#20 来訪者と悪魔


「ルフェなのに」

 ……道に迷ったかもしれないと感じ始めたのは、それからさらに倍歩いてからでした。いつまで歩いても、この辺にいる筈のナッツ達の姿どころか、話し声すら聞こえてはこないのです。近くまで行ければ見つけられるという、その考えが少し甘かったのでしょうか?

 再び森の空き地へ出たところでもう一度方向を確かめますが、それは思っていたのと少しもずれてはいませんでした。樹の並びも、ラビアの周辺と大差はありません。果実は採られていて、そこがルフェ達の天然の果樹園なのは間違いないのですが。

 そう、道に迷ったわけではないのです。今何処にいるか見失っていませんし、帰る方向だって分かっています。それなのに、どうしてなのか採取をしている筈のナッツ達の姿が見えません。

 先日の風で幾分不機嫌そうな森は、すっかり黙りこんでいます。

「どっちの方に行ったんでしょう」

 ここにいないならば、もっと奥の方か、もしくは北側だと思うのですが。

 少し考えて、私は奥……さらに西の方へと足を進めました。

 そして、今見つけた空き地を横切ろうとしたその時、奇妙な物を見つけたのです。

 空き地の真ん中、大きな切り株の側に、黒くなった樹の切れ端が数本……いえ、それは明らかに焚き火の跡でした。見ればまだ火が燻っており、細く煙が立ち昇っています。

 ……ルフェはこんな迂闊に火を使ったりはしません。火は樹を焼く恐れがあり、また煙は月の森に生きる鳥や獣を脅かすため、その使用を厳しく制限しているのです。数日に一度村の真ん中にある窯に火を入れる他はそれを使用することもなく、当然森の真っ只中で火を起こすような用件など、あるはずがないのです。

 じゃあ一体誰が……?

 それを考え、結論に到達する前に、

「ったく! どうなってやがるんだ、この森はぁっ!」

 だみ声の怒鳴り声が、直ぐ近くから聞こえてきました。それに驚いた鳥が一斉に飛び立つ音、そして間もなく直ぐ脇の羊歯の茂みが薙ぎ倒され、そこから抜き出た頭が二つ、樹の陰より姿を表しました。

「駄目だ……やっぱり磁石も効いちゃいねえ。見ろ、また同じ所に出ちまった」

 耳先の丸い……人間でした。

 ナッツから聞いた通り、幾分白めの肌と太く低い声の……男が二人。一人は苔のような髪に黒髭、もう一人は白黒まだらの長髪に眼鏡の男でした。二人とも身体が大きく、乱暴に腕を振るう度に植物の茎や葉が無惨に散り飛んでいました。特に黒髭の方は人食い鬼か何かを連想してしまうような信じられない体躯をしており、茂みを一歩突き進むごとに茂みの小さな枝たちの折れる音が悲鳴のように鳴っていました。

 ――――逃げなければ……!

 彼らに見つかる前に……と頭で考えながらも、私の足はすっかり竦んでしまい、うまく動かす事ができずにいました。

 二人は徐々に近づいてきます。

「これじゃ割に合わんな。大体の位置は分かってるんだ。あとは真っ直ぐ行けばいいだけの筈だろ?」

「そうそう都合良くはいかんらしい。アイツらどういう歩き方してるんだか、足跡もすっかり残らん」

「完全に道を逸れてるんじゃねぇのかっ」

(……あっ!)

 角笛のような音を立てて、私の直ぐ上を丸太のような腕が通り過ぎていきました。身を低くしていた私は驚いて、不安定だった身体はそのまま土の上へと倒れ込んでしまいました。

「……ん、何だ?」

 見つかった……! 早く逃げなければ!

 私は、土についたままの両手を掻いてでもなんとか駆け出そうとしましたが、直後に大きな腕で背中を押さえつけられてしまいました。

「ガキか。 ……いや、何故こんな所に?」

「いぃ…痛い……」

 口からうめき声が零れました。しかしそれも当然でした。私の背中を押さえつけるその力たるや、単純な痛みを通り越して、直ぐに苦しくなってきたのです。

 そのうめきを聞いて、背中を押さえつけていた髭の男は少しだけ腕を緩めてくれましたが……

「……おい、ちょっと待て。そいつはルフェだ」

 もう一人、眼鏡の男の言葉で、直ぐにまた地面へと伏されてしましまいました。そして、悲鳴を上げる暇もなく、外套の襟首を掴まれて宙へと持ち上げられました。しっかり身に纏った外套が、身体を締め付けてきました。

