#21 シーザー


 遅いです。

 遅い上にタイミングも悪いです。先程いくら探しても見つからず……人間の男に襲われて助けて欲しかった時も、剣士さんと悪魔が戦っている時だって、ナッツは来てはくれなかったのですから。

 なんとか凌ぎきった頃になってようやく他の仲間を引き連れて来ただけなら「遅かったですね」で済むのに、みんな一斉に弓を構え、その鏃をさっきまで私を守ってくれた剣士の方へと向けています。剣士さんがさっき「余計なもの」と言っていたのが何となく分かる気がしました。剣士さんは怪我をしていて早く手当をしなければいけないというのに、果たしてナッツは彼が敵ではないという事を信じてくれるでしょうか。

「……ナッツ」

「分かってる。……人間の傭兵だ。俺に任せてくれ」

 ナッツは剣士から目を逸らさずに二、三、後ろの男と話して、向き直りました。手には獲物を解体する為の短刀……十分、致命傷を負わせられる刃物です。剣を交わし合うには二人の距離は離れすぎていましたが、剣士さんは周りを取り囲まれ、ナッツの指示があれば囲んだ大人達が一斉に矢を射かけられます。

「おい人間、月の森に何の用だ」

「見聞を広げる為、旅の途中に寄っただけだ」

 旅人?

 私が僅かに感じた違和感は、彼の姿からきたものでしょうか? 今は地面に突き立てられた大き過ぎる剣と、肩当てマント。腰のベルトには小さなポーチこそ付いてはいますが、それ以外荷物らしい荷物は何も持っていません。勿論、この森を抜けるのだって何日も掛かる筈なのですが。……その答えはシーザーさんの次の声で知ることができました。

「荷物を落として難儀していた所だ。ルフェ達の村でそれを補充させて貰えれば有り難い」

 ……そう言えば剣士さんはあの黒い靄と一緒に飛び込んできました。もし来るまでずっと戦っていたなら、拾っている暇など無かったでしょう。

「ラビアに害を為すかもしれない存在だっていうのにか? お前が帝国に雇われた傭兵かもしれないのに」

 しかしナッツは疑うように目を細め、剣士の姿を観察しました。

「あんたは傭兵だろう? 信用はできない。金さえ払えば、どんな汚い仕事でもやる奴が」

「ナッツ! 失礼ですよ!」

 私は戒めるために、ナッツを強く叱りました。

 ナッツの言う事があまりにも酷かったのです。この剣士を金の亡者か何かと言っているのです。

「彼はそんな人ではありません!」

「黙ってろアルビナ! だいたい何でお前がここにいるんだ。村から出るなと言っただろう」

「私はナッツにこれを……」

 “これ”を……“これ”、つまりナッツが忘れていった編み籠を探すのですが、手に持っていた筈のそれは、剣士さんの荷物同様、あの騒ぎの中でどこかへいってしまいました。

「何だよ、“これ”って」

「ですから、……」

 この広場の何処かにないかと思い、辺りを見回してもみますが、草の灼けた跡ばかりで、私の探す“これ”は、影も形もありません。ありもしない“これ”を持っていなければならなかった両手は、どうしたらいいか分からずに泳ぎ出しています。

「……何かを落としていたのなら、もう残っていないかもしれない」

 見かねて剣士が助けを入れてくれましたが、それも私を安心させる事はありません。それどころか、聞いていたナッツが呆れたように目線を送ってきたのです。

 冗談ではありません。そもそも忘れ物をしたナッツが悪いのではありませんか。しかも肝心なときには助けてくれなくて、誤解されやすい最悪なタイミングで現れた上、やっぱり誤解しているのですから!

「私は忘れ物を届けに来たのです! 採った果物を入れる編み籠を」

「馬鹿! 狩りの日だ、今日は」

「嘘っ!」

「嘘なもんか、周り見て気づけよ。何処に採取の恰好してる奴がいる」

 私はチラリと周りを見回した。周りを取り囲むルフェの男達は、弓矢を構えています。……野菜や枝を刈るための鎌ではなく、弓矢です。勿論、編み籠を持った人なんて何処にもいません。

「あ、……あはははは……」

 もう笑うしかありません。

「今日使わなくても、明日使うっていうのに………この間食器を制覇したんで今度は仕事道具に挑戦しているわけか?」

 ……すいません。今朝は掃除道具も壊してます。

「あれほど家事の類はするなって言ったはずだぞ」

「でも! それはナッツが散らかすからです! 片付ける暇だって無いでしょう!?」

「それでもお前は手をつけるな! お前以外なら誰でもいいが、お前だけは手をつけるな!」

「ひどいっ! 私が居なかったらナッツの部屋だなんて虫が湧いてます!」

「湧くかっ!」

「いいえ、そうに決まってます!」

「……話が逸れているようだが、俺はいつまでじっとしていればいい」

 ……そうでした!

