#18 彼女が読んだ物語


 白は、草原に暮らす人間の肌。ルフェ達が憎み、また恐れる夜の闇と暗き歴史の色。

 白は、森へ隠れ住んだ妖精族の羽根。ルフェ達の憧れる空を飛ぶ雲の色。

 白は、夜空から照らす女神アーネアスの月光。ルフェ達が享受し、また誰かへ分け与えるべき慈しみの色。


 ……この月の森にルフェ達を最初に導いた、奇跡の後

 この月の森に暮らすルフェ達にとって、“白”は、複雑で特別な色となりました。


 私の名はアルビナ。“白い少女”という意味の、それが私を示すたった一つの名前。

 初めにこの名前で私を呼んだ人は、きっとそんな神話を意識してはいなかったでしょう。ただ、ルフェ達の安息地に生まれた異端の子を蔑む為に、その名前で呼んだのだと思います。……“白い少女”はきっと幸せではなかった筈です。

 だから、なのでしょうか? 人々が私の事についてとなると口を閉ざすのは。


 それとも、生贄に捧げられる筈だった私が、今もまだ生きているから?


「はぁ……」

 部屋に入って溜息を一つ。

 その日はナッツの家の片付け、日課の祈祷やらを終えてから、とある場所を訪れました。

 それは、儀式の前までアルビナが暮らしていた家。長老様の家の一室。

 記憶の手掛かりを求めて何度か訪れる事のある部屋ですが、何度足を踏み入れてもこの空気に慣れる事はできそうにありません。それは、人が暮らしているべき場所にも拘わらず訪れるべき主を無くしてしまった空虚さではありません。むしろ全くその逆で、ここには元からそういった生活感というようなものが非常に希薄なのです。そのくせ、抑圧した想いだけは色濃く感じられるような気がします。

 部屋の広さは程々。しかしそれでも多少の余裕のあったスペースには、後から樹を加工して作られた人間式の本棚が壁じゅうを塞いでいました。当然その棚には隙間無い程の本が埋まっていて…… 勿論、このラティエにこれほどの書物が並んでいる部屋も他にはありませんので、最初に入った時にはただただ感嘆するばかりで、それ以外の感想を抱く余裕などありませんでした。嫌悪感は、自分の記憶を探る目的で訪れる内に徐々に思うようになってきたのです。

 ここは……例えるなら、起きて眠るまでの無駄な時間を浪費する為だけにあるような部屋です。 本の他には眠るための寝台。そしてあまりにも小さな小窓があるだけ。「まさかここに人が?」と疑問が湧くと、次に思い浮かぶのは、そんな場所で暮らしていたのが他でもない、記憶を無くす前の「私」であるという事実………

 ここに足を踏み入れるたび感じるのは、嫌悪、あるいは恐怖にも似た嫌な感情。だから、例え記憶を取り戻したくても、私はあまりここに立ち入る事はしたくはありませんでした。それでも、ここには昔の私が眠っているのだと、それは確かなのですが……

 複雑な思いで、私は棚を見上げました。手の届かない段まで埋められた本は、童話や神話などの物語が一番多く並んでいました。それは、ひょっとしたらアルビナの好きな本なのかもしれません。しかし時に全く同じタイトルの違う本もあり、これを買い与えていた人のいい加減さと無関心さが伺い知れます。

 ……物語の次に多かったのが紀行文。聞いたこともない地名、発音しにくい言葉が背表紙に並び、それがここからではあまりに遠い国なのだという事が知れます。手の届きやすい下の段にそれが集中しているので、アルビナは外の世界に憧れていたのかもしれません。……この部屋の閉塞感を思えば、その気持ちも分かる気もします。

 私はさらに本の背表紙を目で追っていきました。『妖精の騎士』『嘘付きポクスエール』『竜と不老不死の泉』『アリア・シリア』『白馬の妖精』『竜騎士の絆』『林檎の森の姫』『イルカの目』『星の海と大地の切れ端』………下の段に行くほど有名な本が多いようでした。きっと何度も読み返した本なのかもしれません。たまたま手に取った一冊は絵本でした。何気なしに開いた頁には、剣を構えた“英雄”が何の生き物とも付かないような黒い顔に飛びかかっていく様子が描かれていました。

