#16 月日
あの儀式がアルビナの精神を蝕んでいた。それこそが、本来なら死ぬはずだったアルビナがここに居る事に対する代償なのかもしれない。
リュシケは、儀式からアルビナが目を醒ましてからの容態を、詳しく話してくれた。
目を醒ましてから彼女が正気に戻った事は一度もない。訳の分からない赤ん坊のような言葉を声に出しては、発作的に暴れ出すといった事を繰り返していた。手の付けられない事もあったが、それでも根気強く落ち着かせれば、後は疲れて眠ってしまう。そんな状態だから、当然一人で食事を取る事も出来ない。小さく切って匙で口元に運んでやればなんとか食べてくれたが、どうしても食べてくれずに、口移しで与える事も少なくはなかった。
アルビナの振る舞いは赤ん坊のようだった。一見意味のないものに思えても、そこに何かしらの感情を垣間見ることがあった。同居人であるリュシケの動きをじっと観察している事もあった。わけなく笑う事もあった。悲しそうにすすり泣く事もあった。そして、徐々にではあるが、症状はおさまっていった。リュシケを認識しているようで、時に甘えるような素振りを見せる事もあった。そして暴れ出す回数も手の付けられない時間も、少しずつ減っていった。だからリュシケは、「こんなのは風邪をこじらせたようなもので、根気よく看護を続けてさえいれば、必ず心を取り戻す」のだと信じていた。あるいは、一番仲の良かった俺に会えば少しは意識を取り戻すのではないかと。だけど……
「……見ての通り」
背を丸めたリュシケは申し訳なさそうに、俺の腕の中で眠るアルビナに目をやった。あれほどに暴れたのが嘘のような、静かで穏やかな表情だった。今こうして眠る時になって、ようやく安息を得られたのだろうか。その寝顔からようやくそう思えたけど、それでもアルビナを腕に抱いたまま、離す事は出来なかった。
「信じないかもしれないけど、数日前までは本当に調子が良かったの。……本当に、どうしてかしらね。あなたに会わせようって決めた時から、またこうして……」
「俺が憎いんだろう」
「そんな」
「忘れたのか? 俺は殺されたって仕方のない事をしてきたんだ」
「でも、それだってアルビナを助けたかったからでしょう? 憎いだなんて、そんな……他の村の人ならともかく……」
リュシケが悲しそうにしたのが分かった。少し躊躇うように吐息の零れるだけの沈黙が続き、やがて彼女は言った。
「…………私なら嬉しいのに」
俺は、彼女への失意の息を吐き出した。今となっては怒りこそ湧きこそしないものの、今でも時々彼女達の無知振りには呆れてしまう。
「本当に、あんた達はアルビナの事を何も知らないんだな」
「――――」
「命を投げ出してまでラティエを守ろうとしたんだぞ? それを邪魔されたのに、どうして嬉しいなんて思える?」
「好きな人に愛されてるって思えれば、どんな時だって嬉しいはずよ」
またも、俺とリュシケの意見は真っ向からぶつかり合った。
「好きだったかどうかだって、分からないんだぞ」
「………どうしてそんな事を言うの……?」
見れば、リュシケは怪訝そうな表情に怒りを滲ませていた。俺は少しだけぎょっとした。
「好きだった筈よ。そうでなきゃ、いなくなったと聞いてあんなにも落ち込んだりする筈ないもの」
それは、まるで呟きのような小さな声だった。
「ねぇ、ナッツ。確かに私はアルビナに無知かも知れない。けど、あなただって生まれてからずっとアルビナと一緒にいたわけじゃないでしょう?」
「そりゃ、……そうだけど」
「私達は……少なくとも私は、アルビナから目を逸らして耳を塞いでたつもりはないの。確かに話した事だってほとんど無いわ。だけど、この子が赤ん坊の頃からずっと見てきた」
「………」
「あなたが来てから、この子は本当に変わった。強くなったのよ」
俺は、自分の膝の上で眠り続けるアルビナを、もう一度見やった。スヤスヤと、寝息を立てる彼女の表情はとても静かで穏やかだ。だけど、その顔にすら、あの儀式の残酷な刻印が残されている。
変わったということ。強くなったということ。リュシケが言わんとした意味は、分かる。けどそれは果たして、いい事なんだろうか? もしアルビナが俺と出会った事で死に駆り立てられたのだとしたら、あの出会いはあまりにも悲しい。
何度もアルビナを助けようとした。一緒に村を出ようと誘った。だけど、彼女は決して頷きはしなかったから。彼女はいつも気丈で、たとえそれが真実の姿であっても、俺に弱い部分を見せようとはしなかったから。
思い出の中の彼女はいつも強がっていて、たった一人で泣いていて、俺の声は決して届くことはなかった。
「今ならこの子の気持ちも分かる。あなたを守りたかったの。だから強くなろうとした」
「俺が、弱かったからだ……」
ただの泣き虫だったから。
その呟きに、彼女は頷きも首を振る事もしなかった。自分の手を俺の頬に当て、俺の目をじっと見つめてたしなめる。
「でも今は違うでしょう? この子の為に、あなたも強くなった。背伸びして大人になったのよ。
ねぇ、気付いてる? この子、ちっとも背が伸びてないのよ。あれから二年も経つのに。信じられる? 本当なら私と二つ三つしか離れてないのよ」
(え……?)