 私は改めて、ナッツ達に向き直りました。弓矢を構える男達の間には笑っている者もいましたが、そっちはナッツの一睨みでもう一度弓を構え直しました。私はそんな彼らの前にして、剣士さんを守るようにして立ち塞がり、両腕を広げました。

「とにかく、この人は敵じゃありません。話を聞いて下さい」

「お前を浚おうとしているかもしれないんだぞ」

「そうしようとした人達なら、そこに倒れています」

 私は言って、先程あの悪魔にやられた二人を指さしました。

「その人達は、確かに私を帝国軍に引き渡すつもりのようでした。私も危なくなって、その時この剣士様に助けていただいたんです」

 ……ちょっとだけ嘘をつきました。

 後ろめたさはありません。誰かを助けるためのものならば、アーネアス様も嘘を許してくれる筈です。

 ナッツは傍らの一人に目配せをして、倒れている二人の様子を確かめさせました。明らかに人ならざる者の力によって倒された二人を見て、それを調べた人も動揺していましたが、やがてナッツの方に報告を返しました。彼の亡骸は後でちゃんと葬らなければいけません。

「細い方はもう駄目だ。真っ黒になっちまってる。だけどこっちの大男はまだ生きてる」

「じゃあ、そっちはロープで縛っておけ。

 ……あんたがこれをやったのか?」

「まぁ、そうだな」

 ナッツは、二人の人間の様子を不自然に思ったようでした。剣士さんはそれを肯定しましたが、それで疑惑が晴れるわけではありません。実際、剣士さんの言った事は嘘なので当然ですが、本当の事を言っても信じて貰えなかったでしょう。それ程に、二人の人間達の様子は異様でした。片方は遠目から見ても何があったのかが分からないほどに焼けただれていて、黒髭の大男の方に至っては、外傷は全く無いのに首に人間のものとは思えない大きな手の跡が残っている筈です。……真実を知っている私には、一人が生きていた事の方が信じられないくらいなのです。

 さっきまでここで起きたことは、まるで現実感が無くて、私も説明を求められたらどう言っていいのか悩みます。

 ナッツはちらりと、周囲にいる男の方に目をやり、指示を仰ぎました。ラビアの男達はただ頷いて、答を返します。全て、ナッツの判断に任せるという事なのでしょう。こういった交渉は、確かにナッツが最も上手なのです。

「……いいだろう」

 そうしてしばらくの沈黙が続いた後、ナッツはようやく頷いて見せました。しかし、まだ周りに弓矢を降ろす指示は出していません。そのまま彼だけが剣を降ろし、彼に言葉を続けました。

「ただし条件がある」

「……………」

「お前の知っている外の出来事を聞かせて欲しい。その対価として、宿と数日分の食糧やその他の道具を提供する。村に留まるのは一日だけ。その間はお前の持ち物は預かる」

「それで構わない」

 剣士は頷き、突き立てた剣から手を離し、ナッツも弓を降ろす指示を出しました。そうして私もよやく胸を撫で下ろすことができました。安心して、というわけにもいきませんが、これで彼と流血沙汰というのは避けられました。何より助けてもらった人をどうにかするのは気が咎めます。それに……

 謎の剣士……いえ、大剣を背負った謎の男、というべきなのでしょうか? 魔法のような力と人間離れした運動力を持つこの人と、そしてあの悪魔の姿をした黒い靄の存在。……私には、ここにやってくる前から、あの靄と彼との戦いが始まっていたようにも見えましたが。

 彼の大剣は今はルフェの一人が、落ちていた鞘に入れて持っていますが、やはりその大きさに少し戸惑っているのか、しきりに首を傾げていました。剣士さんは重そうにしながらもあれを自在に振り回していたのですから、少し信じられません。

