#23 日常の終わり


 まるで夢を見ていたかのような、そんな一夜が明け、次の日は、小窓から深く入った陽の光で目を覚ましました。

 完全に寝坊ですが、眠気はまだ覚めていません。朝日が私を見つけても、気分はまだ昨日の夢を見続けていました。

 上半身を起こし、ボーっとする頭を振って眠気を振り落とすのですが、腕や脚に億劫そうに残った痺れはなかなか取れませんでした。

 私はそのままの姿勢で、両の手の平を合わせ、また開いてそれを眺めます。

 昨夜、ナッツが取って踊った手の平。

 思い出せば、その感覚が甦り、ほのかに熱を帯びて行くのが分かりました。手足の痺れの正体が筋肉痛だと気づいても、嬉しさで、顔がほころんできました。

 さて……、陽が高く昇っているなら、いつまでもこうしてはいられません。私は熱の残る手の平で頬と額をひと撫でして、寝台の布団から降りました。

 昨夜は着替えずに眠ってしまったようです。手早く身だしなみを整え、もう一度軽く確かめてから、私は寝室と居間とを仕切る厚布をめくりました。

「おはようございます」

「おはよう。随分幸せそうに寝てたじゃないの」

 少しつんとしたリュシケの物言いも、昨夜のことを思い出させるだけ。

「そりゃあ、ふふふふふ……」

「いいわねー、子供はあんな事で夢見てられるんだから」

「駄目ですよー。何を言っても、負け惜しみにしか聞こえません」

 リュシケは二人目の子供エトワにお乳をあげている所でした。

 どうやら今朝の目覚めは本当に遅いらしく、見れば、朝食の食器も既に洗い終わっているようでした。

「あら、余裕じゃないの。そうやって浮かれて寝坊なんかしてるから、今朝は私が起こしに行ってきたわ」

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――?!」

 その言葉の意味に気が付くのに随分かかりました。

「寝顔、初めて見ちゃった」

「どうして!?」

「だから、あなたが起きないから」

「どうして起こしてくれなかったんですか??どうしてそんなこと勝手にするんですか??」

「彼だって仕事があるんだから当たり前でしょ。そうでなくたって蓄えが空だったわけだし。しょうがないから今朝はあなたの分の朝食を持って行ってあげたわ」

「ええええええ――――――――――!?ど、ど……」

「あなたが起きないから。美味しそうに食べてたわよ。久しぶりにまともなのを食べたって」

 眠気なんかもうとっくに吹き飛んでいました。私は頭巾と籠を持って大慌てで外へ向かいました。

 ナッツ! 昨夜は私だけ見ていてくれたくせに、一夜明けたらもうそんな! 私の料理では満足さっせられないというのはしょうがないにしても、リュシケの料理を引き合いに貶されるのは絶対に許せません! そもそも昨日私の手伝った料理を散々に言ったばっかりなのに、それも外からお客様が泊まっているっていうのに、シーザーさんの前で! 残りの料理も一杯貰っている筈なのに! それでもリュシケのがいいだなんて!………………………………………………………………………………………

 ……………………梯子を下りた所で矛盾に気が付き、私はまた自分の家の中に引き返して行きました。

「おかしいですよね!? 昨日の宴の料理、随分残っていた筈なのに」

「あら、ようやく気が付いた?」

 宴の次の朝は、間違いなく昨夜の余った料理が並びます。それは当然ナッツの所でもそう。むしろ、一人で暮らしているのですから、家族持ちの人達から余計に多く配られる筈です。加えて今日はシーザーさんというお客様もいます。ナッツは言ってました。夜遅くまで宴もあるから、寝ずの番でシーザーさんを見張る事にすると。どうせ宴の次の日だなんてみんな酒が残っているせいで仕事にはならないのですから、シーザーさんを見送った後に、少しだけ眠ると。

 リュシケも起こしに行けなかった筈です。何故なら彼女自身、後始末なんかで忙しかった筈ですから。そもそも、今まで何も無かったのに今日だけ彼を起こしに行くのもあまりにも不自然なのでしょう。