朧気な理解の中、俺は眠るアルビナへと視線を落とした。
想い出の中のアルビナ。最後に会ったときと、同じ姿の……だから久しぶりの再会にもアルビナだと分かった。アルビナの姿を見て嬉しくもなった。だけど事実を指摘された今、愕然となる。まさかと疑う。
……あり得ない。アルビナに会えなかった二年の間に、俺はこんなにも背が伸びた。アルビナを追い越した。だけど、腕の中のアルビナは、あまりに小さい……
「……どう…して……」
「分からない。分からないけど、これが現実よ。この子はね、もう大人になる事だって出来ないのかもしれない。
だから、今度はあなたの番。この子があなたを守ろうとしたように、今度はあなたが、この子を守ってあげなきゃ」
儀式で生きられたなら、二人で大人になれるんだと思っていた。
だから、会えない間、たった一人で大人になる後ろめたさがあった。
アルビナを待っているつもりだった。そのつもりで、想い出の残るこの場所に足を運んだ。だけど……
君はまだあの日の姿のまま、あの夜の悪夢を、繰り返しているのか?
あの頃のままで眠るアルビナを俺はもう一度抱きしめ、ただ泣き崩れた。
時間が経つのが怖かった。月が昇って沈む、そしてやって来た今日という日に、昨日とは違う表情の月が昇るのが怖かった。
結局何日経とうとも、あの日の月がまた昇ることなど無いと、最後まで否定し続けた事実を理解してしまうのが嫌で、何度も何度も空を見上げた。
俺は必死に生き続けた。時間の経つ事など忘れて、ただその日与えられた生を全うして……
俺の心もまた、泉に映った月のように揺らぎ続ける。それは風が吹き抜ければ波紋が広がり、あの頃空にあった月を歪ませていく……見えない時間が長すぎて、俺はもうあの頃の月など覚えていないのかもしれない……
……でも、俺はまだこの場所にいる。この泉で、あの頃の月を探し続けている。
見つかる筈のない事も朧気に分かっていながら、またこの泉に立って空を見上げている。
「……結局、俺は良くない存在でしか無かったんじゃないかって思うんだ。誰かの為に何かをしようとしても、何もできず何も変わらずに終わるか、……そうでなきゃ悪くなるだけ」
「出会ったこと、後悔してる?」
「……うん、そういう時もある」
傍らの少女に掛けられる言葉も無く、ただ弱音を返すばかり。
「後悔したってどうしようもないのも分かってる。けど……君を見ていると、辛いよ」
「そっか……」
少女の呟きは、何処か寂しそうだった。俺は今までもそう分かっていながらも彼女を傷つけてしまい、そして結局救えなかった。寂しそうな表情の彼女にすら、気の利いた言葉を掛ける事さえ出来ず、ただ弱みを見せるばかり。それで彼女に助けてもらってるんだから、本当に卑怯な奴だと思う。
「―――あたしはね、ナツェルがいつかあたしの背を追い越すの、分かってたよ」
「……どうして?」
「だってナツェルは男の子だもん。いつかあたしよりも強くなるんだよ」
当たり前だよ、と言うように少女は笑った。けど今は、その微笑みすら向き合う事はできなかった。泉に映る少女の頭が、くいっと傾くのが見えた。彼女が見やる俺の姿は、背を丸めてうずくまり、相変わらず小さい……
「……強く、なったのかな。俺」
その実感がない。不意に湧き出た自問は、自然と口をついて出てきていた。
それを聞いて、少女はうんと頷いた。
「ナツェルは強くなろうとして、一杯背伸びしてきたんだもの。
会えなかったのはたった二年。ルフェにとっては短い時間かもしれない」
「うん」
「でも、あたし達にはもっと長い時間が必要だったの。どのくらい経ったのか、知ってる?」
俺は思わず、あれから姿を変えない少女を見やった。その時、初めて少女と目が合った。透き通った赤い、全てを見通すような、綺麗な宝石の目。その瞳が、静かに微笑んだ。
「八年だよ。儀式からは十年。強くなって当然だよ」
「けど君は少しも変わらない」
「そんなこと、ないよ。ね、思い出してよ。ナツェルがいたから、あたしは生きてるんだよ」