「ここで見たことは、忘れた方がいい」

「!」

 横を見ると、あの剣士さんが高い目線から私を見下ろしていました。悲しさも喜びも、怒りすらない、それは不思議な表情でした。

 私はその表情に何も聞けず、ただ黙っているだけだったのですが、彼もまた私に何も聞く事なく顔を前へ……みんなが帰る村の方へと向けたのでした。

「そ…そういえば、まだお互い名前も知りませんでしたね」

 私はそんな落ち着かない雰囲気を振り払おうとして、それを尋ねました。たまたま思いついたのですが、考えてみればいままでそれを聞かなかったというのがなんだか不自然です。それがなんだか可笑しくなってきました。

「私はアルビナです。それからあっちの意地悪で神経質そうなのがナッツ。大人ぶってますけど、茄子が食べれないんですよ」

「余計な事は言わなくていい!」

 最後の叫び声ははるか前の方から聞こえてきました。私はその姿に、あかんべぇを返してやりました。聞いていた周りから苦笑いが零れるのも聞こえます。しかしそれも束の間。剣士さんはその冗談に笑う様子も見せず、逆にその場を凍り付かせました。

「シーザーだ」

 それが、彼の名前なのでしょう。そう、あの悪魔も確かに彼を『シーザー』と呼んでいた気がします。

 進んでいた列が止まり、一斉にその『シーザー』へ、目が向けられました。その名を口にした彼だけが顔色も変えず、同じ調子で歩いているのでした。それ程に、その名前は不自然でした。

 それは魔剣を振るい邪悪な神を倒したという、童話に出てくる偉大な英雄の名前です。この閉じられた月の森においても、それを知らない者はいません。アルビナの部屋にも彼を題材にした絵本がありました。

 それ程に有名で、子供にその名前をつけるのもおこがましいと感じるような、そんな名前なのです。勿論、それだけ有名な話には違いないのですから、そんな名前の人がいてもおかしくはありません。

 ……けど私には、あまりに出来すぎているようにも思えます。大きな剣を背負い、正体不明の靄のような悪魔と戦っていた旅の剣士が、“神殺し”を名乗ったのですから。

「アルビナ」

 一同がシーザーさんに対して言葉を詰まらせている中、ナッツの声が私を呼びました。……声の調子からして機嫌が悪いわけではないようです。私はシーザーにさっきのお礼を言うと、その場から逃げるように駆け足でナッツの所まで行きました。

「あんまり関わるな。お前は直ぐ本気にする」

「話ぐらいはかまわないでしょう?」

「たかが言葉だって街や国を壊したり守ったりできるんだぞ。旅人の話なんか聞き流すくらいでいい」

「ナッツだってシーザーさんから外の話を聞くのでしょう」

「勿論鵜呑みにはしない」

「………………………………」

 ナッツのその言葉には、反論を許さないような強さがありました。全然ふざけてなんかいません。誰も信じない排他的な声に、私は逆に悲しさにも似た不安すら感じました。

「ナッツは冷たいですよ」

「当たり前だ。俺は村を守らなきゃいけないんだからな。アイツが他の外の人間を呼ぶかもしれない」

「……あの人は大丈夫です」

『………』

 お互いの間に沈黙が横たわりました。隣を歩いて、お互いに歩調を合わせているのに、そこに会話がありません。

 ――――こんな筈では無かったのですが、どうしてこんな事になったんでしょう。

本当なら籠を届けて、それをきっかけに仲直りをする筈でしたのに…… 確かに採取の日だって気付かなかった私が悪いのですけど。色々あったとは言え、結果的にはナッツの籠を無くしてしまったわけで……

 ああ! ほうきを折った事を知れたら何を言われるか……!

「……お前、何か隠してるだろ?」

「―――――――――――えっ!」

 沈黙のを破ったナッツの台詞が、私の背中に突き刺さりました。反応して出た言葉は、まるで悲鳴のように甲高く響いてました。

「隠してません。何も」

 慌てて取り繕う言葉も相変わらず高いままで……ナッツは呆れて私を見ていました。なんだか私も自分で情けないです。

「……お前、本っ当に嘘が下手だよな」

「――――うぅ……」

「バレてるんだから話せ。な?」

「……籠だけじゃなくて、ほうきも折ってしまいました」

「――――――」

 覚悟を決めて正直に話したのですが、それを聞いたナッツはまるで言葉が通じていないかのようにキョトンとしていました。次に溜息を付くまでの数秒間あったでしょうか? 彼はようやくその意味を理解できたようです。やがて彼は目一杯に息を吸い込んで言いました。

