、そんな人じゃないです……! なのに、どうして私を見てくれないのですか……! 今の私は、あなたと幸せになってはいけないのですか……!」

「……ごめん」

「あやまらないで下さい……! ずっと側にいてくれるなら、ずっと私の手を引いてくれるなら、あやまらないで、ください………」

 私は彼の大きな身体を抱きしめたまま、ずっと泣いていました。

 彼はそれっきり言葉を無くしたままでした。ただ、言葉も何も無いまま、私が泣き止むのを待ってくれていました。

「……食べよう。後が辛くなる」

 たった、その一言だけ。その後も、想いは引きずったまま。彼の表情さえ見えない闇の中、ただ彼のそんな声を信じるしか無い、不安の道程がずっと続いていくような気がしていました。

 私は彼に背を向け、背を合わせ、そして手を繋いだまま、甘いハグナの実を一個だけ口にしました。その後も眠りに落ちる瞬間まで、彼は手を握っていてくれるだけで何も喋ってはくれませんでした。

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