「……」
「あたしを見て。あの時には身体中にあった刻印は、もう何処にも残ってない。いつから無くなったか知ってる? 喋れるようになったのは? いつから、あたしはまた喋れるようになった?」
勢い込んで喋り続ける少女は、しかし確かに嬉しそうだった。
姿こそ同じだが、彼女が言うように刻印はもう何処にも残ってはいない。
「いつ?」
「……覚えてないよ」
「だよね? きっかけがあって急になったんじゃない。これはね、少しずつ消えていったんだよ。言葉も少しずつ喋れるようになったの」
「…………」
「ナツェルが祈ってくれたから。願いはいつかきっと叶うんだよ。一度には無理だから、少しずつ。
――――あたしの願いも、そうして叶った」
そう言って少女が立ち上がった。その突然の行為が、まるで何処かへ行こうとしているかのようで、沈んでいた俺の心も途端にかき乱された。
「君が望んだのは、こんな世界なのか?!」
手を伸ばそうとした。けど、もう少女には届かなかった。
少女は離れた所から、俺に微笑みかける。その表情はあまりにも無邪気で、逆に腹立たしかった。
「君はずっとその姿のままなんだぞ! 大人になる事もない!」
「奇跡の巫女って、みんな誉めてくれる」
「そんなの、本当の君を知らないだけじゃないか! 誰も……リュシケだって、君の願いを知らないんだぞ!」
「――――――」
少女が頷くのが分かった。いや、俯いたのかもしれない。さっきまで浮かべていた笑みが、少しだけ陰ったような気がした。
だけど声の調子だけは変えずに、少女は言った。
「ナツェルは、今もこの村が嫌い?」
「好きになんてなれるもんか……! だって君は今でも……」
「―――あたしは、幸せだよ」
俺が言おうとした事を遮るように、少女は言った。俺に向け、自信たっぷりの幸せをその表情に浮かべながら。
俺はそれを見ていたら、何も言えなくなってしまった。
現実の事なんか、何も言えずに……
突然に出来た日陰の涼しさがむず痒くなって、俺は重い瞼を開いた。見慣れた顔がそこにあった。
「アルビナ……」
「起きましたか? ねぼすけさん」
日光の陰りを受けてもなお白い顔と髪。彼女は十年間少しもその容姿を変える事はなく、だが決して十年前と同じ彼女ではない。
「こんな所でお昼寝なんてしていていいのですか?」
「急に出来た暇なんだ。別にかまいやしないさ」
「―――なら、お昼くらい一緒したって…」
「晩飯になればいつも上がり込んでるだろうが」
「それとは全然違います! お日様の下でしたいんです。ランチですよ? お弁当ですよ? ポテトサラダとマッシュフルーツのサンドイッチにキノコの浸しと蜂蜜の合わせもの、切って洗っただけの生野菜だってきっと美味しくなりますよ!」
「お前が作るのか?」
「……
……いえ、作れませんけど……」
と、恥ずかしそうに話のトーンを下げるアルビナ。
…って、やっぱり作るのは俺じゃないか。呆れていると、アルビナはその視線を振り払うように頭を振って言った。
「―――そうではなくて! そういう時間が、欲しいんです」
「あー、確かにここ最近忙しかったからなぁ」
「そうです。朝と夜にお邪魔するくらいしか会えないですから」
十分だと思う。昔は夜だって会えない日が多かった。
「で、飯にありつこうと。……いい口実を思いついたもんだ」
「食器を洗ってるのは私です」
「大量に壊してるのもな」
「―~~―~――~~―」
アルビナが再び沈黙した。言い返したくても言い返せず、悔しいらしい。……そういう表情をしている。
俺はそんな彼女の表情に満足して、ひょいと上半身を起こした。
「今は時間あるよ。弁当はないけどな。座んなよ」
「………」
アルビナはきょとんとしていた。手で座る場所を叩いてやると、彼女はようやく笑みを取り戻してくれた。