「破壊神か何かかお前は!? 俺の持ち物の何もかも壊し尽くす気か!?」

「そんな諸悪の根元みたいに言わなくてもいいでしょう」

「いいやお前は何か悪いものに取り憑かれてる! ちょうどいいからシーザーに刻んで貰ってこい!」

「あれは童話です! 全然違う話! そもそも取り憑かれてなんかいません!」

「だったらせめて人の言うことは聞いてくれ! 何もするなって言ってるんだから、何もするな!」

「私だって家事くらいできるようになりたいのです!」

「その前に家が無くなる!」

「無くなりません! ナッツが散らかして足の踏み場が無くなるのが先です!」

『――~―~~~―~~―~~~!』

 お互い顔を突きつけ合っての睨み合いが続きました。その時、列の後ろの方からシーザーさん達の話し声が耳に入りました。

「……いつもああなのか?」

「ま、名物みたいなもんだ」

「あれで仲いいんだぜ?」

『余計な事は言わなくていい!』

      言わないで下さい!』

 ナッツと私の声が、その時初めて重なりました。



 空の青さが濁り始めてきた頃、私達一行は村に戻ることが出来ました。辿り着いた途端、居なくなった私への心配や見慣れぬ旅人シーザーの紹介など、沢山の説明を求められましたが、それらの一切合切全てを他の大人達に任せて、私とナッツは早々に抜け出さなければなりませんでした。ナッツは捕まえた人間の男の処遇を決める為に詰め所へ。そして私はナッツの家へ。

 ……空き部屋と警戒の都合上、シーザーはナッツの部屋に泊まる事になりました。とはいっても彼の部屋は私が出て来た時のままで、つまり掃除も途中の散らかりっ放しなのです。私は何よりもまずそれをなんとかしなければなりませんでした。

「もぉー! どうしてこんな時に泊まりだなんて!

 そもそもナッツだって、いつもはやるなって言ってるくせに、私が行かないとやっぱり散らかしたままではないですか!」

 部屋のあちこちに脱ぎ捨てられた服、入れ物をひっくり返したように散らばった小物、そして洗っていない食器まで……部屋の奥側はいつも以上に散らかっていました。入り口は出る前に少し掃除したままで、こちらも私ならともかくお客様を招くにはやはり散らかっています。

 とにかく入って直ぐの大部屋とシーザーさんが泊まれる場所の確保が急がれました。取り敢えず私は今夜使う分の食器だけを手早く洗い、そして部屋のあちこちに散乱する衣服を仕分けて洗濯籠の中に押し込めました。そして手近な箱の中に小物を入れ、一応の“偽装”が出来た所で、シーザーさんがやって来てしまいました。

「世話になる」

「はい。遠慮無く使って下さい」

 ……私の部屋ではありませんけど。

 私はシーザーさんを部屋の中に招き入れると、彼の寝床となる場所がある奥へと案内しました。……元々空き部屋だった寝室は半ば倉庫のようになっており、寝床となる場所こそありましたが部屋の隅には箱や籠に入れられた沢山の道具が寄せられていました。私も部屋の仕切りを開け放つまではその事に気付かず、見た途端に恥ずかしい気持ちと普段から整理しないナッツへの恨み言が頭を駆け抜けていきましたが、シーザーさんはそんな事も意に介した様子もなく、身に着けていた肩当てマントを外し、椅子もテーブルもない部屋のでこぼこした床の上と腰を下ろし、リュックの中身を広げ始めました。

 それは彼が無くした荷物の代わりを村から戴いたものでしょう。ナッツの事ですから、口では情報と引き替えにと言っていましたが、最低限の分はちゃんと渡すつもりだったのです。私はその様子にほっとすると共に、今シーザーさんが荷物のチェックに没頭している間に、そーっとこの部屋を片付けてしまおうと思い至りました。

 寝台の上に積み上げられた箱を運び出し、埃が立たないように注意しながらシーツを交換……勿論、シーザーさんの邪魔にならないようにと気を付けたつもりでしたが、彼は私の存在すら意に介した様子も見せずに何かの作業に没頭していました。

 ……全く気にされないのもなんだか寂しくて、私はそっと………足音を立てないようにそうっと、彼の作業の様子を後ろから覗き込んでみました。

 油瓶と薬草。そして小さなすり鉢と石。彼は荷物を無くしたのですから、道具は村から借りてきたものでしょう。……どうやら薬草を磨り潰して薬を調合しているようでした。千切った葉の枝葉を抜き取り、肉の部分だけを上手に磨り潰し、そこに出た液だけを上手に油と混ぜて別の瓶へ溜めていく……その手慣れた様子に、私は感心していました。ある程度の薬を自分で処方することは、確かに旅人ならば必要な技術なのかもしれません。しかし、材料である薬草は何処にでも生えているものではありません。ここでは手に入らないもの、逆にここにしか無いもの、あるいは同じ薬でも使い方が違うもの……それらの全てを網羅する事など不可能でしょう。勿論、村のルフェ達から使い方を聞いたのでしょうが、それでもこれほど手際よく作り出す事は簡単ではない筈です。このシーザーという人は、薬を自分で作らなければいけないような長旅に相当慣れているのでしょう。

