#19 守護


 ……記憶にある中でいちばん古い想い出は、温もりと、そして嗚咽のような泣き声。

 背中を抱き留める細い腕。あまりにも冷たい掌と、火照った身体の温かさとを、私は身体の裏と表で同時に感じていました。

 勿論、どうしてそんな事になったのか、私には分かりません。その時彼が囁いていた筈の言葉の意味すら、私には理解できなかった筈でした。

 それなのに、彼が泣いていた事だけは分かっていました。そしてその悲しみが私に向けられているという事も。

 その時私は、目の前にいた彼がどうしようもなく憎くて、でもその一方で彼に悲しんでほしくないという、矛盾するぐちゃぐちゃな感情に押し潰されそうになっていたことは覚えています。そして、なんとかして感情の理由を、彼が私に悲しみを向ける理由を知りたいと思いました。「どうして泣いているの?」と訊きたかったのでしょう。勿論、その時言葉すら持っていない私には無理なこと。どうすることもできませんでした。

 私に向けられた涙。けど、彼にそれを流させてはいけなかった筈なのです。

 なので、その痩せた腕に身を任せ、その温もりには心を任せ、その涙には「ごめんなさい」という想いを返して……

 気が付けば、矛盾していた感情の一方は消えてなくなり、気持ちも落ち着いていったのでした。


 ……今でも覚えている、その時の感情。昨日のやりとりで不安を募らせているこの日は、そのことが何度も思い出されました。……リュシケに背を押されていつもの片付けにやって来たのに、やるべきことも手に付くはずがなく、気が付けば壁に寄りかかり、ぼぅとしていました。

 ナッツは居ません。私が落ち込んでいる間も待ってはくれず、彼はいつものように森へ出かけた筈です。今は、彼の居ない部屋に私一人きり。だから余計に、ナッツと過ごした日が目に浮かんでくるのかもしれません。

 ナッツと一緒だった八年間の記憶。想い出にある彼は優しくて、そして真剣で、たまにふざけていて。あれだけ大事な仕事の責任を負っているのに、流した涙も汗も決して村の為じゃなくて、ましてや自分の為でもなくて、ただ一人の女の子を守る為にやっていたことだと、私には分かっていて……

 そして、その人は今の私とは程遠い人なのだというのも、心の何処かでは予感していました。

 でもアルビナに近づこうとすればするほど、忘れた記憶を思い出そうとすればするほど、過去の私なんて何処にも居なくて、そのうちナッツの存在すら遠く思えてきます。

 そんな不安も全て忘れて、今のままで居られたらきっと幸せなのでしょう。何も思い出さないまま、ナッツはアルビナを忘れたまま、ただ私だけを見てくれるようになってくれたら、きっとそれが私にとって一番の至福に違いありません。でもそれは罪でしょう。ナッツを裏切る最も酷い仕打ち。そんなこと、私には出来るはずも無いのに。

「アルビナ、あなたは酷い人です」

 今もこんなにもナッツを苦しめているのに、あなたは何処にも居ない。本当に私の中に居るのかすら分からない……

 あなたなら……ナッツの心を独り占めにするあなたなら、きっと何も無かったかのように笑いかけてあげられるのでしょうか。でも私は、昨日からのもやもやした気持ちを繕う方法すら見つからなくて、せめてと思ってやり始めた掃除も手に付きません。……どのみち、いつもと同じ事をするばかりでは、ナッツの心を惹き留めておける筈もないのかもしれませんが。

 せめて夕飯を、作って上げられたらいいのですが。

 挑戦したことは何度もあります。ところがある日まな板を割ってしまい、それ以来刃物を握ることすら止められてしまいました。それならと家で作ろうとした事がありましたが、ナッツはリュシケにもしっかりと手を回していたらしく、唯一の理解者である筈のリュシケですら料理が絡むと味方でいてくれません。……いえ、むしろ敵です。代わりに作る彼女の手料理がナッツの機嫌を横取りしてしまうのですから。