「だってあなたがあんまりポーっとしてるから。……ふふ……ナッツがあなたをからかう気持ちが少し分かる気がするわ」

「……やめて下さい。リュシケまで意地悪になったら、私……」

「冗談よ。……でも、あんまり寝坊ばっかりしてると本当に起こしに行っちゃうから」

「そんなことしたら、マコスさんに告げ口します」

「――――――」

「許しません」

 リュシケは、何か言葉に詰まって首を傾げていました。

 私はその間に、あんまり慌てて支度した身なりを、もう一度きちんと整えました。

「絶対ですからね!」

「はいはい・・・」

 出かける寸前にもう一度念を押しました。それが効いたのか、リュシケも、それ以上は意地悪してきませんでした。



 ナッツが時々、“アルビナ”の夢を見ている事を、私は知っています。寝言でその名を口にするのを、何度か聞いているからです。

 どんな夢なのかを尋ねても彼は教えてはくれませんが、

「……そんなにいい夢じゃなかった」

 寂しそうな笑みと共にそう呟くナッツの声だけは、今でもよく覚えていました。

 私は、自分がアルビナではないと思うからこそ、そんな彼の顔を他の誰かに見られたくはありません。理由は、……自分でもよく分かりません。ただ、ナッツとアルビナと、そして二人をよく知る私以外の誰か。その三人だけで、私の居場所が完全に無くなるような気がしてならないのでした。それは、リュシケが絡んでさらに複雑になりそう、という率直な予感もあります。

 複雑になればなるほど、不安定で得意な事一つ無い私には、勝ち目など無いのですから。

「もっともっと気を引き締めなくちゃ……私は物覚えが悪くって、教えて貰ったってちっとも身に付かないのですから」

 成長してないだなんて、もう言われたくはありません。

 私はもう一度自分の頬を叩いて、ナッツの家に向かいました。

 昨日の宴会から一夜明けた村は、いつもよりも随分のんびりしていました。

 後片付けのほとんどは終わり、あとは肉の残りを保存用に仕込んだり、食器を洗ったりと、まばらに人が出歩いているだけ。どちらかというと何もせずに立ち話に入ったり、あるいは酒を抜こうと顔を洗ったり、諦めて陽の下で寝入ったり……そういう人の方が多いようです。陽も照りつけ、秋口の割に空気が暖かい事もそれを助長していました。

 昨夜あれほどの注目を集めた旅人の姿は、もう何処にもありません。外の人間を泊めているのにこの様子というのは正直不自然な気もしましたが、理由はむしろ逆で、余所者のシーザーさんが朝早くに出立して……村の宴会が本当の終わりを迎えたのでしょう。

 その変わり様もなんだかおかしかったのですが、私は寂しさと一緒に、小さな罪悪感もまた同時に感じていました。

 村から旅立つ時くらい、せめて私は見送ってやるべきでした。今更ながらに寝過ごしてしまった自分と起こしてくれなかったリュシケに改めて腹立たしさを覚えましたが、寝過ごした私が悪いのも変わりません。

 ……考えてもしょうがないこと。今日からまた、いつもの生活に戻らなければいけません。

「おはよう、巫女様!」

「よぅ、おはよう」

 彼の家の仕切り幕をくぐった時、聞こえてきたのはナッツの他にあと一人の、これまたよく聞き慣れた元気な声。テーブルのナッツと向かい合う席(つまりいつも私が座る席)に座っていたのはロノンです。私は思わず返事を返すのを忘れてしまいました。