「冗談だろ、ルフェってなぁ、……そう、もっと黒いもんだろ。こんな白うさぎなんか……」

「……いいや、フフ……。俺達は運がいいらしいぞ。巣に辿り着く前に、金の卵が転がり落ちてきたようだ」

 眼鏡の男は私の頬を掴むと、それを自分の方へと向けさせ、嘗め上げるように私の顔を見、そしてニヤリと笑いました。そのおぞましい感触が、全身をなで上げていきました。

「しかし『奇跡の少女』とは聞いていたが、ここまで小さいガキだとは驚きだ」

「ああ、パッと見じゃ娘と年も変わらん。……少々気が咎める」

「……へへ、こりゃ向こうについたら、奇特な方々の玩具だな」

「は、離してください……!」

「フン、離して欲しいとさ。どうする?」

 呆れたような、そしてややつまらなそうな口調の、大男の声が聞こえた。

「そうもいかねぇんだ。お嬢ちゃんは賞金首なんだからな」

「しょうきんくび……」

「お嬢ちゃんをな、欲しがってる奴がいるのさ。命乞いだったらそいつらにするんだな。可愛かったらいい思いができるかもしれんぜ」

「あなた達は……きっとこの森から……出られません」

「そりゃお嬢ちゃんも同じだぜ? 素直に言うこと聞いてりゃ、皺が生えてくる頃までは生きられるってな。ヒャヒャヒャ」

 その卑しい視線にも耐えられず、宙づりの身を縮こませ、私は助けを願いました。自然と思い浮かぶのは、訓練の時の勇ましいナッツの表情。目に浮かぶその姿に、私は必死に助けを願いました。すると……


 ズドオオォォォ―――――ンン!


「な、何だ!?」

 突然、雷が落ちたような轟音が鳴り響き、地面が震えました。それに驚いた髭の男は尻餅をつきました。勢いで放り投げられた私は、そのまま地面を転がり、切り株に頭をぶつけて身体を止めました。その痛みが頭を通る、その直後……

 土を掻く音がし、二人の男と私との間に何かが割って入りました。

「ナッツ……?!」

 希望を込めてその名を呼びましたが、しかしそれはナッツではありませんでした。

 一つは、夜よりも黒い影の塊、

 そしてもう一つは、大剣を背負ったマントの男……ナッツよりも二回りも身体が大きい人間でした。

 大剣の男は不安定な姿勢でその場所に転がり込んでくると、左手と足を地面に擦りながらその身体を止めました。そして右手で男の身長ほどもある大きな剣を背中から外し、――――いえ、最初から担いでいたのでしょう。それを腕一本で振りかぶり、しゃがんだ姿勢のまま、足も使って器用に鞘から刀身を抜き去りました。

 そして鞘はそのまま地面に置き去りにして、驚くべき身軽さであらぬ方向へと飛び去っていきました。

「な……何?」

 暴漢二人が驚く中、


 っピシャアアァァっ!


 と、その直後に再び稲光が鳴りました。今度は私の直ぐ上……まるで蜘蛛の巣がいくつも集まってきたかのように、いくつもの雷が糸玉のようになって、木々の隙間を埋めるように浮いているのです。私が見上げた途端、それは一斉に騒ぎ出しました。

 今ここで身を縮めていても、皮膚には針で刺したようなピリピリと痛みが伝わってきていました。私は動くどころか、目を開けている事すらもできません。

「キャアァァ!」

「あの娘か?! てめぇ何しやがった!」

「く……っ、これが月の女神の罰だってのかっ!」

「じょ、冗談じゃねぇ……! 金の卵が目の前にあるってのに、諦められるかよ!」

[よほど死にたいらしい。じっとしておればよいものを]

(え……?)

 さっきの人間達の会話に混じって聞こえた不思議な声に、私は思わず顔を上げました。誰の言葉か、いやそもそも一体何処から聞こえてきたのかすら分からない、この場にそぐわない程の落ち着きを払った男の声でした。突然の異変に騒ぐ森のこの場所には、私を捕まえようとした人間二人と、いくつもの雷の玉、その他には……鳥も残らず逃げてしまっているというのに。

 そうして声の主を探していると、あの眼鏡の男が雷の中をマントで庇いながら、私を捕まえようと走ってくる姿が飛び込んできました。

「無茶だ! リッジ!」

「おおおおぉぉぉっ!!」

 来ないで! 私に触らないで!