 とにかく、家事では駄目なのです。考え事が多くなるとぼおっとしてしまう癖があるようで、そのせいでいつも何かを壊してしまいます。本当なら掃除ですらやるなと言われ続けています。壊れるようなものはもう残ってない筈ですが、壊れるはずのない物まで壊してしまうからです。

 バキっ……

「わあっ!?」

 嫌な手応えと音が同時に鳴り、私さらに私の身体は足を一本無くしたかのようにバランスを崩して床に倒れました。

「いたた……っ!」

 手と肩が痺れ、足が変にもつれていました。どうやら、無意識に寄りかかってほうきを折ってしまったようでした。その半ばで折れたほうきは、転んでもまだ私の両手にしっかりと握られていました。

 ………………………

「どうしましょう……」

 またやってしまいました。

 とにかく、家事では駄目なのです。何故か道具がよく壊れます。

 私は宛もなく何かを探して、彼の部屋を見回しました。私にできること。仲直りできるきっかけ。いえ、それよりも折れたほうきをどうにかしなければいけません。

 棚には樹を彫って作った食器。陶器は残っていません。テーブルには何も乗ってはいません。台所に放置してある食器も昨夜の分だけ。ひょっとしたらナッツは朝を食べずに出かけたのかもしれません。ベッドの上も脱いだままの衣服が散乱していて、今朝の慌て振りが容易に想像できます。……差し入れを作って上げようかとも思いましたが、さっきほうきを壊したばかりなので料理は止めた方がいいでしょう。でも壊したほうきはどうにもならなくて……多分柄の部分さえ取り替えてしまえば簡単に元に戻るはずですが、そもそもナッツは自分で掃除なんかするでしょうか。後回しにしても大丈夫かもしれません。後でこっそりエシンさんに直してもらいましょう。でもエシンさんも森に出かけて採取をしている筈ですから夕方にならなければ……

 と、そこまで考えて、部屋の壁に掛けてあった籠に気が付きました。それは果物や山菜の採取の時には必ず腰に下げていく蔦編みの籠で、採取の時には必ず使う筈の道具です。今日木の実の収穫をしないなら、確かにここにあっても不自然ではないのですが……

 でも確か一昨日から木の実の蓄えは底を尽きかけていた筈。私は調理場脇にある蓄えの籠を傾け、その中を確かめました。何の抵抗もなく持ち上がってしまう大きな籠は、予想通り完全に底をついていました。

 森の見回りがいくら忙しかったとしても、今日こそ木の実を取ってこないと、今夜と明日の食事にありつけません。

 なのにナッツの果物籠がここに置いてあります。

「……行きましょう……っ!」

 直前まで悩んでいた私にとって、それは丁度いい機運となりました。

 私は折れたほうきをいつもの場所にわからないようにしまうと、部屋に入るときに脱いだ頭巾と外套を身に纏い、籠のベルトを肩に掛け蔦の梯子を下りて森へ走り出しました。

 気分が少しだけ高揚しているのが、自分でもよく分かりました。



 家を出た頃には白みがかっていた空ですが、日が昇るにつれてその青さを取り戻していました。昨日の突風が置き忘れた小さな白い雲だけが、絹糸の玉のようにくるくるになって残っていました。この時期はいくら太陽が眩しく輝いたとしても、それほど暑くなることはありません。しかし夕方を過ぎると、どこからかやってきた冷たい空気が降りてくるのです。

 西の果実の季節はもうすぐ終わりです。キノコの季節がやってきて、それも過ぎると、森に囲まれた月の森も、段々と寒くなってきます。

 村に残っている人達はこれから来る季節に備えて、あるいは実り豊かな季節の終わりに催される儀式の為に、衣服や籠を編み、また酒や干し肉を造っていました。おかげでラティエの村は、果実の甘い匂いで満たされています。