「ど……どうしてロノンがいるのですか?!」

「巫女様が起きないからだよ」

 ……ここに来てもまたそれを言われるのですか。

「一緒にシーザーを見送ったんだよ」

 事情を説明してくれるナッツでしたが、その表情は無闇に元気なロノンとは対照的に、非常に眠そうでした。

 ……昨夜は自分から見張りを買って出て、シーザーを送り出したら眠ると言っていました。なのにきっとロノンがいるせいで眠れていないのでしょう。……悲惨です。

「ロノン。こんな所で遊んでちゃ駄目です」

「遊んでないよ。シーザーから聞いた話、教えて上げてたんだ」

「同じです。まだ忙しいのですから、外に行って少し手伝って来なさい」

「えー……」

「私も直ぐに行きます。ほら、そこの食器を持って、洗い場に」

「……はーい」

 昨日さぼった分だけ洗い物は随分貯まっていました。ロノンは渋々、そこにあった食器籠のうち、小さい方を持って外へと向かいました。

「ちぇ……巫女様だって寝坊したくせに」

「ロノン! 巫女様という呼び方、止めてくださいと言いましたよね」

「巫女様は巫女様だよ~」

 ロノンは、結局逃げるように出て行きました。本当に……顔を合わす時間は少ないけど、一緒に住んでる家族に巫女様なんて呼ばれたくないのに。

「……姉弟みたいだな」

「私、そのつもりですよ」

「じゃあリュシケは母親か?」

「リュシケもお姉さんです」

 空気がくしゃみをしたような笑い声が聞こえました。見ると、ナッツは既に机に伏せていました。微かに残った意識が、笑いで震えていたのです。

「お皿は洗っておきますから、眠っていていいですよ。ベッドまで手伝いましょうか?」

「……いや、いいよこのままで。皿、割るなよ」

 彼の最後の言葉に何か言ってやりたかったのですが、しかし彼は既に眠っていました。

 ……ずるいですけど、仕方在りません。私は、音を立てないよう静かに、残った食器を籠に乗せると、そぉっと外への仕切り幕をくぐりました。出るときにもう一度ナッツの方を振り向きましたが、彼が起きる気配はありませんでした。

「おやすみなさい」

 だから、きっとその声も聞こえてはいなかったでしょう。私は、急いでロノンが待っている洗い場へと走っていきました。



 井戸がある小さな広場がこのラティエの洗い場です。そこは、水仕事もそこそこに立ち話を続ける女達で、朝日が昇ってから夜日が沈むまで人の絶える事はほとんどありません。この日は昨日の宴会の後片付けも大分終わっており、私達のように後に回した人が数人いるだけで、いつもほど人は居ませんでした。みんな、一日一杯家族とゆっくり過ごすつもりなのかもしれません。

 そんな中でも子供はお構いなしでした。洗い物の最中もシーザーさんがしてくれた物語を得意げに語っていました。身振り手振りを交えて話すロノンは、寡黙なシーザーさんの姿とはとても重ならなくて、私はそのギャップがなんだか可笑しくて、洗い物をする間はずっと笑っていました。

 やがて洗い物も終わると、ロノンには一足先に多すぎた皿をナッツの所に持って行ってもらいました。大きな音を立てないように、皿を落とさないようにと念を押したのですが、元気に走っていく姿を見るとあまり意味が無かったかもしれません。

 私はもうひと仕事。今この籠をナッツの家に置いてきたら、次は洗濯物を持ってこなければいけません。昨日の遅れをしっかり取り戻さなければ。……そして、明日のこの場所はきっと、今日の私のように慌ただしくなるのでしょうね。私はそんな事を考えながら、残りの食器籠を持って洗い場を後にしました。そしてナッツの家に戻る、その途中の事でした。

 ……ン、……ゥンンン、ンン……

 どこからか、変な音。

 それは、気分良くしていた意識に割って入るように聞こえてきました。

(何でしょう……?)

 鳥や獣の上げる吠えにしては低く、風や水が立てた音にしては不規則な音……いえ、誰かの声なのでしょうか? 酷く恐ろしさを感じる声です。

 洗い場からナッツの家の開かれた樹までの帰り道。踏み均されているせいで、土から生える草こそ丈も短くまばらですが、ルフェが住処にしている葉付きのいい大樹の他には、若いまま背高く育つ痩せた樹も随分多く、また少し歩けば背の高い藪だってあります。はっきりした姿も見えないのに、何処から聞こえてくるのかなど分かる筈もありません。

 私は立ち止まり、耳を澄ませました。

 ゥンンン……、ォ……ンンンン、ンンン……

 何か分からない声は、なおも聞こえています。その場所は……

 ガサ……!