 ……『神殺しのシーザー』 有名な英雄物語の一節……男の子が好きそうな話で、女の子がよく読む本とは思えませんでしたが、しかしその本には確かに、よく手に取っていたと思える跡は残されていました。いえ、その本に限らず、ここにある本にはそんな跡がいくつも見られました。それは折り目であったり、読めなくなる程掠れた文字であったり、あるいは書き込みであったり……

 そんな中、ふと開いた本の頁が、はらはらと抜け落ちていきました。慌てて手を伸ばしてそれを拾うのですが、よく見るとそれは、抜け落ちた本の頁ではなく、本に挟めてあった幾枚かの紙の束のようでした。

 そこには黒檀の掠れた文字がびっしり。見出しになるようなものは何処にもありませんでしたが、まるで詩のような物語が綴られていました。


 独りぼっちの少女が自分の群を探す狼と出会い、寄り添い合い支え合いながら不思議な世界を旅していく、そんな話。

 私はもう一度この部屋を……埋め尽くされた棚の本を見上げました。

 風猫の住む谷。赤い宝石の川。雲の階段。透明な海と人魚の流れ着いた島。誰もいない街と子供だけの住まう村。妖精の消えたガラスの森。巻き貝の唄う海岸。孤独な魔女の住む大きなお城に、皮も実も全部が真っ白なレモンのなる樹……どこかで読んだような話もちらほらと。

 世界を渡りながら、少女は狼をいたわり、狼は少女を守り続ける。そんな少女と狼の旅してきた世界の全てが、この大きな本棚に。

 しかし、いつまでも続くかのようなその叙事詩は半ばで途切れていました。書き手自身が居なくなってしまったからかもしれませんが、この物語は既に終わりを迎えていたのではないでしょうか。

 狼はようやく自分が居るべき群を見つけ、そして共に旅してきた少女は……


 ―――思い出を失ったまま……?


 不思議な世界の想い出も、共に過ごしてきた日々も、そして狼が聞かせてくれた言葉も、自分の想いさえも。

 それでも、狼は守り続けるのでしょうか。いつか少女が記憶を取り戻してくれる事を信じたままで。

 ………

 “アルビナ”は、きっとナッツの事が好きだったに違いありません。でも、彼女のそんな想いに触れれば触れるほど、アルビナという少女自身のことはますます分からなくなります。まるで、少女自体に実像は存在しなくて、その想いの名前が“アルビナ”という名前であるかのよう。

 記憶を無くした、私はアルビナ。でも、それ以前のあなたは一体何処に? 本当に、私の中に眠っているのでしょうか?

 ………だめ。憶測ばかりなのに、私自身が混乱してしまいそう。この部屋にいると心が落ち着かず、いろんな想像をしてしまいます。壁じゅうを覆う棚の、不規則に並ぶ本という本。これのせいでしょうか? もし本に綴られた物語が誰かの空想の結晶なのだとしたら、確かにこの部屋には気の狂いそうな程の想いが閉じこめられているのかもしれません。

「……そして、アルビナの想いも」

 でもアルビナは、この部屋を好いてはいなかった筈です。

 そうでなければ、私がこの部屋に対してこんなにも息苦しさを抱く事などなかった筈ですから。

 月の出る時間をこの閉ざされた部屋で待ちながら、想いだけはあの窓を抜けて泉の向こう側へ。それとも狼となったナッツと共に不思議な世界の何処かへ行っていたのかもしれません。


 けど、それは一体誰のこと?

 その人がナッツの愛したアルビナなのでしょうか?

 溜息を一つ。考えれば考える程、アルビナという少女が私とは違う人のような気がしてきます。




「……私は、本当にアルビナなのでしょうか」

 夕食の時、ふと手を止めた拍子にそんな呟きが零れてしまいました。

 本日の夕食は、狩りの日の前という事で、痛む前のものを近所からお裾分けしてもらった食材がいくつか。ナッツの家でも干し肉が余り気味だったので、肉も少し並んでいます。……もっとも、わたしは肉が苦手で、あまり食が進んでいませんでしたが。