 心の中でそう叫び、両手を男の方へと突き出したその瞬間、


 ボスン―――っ!


 布束を叩いたような鈍い音を立てて、こちらに走り寄ってきた男が後ろの木へと飛ばされました。

 ……いえ、あの鈍い音ははじき飛ばされた時のものではなく、木へ背が叩き付けられた時の音だったのでしょう。眼鏡の男の身体は、その瞬間に人形のようにぐったりと脱力し、そして血と煤の色で自分の体を汚して、土の上へと崩れていきました。……それはもはや、生きている筈がありませんでした。

 魔法のような何かが起きたのでしょうか。しかし、私自身何かしたという自覚は無く、何が起きているのかさえも分かりません。アーネアス様が守ってくれたのかどうかすらも。

「ひぃぃっ、ば、化け物っ! 化け物だっ!」

「違います! アーネアス様はこんな事……」

 恐れから逃げようとしていた髭の男に叫ぼうとして、

 私は……我が目を疑いました。

「………!」

 残された男は確かにそこにいて、腰を抜かしながらも逃げるために足をバタバタと動かしていました。そんな哀れな男の身体を、宙へ持ち上げていくものがありました。黒い粉……いえ、まるで無数の羽虫が集まっているのを遠くから見ているような、黒い靄でした。

 それは、やがて周囲に走っていた雷をその身に集め、徐々に人の形を取り始め……、いえ、ようやくはっきりと見えるようになったそれも、人の姿はしていませんでした。

 男に喉輪をかけているのは、右袖より飛び出した大きな腕。それは毒液で腐ったように醜く腫れ上がっていました。獣のたてがみを思わせるようなバサバサの長い髪の毛の間からは、山羊のように大きく曲がりくねった角が生えており、血の色を感じさせない皮膚には、時折肉を削ぎ落としたような不気味な模様が彫られ、つり上がった瞼の奥からは血の色のように赤い色が輝き、持ち上げた男の喉を……そこから吹き出るであろう同じ色の鮮血を期待するように、彼の喉をじっと見つめていました。顔に真っ赤な口が開き、男が呻く度に、まだ足りない餌を搾り取るように、その指を男の首にめり込ませています。

 私は本能的に感じていました。それは、悪いものだ、と。

 ルフェを攻める人間が悪とか、それぞれの正義だとか、そういう議論すら馬鹿馬鹿しい程の、間違えようのない悪意と、自分の中に湧き上がる拒否感。

 それは彼らが恐れていた罰……アーネアスの神罰などでは、勿論ありません。

 この世界に存在する恐怖といえるものかき集めたような、そんな姿をしたものが、人や、まして私達の信仰する神であろう筈がありません。

 一言で言うならばそれは、――――悪魔でした。

[いつまで隠れているつもりだ、シーザー。見ず知らずとはいえ、人を見捨てるつもりではあるまいな]

 彼は今その手の中で死のうとしている男を、見せびらかすように振り回し、この森のどこかへいる誰かへ、……おそらく先ほど一緒に飛び込んできた大剣を担いだ男へと、言葉を発しました。中年を過ぎ人の持つ独特の落ち着きを含んだ、男性の声でしたが、あの悪魔の口は笑みを作るばかりで少しも動いてなどいません。

 その悪魔が誰かの姿を捜す内、今も腰が砕けて立ち上がれない私と目が合いました。私は恐怖で背筋が凍り付きそうでしたが、それは私が動けないのを見るも、目を細めただけで何もしてはきません。直ぐに興味を失ったかのように、持ち上げている人間と、何処かに隠れている筈の大剣の男へ呼びかけます。

[こんな愚か者の命くらい、私は躊躇わぬぞ。それとも、未だにその剣が重いか?]

 悪魔はそう言い、男の首を再び締め上げ始めました。遠目からも分かるほど、男の顔が苦悶の色に染まっていくのが分かりました。

「止めて下さい! その人は苦しんでいます!」

 その表情を見ているのに耐えられず、私はその悪魔に叫びました。それを言い終わらぬ内に、

 ドオォォ!