 その時、側の茂みが大きく揺れました。

「誰? 誰かいるのですか?」

 呼びかけてみも、誰も出てはきません。待つ内に揺れる茂みも、そしてあの声も、収まってしまいました。しかし、誰かがいるのは決して気のせいではありません。

「?」

 私は、両手で持つ食器籠で茂みを押し分けて、揺れた藪の中へと入っていきました。すると……

「……っ?!」

 カシャンっ!

 突然誰かに足首を掴まれ、私は手に持っていた食器籠ごと、地面に転んでしまいました。

 藪の根本から大きな手袋が伸びてきて、それが私の右足首をしっかりと握っていたのです。その動物の革で造られた手袋の主を、恐る恐る目で辿ってゆくと、

「……こんちは、真白いお嬢さん……」

「!」

 薄ら笑いを浮かべる、黒髭の大男の姿。昨日やってきた人間達の片割れでした。悪魔に締め上げられた首には、大袈裟に見える程の包帯が巻いてあります。

 その彼が藪の中に伏せながら、私を見上げていました。片腕で私の足首を掴み、そしてもう片方の腕に涙目の小さな少年を抱え、声を立てられないようにと、その口と喉を押さえつけながら……

「ロノン!」

 両手を縛られて、大男に捕らわれているのはロノン……知らない人間に体の自由を奪われ、彼は今にも泣きそうな表情を私へと投げかけていました。

「おっとぉ、でかい声を立てるんじゃねぇぞ。それから、あの妙な力も使うな。……ルフェのガキなんざ、片手だって括り殺せるんだ」

「……どうして」

「逃げたのかって? 昨日あれだけ浮かれやがって、油断しすぎなんだよお前等は。それとも、俺の運が良かったのか」

 シーザーさん以上に彼にも見張りは付けられた筈ですが、昨夜の晩餐に鍵のかかる牢屋ということも重なり、油断があったのかもしれません。

「こっちの狙いはてめぇさ。てめぇさえ連れて帰れば、俺は金の山を手に入れられるんだ」

 そう言って、髭の男は私の足を思いっきり引き寄せました。

「……っ!」

 声を立ててはいけない、とそう思いながらも、私は必死に土を掻いて抵抗をしてみせました。それで、何とかロノンから注意が逸れてくれればよいのですが。

 もがきながら、そのチャンスを模索していると……

「誰かぁ! 助けて――――っ!」

 男のロノンを押さえつける手が弛んだのでしょう。突然に、ロノンが大声を上げたのです。それに驚いた男は一瞬私の足からも手を離し……

「えいっ!」

 そして私もこのチャンスを逃さず、さっき落とした食器籠を男の顔へとぶつけてやりました。

 中の食器が大きな音を立てて周囲に投げ出されました。それだけでも、警鐘としては十分だったはずです。一瞬の隙を突かれて男は慌て始めます。

「ロノン、今のうちにっ!」

 私は立ち上がると、縛られているロノンの手を掴んで全力で走りました。

 茂みの外、……みんなが集まりつつある村の中へと戻り、助かったと思ったその時……

「逃がしゃしねぇっ!」

 繋がっていた私の手とロノンの手が、ブツリと断たれました。

「う、うあああぁぁ!」

「! ロノンっ!」

 彼の手をもう一度引き寄せようと振り向いたときにはもう既に遅く、ロノンは黒髭の大男によって再び地面に押さえつけられていました。……今度こそ逃げられません。

 黒髭が腰の後ろに用意していた短剣をロノンの首に当てるまでは、ほんの数瞬しかありませんでした。そして其の頃には騒ぎを聞きつけて村のルフェ達が集まってきました。その中に大男の叫び声が響き渡ります。