 ナッツもまた、私の突然の呟きに食事の手を止め、首を傾げています。

「さっき湯呑を割ったのはアルビナで、間違いなくお前だが?」

「……いえ、そういうことではないのです」

 考え事をしていて陶器の茶碗を落としてしまいました。粉々です。

「一昨日、皿を叩き割ったのはひょっとしてアルビナじゃなかったのか?」

「叩き割ってはいません。……ちょっと、ぼーっとしていて割れてしまっただけです」

 村の共同の洗い場にて、私が洗っていた木製の器が音もなく割れてしまいました。

「木製の食器が、ちょっとぼーっとしてたくらいでどうして真っ二つになるんだ?」

「それは私が聞きたいです」

 子供たちの間では私が怪力だという誤解が広がったそうで、それを聞きつけた男の子に私は何故か力比べを挑まれ、そしてきっちり負けました。

「あとは縄梯子とか、扉枠や窓だとか、籠とか、ナイフの鞘だとか、衣服もよくあるな」

 と、そんな風に、どういうわけか私はよく道具を壊してしまいます。本などの高価なものではないのは幸いですが。

 ナッツは外の商人と交渉して買い付ける事もありますから、村でも新しいもの好きという印象を持たれていますが、実際は私がよく壊すせいで回転率がいいだけです。

「……や、安物は壊れやすくていけませんよね」

「どうしてうちだけこんなに物持ちが悪いんだろうな。一体誰の仕業か」

「……はい、すみません、私のせいです」一応、謝っておいた方がいい気がしてきました。「って、別に自分の失敗を誤魔化そうとして言っているのではありません!」

 そんな私の様子を見て、ナッツはケラケラと笑い出します。あれは疑問の意味を分かっててわざとはぐらかしたに違いありません。……おかげで少しだけ話しやすくなりましたけど、からかわれた私はどうにも腑に落ちません。一方の彼は穏やかに見つめながら言います。

「どこからどう見てもアルビナじゃないか。アルビナ以外の何だって言うんだ?」

「わかりませんよ、そんなの。私は元のアルビナを知らないのですから。……誰も教えてはくれないですし」

 最後のは教えてくれない周囲への愚痴となってしまいました。

「アルビナと一番親しかったのはナッツですよね? 教えてください。“アルビナ”は、私みたいにドジな子だったのですか? 私みたいに肉が食べられなかったですか? 私と同じ本が好きでしたか? そして……」

 そして、こんなにもナッツのことが好きでしたか……? ナッツはそんなアルビナの事が好きだったのですか……?

 最後の方の質問は、声には出せませんでした。ですが、不安そうな感情は読まれてしまったかもしれません。ナッツはため息を一つつくと、目を伏せて首を振りました。

「知らん」

「…え?」耳を疑うほどの素っ気ない返事。

「俺は余所者で、別にアルビナと一緒に暮らしていたわけじゃないからなぁ」

「……あ」

 それは……私の方が失念していました。

 リュシケからも聞いていました。二人はみんなが寝静まった頃に、逢引でもするかのようにこっそりと会っていたのだと。思い出されるのは、長老の家にある本棚の部屋。“アルビナ”は、みんなが寝静まる時間までずっとあの部屋で過ごしていた筈なのです。

「昼間に姿を見たことは無かった。勿論、巫女以外の何かの仕事をしていたのかも分からないし、勿論こうして一緒に食事をしたこともなかった。……本の話はよくしたけど、どんな本のことも嬉しそうに話していたな」

 それは……あの部屋からほとんど出ることがなかったからでしょう。外への憧れはあって、でも人前には出られなくて、仲の良くなったナッツと本の話ができるのが嬉しくして、……つまり、そんなことすらも自由に出来なかった生活環境だったのです。

「アルビナは記憶がなくて不安なんだな」

「それは……勿論そうです」

「今は、アルビナもラティエのみんなに敬われていて、俺もこの村にいて森を守る役目を任されている。俺たちは毎日のように会えるし、こうして一緒に食事して、たまにバカみたいな喧嘩もしてさ……平和だと思わないか、アルビナ。……多分、昔アルビナが……いや、俺たち二人が望んだ通りの生活を俺たちは送れているんだ」

「……そう、なのですか?」

「ああ、アーネアス様が叶えてくれたんだろうさ」

 そう言っているナッツは、その“アーネアス”への言葉通りではない複雑な想いを滲ませています。そのせいでしょうか?

「だから、昔の記憶が無くたって不安に思うような事はないんだぞ。アルビナはアルビナなんだから、アルビナの望んだ今を幸せに暮らしていけばいいんだ」

「――――」

 とても安心できる優しい言葉の筈なのに、私は素直に頷くことができませんでした。

 ナッツの言葉が本当なら、ナッツの望みも叶っている筈ではないのですか? それなのに、どうしてナッツは辛そうな顔をしているのでしょうか。

 ……ナッツは、やっぱり嘘つきです。

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