 ……しかしそれに見合うだけの齢を重ねているようには見えません。勿論彼はルフェではありませんから、私が考えているよりももっと若い筈で、人の寿命で計ったとしても人生の半分を超えてはいないと思うのですが。

 剣と薬。あまりに相反するその両方をこなす彼と……そして、戦っていたあの黒い影……

 そのいずれもが、私が思い浮かべる常識に収まりません。だから彼が神話の人間なのだと考えるのは、あまりに安易でしょうか。




 燃え盛る竜の吐息をその剣技にて断ち切った『吐息斬りのブラッサム』。

 山よりも大きな怪物ガームントからお姫様を救った『弱虫王子ロスキュル』。

 妖精の守護を受け魔の森の猛獣と戦った『葉の騎士ルース・ベリル』。

 ……世に、“英雄”という冠を戴いて活躍する人の物語は沢山あります。時には歴史として、時には作り話として、それらの物語は国に関わらず幼心を楽しませてくれるのです。男の子はそんな英雄に憧れ、女の子はその悲劇に涙すると、よく言われる程です。

 その中でも一際壮大で有名なのが、『神殺しシーザー』の物語でした。

 ――――大昔、まだ陸地が『闇の海』を漂っていた頃、悪い神様が大陸中の人々を恐怖に苦しめるようになりました。その時異国より現れた剣士シーザーが、信頼で繋がった数人の仲間と共にその邪神を退治したというのです。

 ……邪神。それがどういうものなのかは分かりません。神様というなら、この村に降りたと言われるアーネアス様でさえ、私は見たことがないのですから。けど……

 私の頭には先程遭遇した奇妙な存在が、自然と思い浮かんでいました。

 おおよそ全ての猛獣を縫い繋いだような影。獣の角と、血の瞳、死人の肌、そして悪魔の表情……あの大きな男すらも軽々と持ち上げていた腕は、毒で腐ったような紫色をしていて、大きく……醜く変形し、そしてそんな各々の節を隠すかのような闇色の衣を、いかなる動物とも異なる体躯に纏った、不敵な悪魔。

 もしそれが邪神というなら、それと戦う彼……『神殺し』と同じ名前を告げた彼は……

「あの時の事は忘れた方がいい。普通の生活を続けたいならな」

 想像ばかりが埋めていく私の意識を、シーザーさんの感情の無い声が打ち破りました。彼はそれでも背を向けたまま、さっきと何ら変わる事の無い姿勢のままで薬を練り続けていました。それなのに、心を読まれたかのような言葉に、私は身体が少しだけ驚くのを隠せませんでした。

「本当ならあれは見えていいものじゃない」

「あなたは」

 しかし私は、彼の忠告に逆らい、意を決してそれを尋ねるのでした。

「あなたは誰なのですか?」

「シーザーと、名乗った筈だ」

「それはお伽噺の人の名前。本の中にしか居ない人です」

「同じ名前の人が居てはおかしいのか?」

 背中を向け続けるシーザーさんに、私は首を振りました。

「たとえあなたがシーザーでも、シーザーではなくても、それはどうでもいいのです。でも少なくとも言葉通りのただの旅人ではありませんね。何か、とんでもない存在と戦っていました」

「………」

「あの黒い靄は何ですか? 悪魔? 別の生き物なのですか? それとも、あなたの名前が示すように……」

「厄介な目をしているな。お前は」

 その時になって、初めて彼が手を止めて振り返りました。

「俺にはあれが見えない。微かな気配だけを、かろうじて感じているに過ぎない」

 私は息を呑みました。確かに、シーザーさんはあの時、剣を向けながらも辺りを完全に覆い尽くした黒い靄が見えていませんでした。

「あの人間達も見えていなかったろう。それが普通だ」

「私がおかしいというのですか? そんな筈ありません」

 信じられない話。そもそも、あり得ない事が、私には出来たのですから。

 彼は表情を変えず、ただ私の目だけを見て、何かの決心をするような間を空けて、その重い口を開きました。

「俺は気の遠くなるほど長く旅をしてきた。その間、姿の見えないあいつがずっと近くに居た。声が俺を惑わせ、人の醜さ、愚かさを囁き続ける。眠ればそれは悪夢に変わる。……安らげる時など無かった」