 悪魔の足元で爆炎が立ち上がりました。

 しかし、それに一瞬ひるんだ様子こそ見せるものの、爆炎の直中にあった悪魔の姿はまるで幻像のように、少しも揺らぐ様子は見せませんでした。ただ、彼の腕に繋がれている男の生身が、その爆炎の凄まじさを示すようにほんの少し舞い上がっただけ。それも一瞬で終わりました。煙の向こうには、まだあの悪魔が男を持ち上げて立っています。

[少しも効かぬ。それとも迷いをはらすつもりなのか? この男をもろともに……]

「迷いなどないっ」

 爆音の残響が静まるよりも速く、一陣の閃きが、男を掴み上げる悪魔の腕を切断しました。あの大剣を持ったマントの男は、何と真上から降ってきたのです。

 斬ったと、一瞬そう思いましたが、悪魔の姿は直ぐに、煙のような形の無い物に変わってしまいました。身に纏っていた闇色のぼろだけではなく、暴漢の男を掴み上げていた変質した腕も、全く空気に溶けるように、黒い靄へと変わっていきました。剣士の剣は、その塊をほんの少し掠めただけだったのです。

 ただ、今まで悪魔が掴み上げていた男の身体は異形の腕からようやく解放され、力尽きた獣のように、広場の端へと投げ出されました。剣士はそれを横目で確かめてから再び大剣を両手に構え、周囲に目を配りました。

[……剣先が遅いな。まだ、斬られてやるわけにはいかん]

 悪魔の声……黒い靄となった今も、その声は何処からともなく……いえ、私の頭の中から直接響くように聞こえていました。悪魔の靄は空へ昇り、またその形を変えながら、剣士の方を伺っていました。

 剣士はさすがに疲れたのか、大剣の切っ先を地面に落としたまま、肩で呼吸を整えていました。その間も油断無く周囲を伺っていましたが、キョロキョロするばかりで、靄のある真上には少しも目を向けていません。全く気が付いていないようなのです。

 そのうち、上の靄から、雫のようにゆっくり零れた一塊が剣士の男めがけて落ちてきました。

「上っ、上です!」

「……!」

 私の声に、男は一瞬だけこちらを見て、直ぐ前へと飛び込みました。彼めがけて落ちてきた塊は、火炎弾となって地へと降り注ぎ、そして爆音だけを残して一瞬で掻き消えてしまいました。消えた先で彼が足を付いて辺りを見回していました。呼びかけは間に合ったようです。

[ふん……やりおる。いや、運がいいのかな]

 再び悪魔の声。

 空の靄は、またいくつもの塊を降らせてきます。その中には、不規則な軌道を描く物も混じっていて、その全てが、前へ転げて体勢を崩した剣士の方へと集まっていきました。

「止まってはいけません、逃げて下さい!」

 声を聞き届けてか、剣士は直ぐさま身体を起こし、前……茂みの中へと身を隠しました。それより数瞬遅れて、不規則に飛んできた塊が火炎となって、剣士のいた地面を焦がしました。

(良かった、間に合いました……)

 そうして胸を撫で下ろすのも束の間……

[……邪魔だな。どうやらこちらから消さねばならぬようだ]

 悪魔の声。そして、私の周りの空気が瞬時に凍て付きました。

 それまで空に漂っていた靄は、異形を成して広がって行き、この森の広場全体を覆いながら、降りてきたのです。

「あっ……ああ……!」

 冷たい闇はやがて異形の空間に私を閉じこめ、視界を黒で覆っていきました。身体が動くかどうかではなく、もはや逃げ道すら完全に塞がれようとしているのです。あれほど身近に見えた森の木々すらも、今は見えません。

「た、助けてっ!」

「そこかっ!」

 私が悲鳴を上げると同時、剣がその闇の一部を切り裂きました。そこから飛び込んできたのは、あの大剣を持った剣士でした。

 彼は私の側に駆け寄って剣を構えますが、やはりあの靄が見えていないようで、この黒い檻の中を探るように、しきりに剣の向きを変えていました。その間、闇は完全に私達の周りを覆い尽くしました。もはや、地面の土すら見えない程です。

「お前は逃げろ。そしてこの事は忘れろ」

「だ、駄目です……逃げられません」

 震える声を押し殺して、私は剣士に告げました。闇は炎のように蠢いています。しかしそれも、やはりこの人には見えていないようでした。

「動けないのか。足を挫いたのか?」

「……それもありますけど、もう囲まれてしまっています」

「……何?」

[その通りだ。私から逃げられると思わないことだ]

 それを証明するように、悪魔の声が聞こえました。そして蠢き出した闇が、再びそこに小さな塊をいくつも造り、この狭い檻の中へ解き放ち始めました。

 暗がりの中に、青白い雷の玉が生まれたのです。それはバチバチと音を立ててその場で膨らんでいき、そして私達を絡めようと、いくつもの筋を放ちました。

「きゃああっ!」

「ちぃっ!」

 悲鳴に反応した剣士は私の側に駆け寄って、剣を持っていない左の腕を空へ突き出しました。

 その左手の甲にあの悪魔の瞳と同じ真っ赤な宝石が、埋まっていました。どこか爬虫類の瞳を連想させられるその宝石は、次の瞬間には大きな白い光の膜を放ち、卵の殻のように私達を包み込みました。

 バヂイィィッ!