「てめぇら、近寄るなぁ!」

 もはやその人間には、密かに逃げる事も叶いません。ラティエのルフェ達は騒然となりました。

「う……うぅ…」

 男の手の中で、ロノンが震えていました。声を上げただけでどうにかなりそうなのに、あの小さな体で泣き出しそうなのをじっと堪え、私の方を見ていました。

「……この忌々しいガキめ。本当なら殺してやる所だ」

「その時は、あなたの命もありません。その子を離しなさい」

 私は黒髭の大男に向けて、そう通告しました。

 しかし集まってきている村の人達の中に武器を持っている者はまだ少なく、人数だけで押し切るには人質の存在が障りました。ロノンに何かあったら、村のみんなが悲しむ事でしょう。

「うるせぇ! ようやくここまで来て、リッジも殺されたってのに、手ぶらで帰れるかよ! ……こうなったら死ぬか得るかだ」

 この男がそれで引くことはありませんでした。周りへ飛ばす殺気を強めるばかり。男は、小さなロノンを盾にして、沢山集まりつつある村人達に対峙していました。


(やってやる……! リッジの分も……っ)


 私には彼の意識が、まるで声と見紛う程にはっきりと見えていました。またそれが、この場所に人が集まる程に強くなるのも。

 彼の中に渦巻いているのは、生きたいという想いと、それを超える程の憎しみでした。それはもう、抱えている人質のロノンをも呑み込んでしまいそうな程に強くなっていました。

 その時、

 ヒュン……!

 風を切る音が男の顔を掠めていきました。何処かから飛来した矢が、男の短剣を持つ腕に突き刺さりました。

「っ!」

 男はそれを受けても悲鳴一つ上げる事無く、短剣を握り続けていました。血塗れの切っ先は、一瞬ひるんだだけで、今まさに幼い子供に振り下ろされようとしています。

「てめぇら…!」

「う……うああああぁぁー……っ」

 男に殺されると、そう思ったのでしょう。ロノンの顔がくしゃくしゃに歪んでいきました。

 男の表情もまた、怒りに満ちていくのが分かりました。

「止めて! 撃たないでくださいっ!」

 私は男が行為を起こすよりも前に、後ろを向いて弓を撃った誰かに向けて叫んでいました。

「アルビナ! 退けろ! 次は必ず……」

「駄目です! ロノンが怖がっています……!」

 声の主……弓を撃った誰かは、ナッツでした。樹上の家の窓から、次の矢を引き絞っています。見れば、ナッツの他にも数人、やはり家の窓から矢が向けられていました。

「全員、弓を降ろしてください……!」

「……何の、つもりだよ」

 男が、私の方を警戒しているのが分かりました。彼には、私のこの行為が奇異に見えているようです。……当然かも知れません。

「……誰も、死など望んではいません。あなたも、死にたくはないでしょう?」

「てめぇがそれを言うのか……! 少しでもおかしな事をしてみろ、こいつの首は……」

「ロノンを離して何処へでも行きなさい。そうすれば、あなただけでも生きていられます」

「冗談じゃねぇ! てめぇを、連れて行くための人質なんだぞ、白いの」

「……分かりました。ならば、私が代わります」

 途端、辺りがざわつきました。村人の中で真っ先に声を上げたのは、やはりナッツでした。

「馬鹿を言うな! そいつはお前を殺す為に来てるかもしれないんだぞ!」

「いいえ、違います。彼は私を殺しません。……そうですね?」

 振り向き、私は男の表情を窺いました。お願いですから、殺さないと言って下さいという、必死の願いを込めて。

「……ああ、殺しはしない。連れて帰れば、報酬は三倍に増えるんだからな……」

「なら―――ロノンを離してください」

「お前が来てからだ」

「約束して下さい。嘘は、あなたの身を滅ぼします」

「いいぜ。神でも何でも、誓おうじゃないか」

 大男が頷いたのを見て、ルフェ達の間に悲鳴にも近いざわめきが起きましたが、私は意を決して一歩を踏み出しました。

 すると突然背後から手首を掴まれました。……誰かなど、考えるまでもありません。それ程必死に止めてくれる人など、ナッツしかいません。それを知って、大急ぎで降りてきたのでしょう。