 私は聞こえてくる人々の声から遠ざかり、村の外れにある大きな泉をぐるりと廻り、村の男達の行く森の中へと入っていきました。

 羊歯と蔦が生い茂る狭い道の、まだ見えている空を見上げ、木の葉の向きと方角を確かめ、ナッツ達が向かった方向……この時期に実りを迎える樹の群生する方へと、草をかき分けながら進んでいきました。

 果実の採取をする男達がそのようにしているために、茂みは連日の通行があるにもかかわらず、通り道を空けてはいません。それは、外の人間達の侵入を防ぐという目的の為だけではなく、山菜の季節に芽吹く新たな実りを妨げない為でもあります。

 果実も山菜もキノコも獲物も、そして人間達から身を守る砦も、雨風を凌ぐ住処さえも、全てがこの月の森が与えてくれるものです。私たちルフェは日々森の深きを願い祈り、その日の狩りや採取に向かいます。今私自身を覆い隠してしまう程の羊歯や蔦が、そして月の森のルフェ達を守ると同時に、実り豊かである証でもあるのです。

 ナッツが言うには、それでも人間達が相手ならそれだけでは全然足りないそうです。

 兵隊を沢山連れて攻めるには、確かにこの森は不都合ではあるでしょう。ごくまれにラティエを訪れる商人や旅人達でさえ、ルフェの案内無しにはまともに歩くことすらもできません。ですが、やはり不都合な程度。その気になれば、目印を付けたり樹を切り倒したり、あるいはもっと強引な手段を使ってでも、人間はやって来るのだと、ナッツはよく私に聞かせてくれました。

 ナッツがいつもしている仕事は、その為に講じられるものでした。主に罠を仕掛けたり、森の道を人間には分かりにくくしているのだそうです。私にはよく分かりませんが、以前「木の実を取る時には罠に引っかかったりはしないのですか?」と聞いた事があります。

「気を付けていれば平気だ。引っかかったって痛くも痒くもないしな」

「引っかかっても痛くないのに、効果はあるのですか?」

「あー……ん、まぁ、お前は一人で森に入るなって事だ」

「全然違う話ですよね? それ」

 結局ナッツは教えてくれませんでしたが、きっと人間は通りそうでもルフェは通らないような、そんな道に仕掛けられているのだろうというのは想像できました。この森で生まれ育ったルフェなのですからそれも当然でしょう。加えてルフェという種族は、人間よりも森歩きが得意なのだそうです。そのルフェとしての感性が、仕掛けてある罠にも気づかせてくれるのかもしれません。

 勿論不安もあります。私達は生まれつきその感性を持っているせいで、果たして人間を何処まで惑わさせられるものなのかが想像できません。私にはルフェに近い感性を持っている人間が居てもおかしくないような気もします。何しろ、こうして自分の背よりも高い茂みの中にあっても、私はすいすいと歩く事ができます。きっと、もう少し背の高い……たとえばナッツ程も背があれば見通しも利くはずですから、ルフェではなくとも森を歩けるのではないでしょうか。そもそも風の流れさえ掴めれば、視界はあまり関係ありませんし、木々の一つ一つをとっても個性的で、目印には事欠かない筈です。

「迷いようがないと思うのですけど」

 つまり私にはどうにも森で迷うというのが想像できないのです。

「それに……」

 進む内に、茂みの手応えが急に小さくなりました。さらに二歩進むと、視界が晴れ、丈の短い草ばかりの生えた広場へと出ました。真ん中には、大きな切り株が一つあります。

「……森も深い所ばかりが続くわけではありませんし」

 そこは、嵐や落雷などで樹のなくなった所でした。そうして死んだ樹はラティエまで運ばれ、家具や道具などの材料にされるのですが、その場所は陽の光が土の上まで伸び、強い光に弱い羊歯なども生きられず、草原の空き地になる事が多いのです。

 私はもう一度空を見上げ、方向を確かめました。

 太陽は真上を少し過ぎたくらい。ナッツ達がいる所ももう少しの筈。私は一度籠を逆さに振り、外套と頭巾についた葉を落とし、身なりを整えてから再び茂みの中へと入って行きました。

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