 瞬間、膨れ上がった雷光が一斉に弾けました。白い膜に阻まれた雷は私達に届くことはありませんでしたが、私はその恐ろしさにずっと目を閉じていました。しかしそれでも、瞼の裏にはあの暗闇と雷光が照りつけていました。

 やがてその嵐がおさまった時、私達はまだ無事で立っていることに冷やりとしたものが背中を伝い落ちていきました。剣士は無表情でありながらも、額には大粒の汗をかき、口を開けて肩で息をしています。しかし、体力は随分消耗していました。元よりこの大きさの剣を振り回しながらあれだけ動ける方が不思議なのですが、やはり重さを感じないわけではないらしく、彼の小さな呻きが私の耳に届いていました。

「……奴はまだ囲んでいるか?」

 その時、剣士が私へ妙な事を尋ねてきました。

「え?」

「お前には見えているのだろう。奴はまだこの周りにいるのか」

「は、はい……! 真っ黒い靄しか見えません」

 彼はその返事を聞き終わるよりも早く、私の身体を左の腕に抱え上げました。

[逃がさぬと言った!]

 悪魔の声と共に、周囲を囲む靄が再び何かの形を取り始めました。

 悪魔の台詞から何かが来るのを察知したのか、私が指し示すよりも先に、剣士はあの大剣を片手で思いっきり振り上げ、走り出します。抱えられた私は、靄の欠片が身体を掠めそうになるのに、顔を手で覆いました。喉からは悲鳴が零れました。

「きゃぁ!」

「そこか!」

 ぶつかる寸前、剣士は取り囲む黒い靄のうち動きを見せていた部分に向かって剣を振り下ろし、そして眼前に迫っていた薄い靄に向けて大剣を振り上げ、そして私を抱えたまま黒い靄の囲いを突き抜けました。

 ズゥゥっ!

 重い物を引きずるような鈍い音と共に、目に光が戻ってきました。靄の外へと出られたのです。剣士は地面へと降り立つと、抱き上げていた私の身体を土の上へと立たせ、「離れるな」とだけ呟きました。

 身体と構えを、さっきまで靄のいた方へと向けると、彼は両手に剣を持ち直し、そして剣先を足元の土の上につけるように構え、周囲を探りました。

「奴は何処にいる?」

「え、えっと……」

 剣士が再び尋ねてきました。……そうでした。先ほどは的確に立ち回っていたように見えましたが、剣士にはやはり見えていないのでした。

 私は周囲を見回し、その姿を探しました。

 先程の戦いが嘘のように、この森の広場は静寂に包まれていました。木々に切り取られた空は透き通った青。鳥の声すらも聞こえない中に、静かに風の音が引きずる葉ずれの音だけが鳴り響いています。

 しかし緑の葉に届く手前の高さには、さっきの雷による焦げ跡が無数に残っており、先程の魔法……そう、“魔法”の凄まじさを物語っていました。一方で延焼は全くなく、そこもまた普通の火とは違う事を示していました。

 下に目を移すと、なぎ倒された羊歯の茂みと、そして、そこに埋没するように……髭を生やした黒髭の男が倒れています。先ほどおそらく剣士の男が放ったであろう爆炎に多少巻き込まれていましたが、今も微かなうめき声が聞こえており息はあるようですが、もう一人の眼鏡の男は……もはやその眼鏡も吹き飛ばされていましたが、大木に叩きつけられた後も、爆炎やら雷光に巻き込まれたせいで、見るも無残な姿を横たえていました。こちらは生きている筈がありません。

 私は息を呑み、そこに黒い靄がいない事だけを確かめると、他へと目を移しました。

 草もまばらな地面には、炭と化した切り株と、そして先程いくつも交差した爆炎と雷光の跡が、くっきりと黒く残っていました。その黒が目を惑わせるも、あの靄のような気配は感じませんでした。