「…………」

「それが今は何処にも居ない。お前を警戒しているのだろう。姿の見えない事で保たれていた奴の優位が初めて揺らいでいる。こんな事は滅多にない。当然だ。あいつがその気になれば、誰にも見える筈など無いのだから。……今夜だけは、この旅で初めてゆっくり眠れそうだ」

 感情の無い声で喋るその台詞は、安心や感謝ではなく、私への皮肉か当てつけのように聞こえました。

 実際にそうなのでしょう。彼の目は決して笑う事など無く、ただ私という存在を見極めようと……あるいは、己の宿敵よりもさらに危険な存在ではないかと警戒していました。

 彼は音もなく立ち上がりました。ナッツよりも高い目線が、じっと私を見下ろしています。

「……わた…しは……」

「お前は誰だ?」

 それは、ついさっき私が彼へ尋ねたことと全く同じ。誰なのか分からない人に対して、向ける言葉。戸惑い、形を失おうとする不安な意識の中で、私はかろうじて自分の名前を唱えました。

「私は……アルビナです」

「それは白い女という意味の、ただそれだけの言葉だ。確かにルフェの村でお前ひとりだけが特別だ」

「――――――」

「ここに来る前にもお前の噂は聞いている。『迷いの森の魔女』『女神の生まれ変わり』………そうなのか?」

 違います。私はそんな恐ろしいものじゃありません。

 アルビナ。ただの、アルビナという名前のただのルフェ。

(けどただ一人白い姿で、アーネアス様の巫女なのも確か――――――)

 ……それも否定できない現実。いえ、否定できるだけの“過去”が、私にはありません。私を私にしてくれる想い出と、アルビナという過去は、今の私の中の何処にも在りません。ただこの姿と、意識があるだけ。

「私は―――――」

 私は誰?

 遂に私は、その名前すら唱える事が出来なくなりました。声は震え、この意識までもが目の前の天敵を恐れるかのように剥がれ掛けていました。足は自然と後ろへと退いていきますが、部屋の中にある筈のその床でさえ、闇の中を伸びる枝の上を歩くように恐ろしく感じられました。まるで、この世にある形のあるもの全てが私を拒絶している、その中に投げ出されたかのよう……

 そんな私の肩に誰かの両手が触れ、しっかりと抱き留めました。

「余所者のあんたがアルビナを知らないのは当たり前だ。それに、あんたにはそんなことを知る必要は無い筈だ」

 私は暗闇に差し込んだ光のようなその声の主はナッツでした。彼はその大きな掌で私の身体をしっかりと抱き留めて、シーザーさんを睨み付けていました。私もまた自分の布団にくるまる時のように、彼の身体に手を回しました。

 そこには、安らぎがありました。

 彼の腕にくるまれ、彼の身体に顔を埋め、彼の体温と匂いに包まれているだけで、私が私でいられる、心地良い安心感が得られました。

「ナッツ……」

「本気にするんじゃない。しっかりしろ、アルビナ」

 私が言えなかった名前を、彼が代わりに唱えてくれました。

 そう、私はアルビナ。彼がそう呼んでくれるかぎり。

 きっとこの名前も、彼が教えてくれた呪文。

 今もまだ眠り続ける私の記憶は、こうして事ある毎に不安に震えていて、

 その時が来るたびに、きっとこうして彼の腕に抱かれていたのでしょう。

 そうでなければ、私のような異質な存在が、このルフェだけが暮らす集落にたった一人でいられる筈などないのですから。

 ……そう、覚えています。私は、確かにこの腕の中で目を醒ましたのです。

「シーザー、とか言ったな」

「…………………………」

「確かに村に招き入れたが、信用したわけじゃない。追い出されたくなけりゃあ、もう少し自重すべきだな」

 ナッツがそう言うのにもシーザーは表情を変える事はありませんでした。ただ、少し長い瞬きをしただけです。

「そうだな。悪かった。忘れてくれ」

 シーザーはそう返事をして、またさっきのように背を向けて座り、薬を作り始めました。

 しかし、彼が言う“忘れろ”というその台詞は前にも聞いた事がありました。きっとこれも警告なのでしょう。

 私はこの異邦人に対して何も返事をする事ができませんでした。

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