「馬鹿、アルビナ! お前、何しようとしてるのか分かってるのか!」

「……ナッツ、すみません」

「謝るなよ、謝るくらいなら……!」

「はい、分かっています。……でも、大切な家族を見捨てるなんて出来ません。どうか、分かって下さい」

 私は、私の手を握るナッツの手を取ると、……またきっと会える筈だからという確信と、祈りと、そして名残を込めてから、離してやりました。

「アルビナ……、お前、それを本気で言ってるのか? あんな……」

「私は、ラティエを守りたいのです。ナッツが、そうしてきたみたいに。」

 今、私にそれができるなら。……私にしかできないなら。

 本当は、ナッツにこんな失望したような目で見られるのだって嫌なのです。でもいつまでもナッツに頼ってばかりだと、私はどんどん弱くなってしまう気がしてなりません。

 ……アルビナがこの村を守り、ナッツがそんなアルビナを愛しているのなら、……私もそうでありたいと思いました。

「……私は、アルビナです」

 それっきり、私はナッツ達を振り向いたりしないと、心に決めました。弱いままの心では、それぐらいの決意が必要だと思えたのです。

 一歩、また一歩と進む毎に、大男の表情が笑みで弛んでくるのが分かります。

 私は、彼の手がぎりぎり届かないくらいの所で一端足を止めました。男が私を捕まえるには十分に近く、ナッツ達が助けるにはあまりに遠い距離です。

「……もういいでしょう? 早くロノンを放して上げて下さい」

 彼は一度ぶつけるように息を吐き出すと、ロノンを抱えていた腕を離し、その勢いで私の腕を掴み、引き寄せました。

 私は、ロノンが解放されたのを確かめたなら、もう抵抗はしません。

 しかしロノンは、ラビアに戻らず、私の体へと抱きついてきました。

「……うああぁぁ! 巫女様ぁ……!」

「よく頑張りましたね、ロノン」

「駄目だよ……、人間なんかについて行っちゃ、駄目だよぉ……!」

 私よりもさらに二回りも小さい男の子が、一杯に広げた細い腕を私の体へと巻き付け、精一杯にナッツ達のいるラティエの方へと引き寄せようとします。

「もう大丈夫です。お家に戻りなさい……私はこの人と約束を守らなければいけませんから」

 それで納得してくれる筈もないのですが……幼い頃からそのように言い聞かされているルフェの子は、私がそうして背中を叩いてやると、躊躇いながらも、村の中へと戻っていきました。

 私は再び彼に向き直りました。

 すると突然、私の首は彼の手で喉輪をかけられ、側にあった樹へと叩き付けられました。

「きゃあああぁぁぁっ!」

「アルビナ!」

 思わず零れる悲鳴と、全身に走る激痛。ナッツが私を呼ぶ声と、彼の憎悪の混じった声。

「……聖女ぶりやがって、気に入らねぇ。お前はその顔で、リッジを殺したんだ」

「……お止め、なさい……! 今私に何かあったら、……今度こそ、」

 私には、彼の憎悪の視線よりも、背後の弓矢が彼を狙っているのを見ていました。憎しみに捕らわれる彼に、それが分かっていたのでしょうか?

「……あなたは、命を、お、落とします……」

 締められる喉を無理に開いて彼に警告すると、彼は周りにある気配を感じてか、直ぐに私を降ろしてくれました。しかし私の首の痛みは、ずっと残るでしょう。

「……………けっ! いいか、追って来るんじゃねぇぞ!」

 状況が分かったようで、彼はそれだけをラティエのルフェ達に告げると、私の体を抱えて藪の中へと飛び込んでいきました。

 苦しみで霞む視界の中、茂みの奥へと遠ざかっていくラティエと、ただ呆然とこちらを見ているナッツとロノンがずっと……薄れゆく意識の奥に焼き付いていました。

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