 代わりに直ぐ隣に目を移せば、謎の剣士が立っています。

 黒い靄ほどではないにしても、彼も又、まるであの靄から分かたれて生まれてきたような、異質な気配を持っていました。ただ、その人のは、少しも怖いものではありません。見たこともないような大きな剣を平気で振り回しているのに、その姿を頼もしいとすら思えてしまえるのです。

(不思議な人……)

 整った顔立ちながらも、感情の無いその目だけは彼のそんな印象を狂わせますが、間近で見ると青年を過ぎたくらいの男だと分かります。旅装束の上に、片側だけに突き出された肩当てをつけ、それと一体になったマントに私をかくまってくれていました。両手に握っているのは、私の身長などゆうに超える大きな剣。何の装飾も施されていないながらも、その柄だけは目を引くほどに黒く、本に出てくる良くない魔剣を連想させました。彼はそれを両手に握りながら、切っ先を地面に落とし、さっき白い膜を張った赤い宝石の瞳と共に、何もない空間をじっと、無感情に見つめていました。

「!」

 とその時、私は赤い色に目を引かれました。左手甲に埋まった宝石の他に、彼の上腕から血が噴き出していたのです。それは彼の服を真っ赤に染めてなお収まる事はなく、肘を伝い今にも滴り落ちそうなほどでした。

「あ、あの……」

「何だ?」

「酷い怪我を、」

 ……怪我を……、それを指摘して、私はどうするつもりだったのでしょうか? まだあの悪魔が私達を伺っているというのに。

 ……剣士はそうして言葉に詰まる私をただ一瞥しただけで、また視線を広場へと戻しました。

「……奴はどうした。消えたのか」

「いいえ、違います。……まだいます」

 私は慌てて剣士に告げました。そして再びその靄の姿を探します。見当たらないのですけど、どこかにいる気配はしていました。あの空気が凍り付いて刃になったような感覚が、まだ少しも消え去っていないのです。

「今は見えないですけど、どこかに隠れています」

「………」

「こっちを伺っているのが分かるんです」

 無駄だと分かりつつも、私は耳をそばだてました。

 そよ風にささめく葉ずれの音、そればかりで、鳥の声もまだ聞こえてはきません。鳥も、あの悪魔がどこにいるのか分からず、身を潜めているのかもしれません。勿論、あの悪魔が自ら声を発する筈もありませんでした。ただ、こちらに意識を向け伺う纏わりつくような意思は感じるのです。

 私は目を閉じました。瞼の裏に、悪魔の意思を逆に辿るようにして、その姿を探そうと試みました。

 どこかにいる筈なのです。この凍り付いた気配の先……私に向けられた刃の持ち主が、きっとあの悪魔の筈なのですから……

 とその時、瞼裏の隅で何かが動きました。目を開けると、そこに見えた形そのままに、黒い靄が木々の間をすり抜けて、こっちへ向かって来ていました。

「左から来ますっ!」

 私は剣士に叫びました。途端凍り付いていた空気がざわめき、唸り声を上げました。剣士はそれを合図にして、左の方へと剣を振り上げました。

 タイミングはピッタリでした。空を切り裂く音と共に、刃は間違いなくあの悪魔の靄を捉え、

 

 !ッシイイイィィィィ………ィィ………

 

 鋭い剣閃がそこにあった気配を切り裂く、そんな音が鳴り響き、

 あの凍り付いた殺気のようなような空気と共に、消えてゆきました。

 音も無く、黒い靄の姿もありません。残された空気がひんやりとしていました。

「……やったのですね」

「いや、手応えは無かった」

「でも……もう気配は……」

「ならば逃げたのだろう。奴の常套手段だ」

 彼はそう言って、抜き身のままの剣を地面へと突き立て、やや屈めていた姿勢を正しました。彼のマントが私の手と一緒に上へと引っ張られるのを感じて、私はようやく自分が彼のマントの端を掴んでいた事に気が付きました。私が慌てて手を離すと、剣士は一度だけ肩を上下させ、そして周囲を見回しました。

「そうしていつも、余計なものを連れてくる」

「え……?」

「動くな!」

 何か話しかけようとして、聞き覚えのある声が聞こえました。

 辺りには人の気配。さっきの悪魔とは異質で気が付きませんでしたが、それは沢山あって、いつの間にか私達の周囲を取り囲んでいました。見れば、茂みの中には弓を構えた沢山の浅黒肌の人影……ルフェの男衆達がいました。その先頭で短刀を構え立っているのはナッツ………

 駆けつけるには遅すぎた、想い人の姿でした。

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