八年前、正気を無くしたアルビナと再会したときには、こんな笑顔ですらもう見ることはないのかと思った。それ程に、アルビナの心は壊れてしまっていた。錯乱、悲鳴、嗚咽、……言葉もなく、少女は赤ん坊のようにそれを繰り返した。最初に世話をしていたリュシケがそうであったように、俺にもやはりどうする事もできない。ただ彼女が暴れる事でぶつけてくる悲しみや怒りを、自分の身体で受け止めてやる事だけ。小さなアルビナの肩を抱きながら、俺は祈り続けた。彼女の心を何処かに隠してしまったのが、アーネアス……あなたならば、どうか優しかった彼女の心を返してやって欲しい。そして、もう二度とアルビナを連れて行かないでくれと……
その祈りを、アーネアスが聞き届けてくれたのかもしれない。それからのアルビナの回復は奇跡といえる。
兆しは、あの時の再会からそう時間を置かずに現れ始めていた。まず俺という存在を認識し、やがて少しずつ言葉を話すようになった。それと並ぶようにして、身体に刻まれたあの消えるはずのない刻印が、徐々に薄くなり始め、今では跡を残すことなく消えて無くなってしまった。
また、彼女が成長しないというのは前にリュシケが指摘した通り。発育途上の身体は、その余地を残しているにも拘わらず、周りの子供には追い越されるばかりで、変化を見つける事は出来ない。いつまでも子供のまま、……あの儀式に立つと決めた日のままの姿がそこにある。本人は成長が遅いだけと信じて疑わないが、それはもはや誰の目から見ても奇異な出来事である。
いつしかルフェ達は囁くようになる。姿を変える事のなく生きる彼女こそ、“アーネアスの神子”に違いないと……
聞き覚えのある二つ名。しかし虫酸の走る自分勝手な敬愛―――だけど、そうやって信仰にも似た親愛を向けられるようになってようやく……アルビナという真っ白いルフェがラティエの中で居場所を得ることができた。集落の中でのたった一人の白が、本当の意味で崇敬を集めるようになった。果たして一体何の運命か、奇跡の悪戯か……はたまた夜に昇る月の皮肉なのか。
それをアルビナ自身が望んだのだと思うこともある。奇跡の日に望んでようやく得られた居場所なのだと。彼女は昔の辛い仕打ちなど欠片も覚えていない。そうまでして、ようやくみんなと同じ幸せを手に入れられたのではないかと。
思えば、想い出の中にいるアルビナは、決して昼のラティエに無かった。儀式が決まった日の巫女として振る舞う冷たげな慈愛だけが、唯一日の当たるところに出たアルビナの記憶。
怒ったり、困ったり、驚いたり、笑ったり……人として当然の感情を余すほどに持っている今のアルビナを見るのは、少し複雑でもあった。「良かった」と祝福してやりたいと思うと同時、妬ましくもあり、辛くもある。今こうして、昼間の温かな光の中こうして二人で寄り添って過ごすことだって、あの頃には朧気に望んでいながらも決して叶わなかった事だ。
「……疲れてますか?」
少女はいつもそうして来たように俺の肩に寄りかかろうとして、直ぐに顔を見上げた。
「もうすぐ秋ですから、忙しかったでしょう?」
「いや。充実してるよ」
「でも、こんな所で眠っていました」
彼女がこんな所と言うこの場所は、村の外れにある泉の畔、中心に向かって僅かに突き出た陸地。八年前まで何度と無く足を運んだ場所だ。今ここにいるアルビナは、この場所が俺達にとって特別だった事も覚えてはいない。
俺だって、今日やって来たのは本当にたまたま……急に空いた時間を潰すためになんとなく足が向いたに過ぎない。今では他の村人と同様ほとんど足を運ぶことはない場所となってしまった。それでも、この場所は今たまたまここにやって来た俺を癒してくれる。
「……何でだろうな。信じないだろうけど、本当は眠るつもりなんか無かった」
「―――――夢を、見ていたようでした」
その最後の一言は、本当に、彼女なりに言うか言わないかを迷っていたようだった。言い終わっても、彼女はちらちらと俺の様子を窺って、そわそわしていた。こんなアルビナに、嘘は付きたくはない。
「うん、見てた」
「どんな! ……夢、でしたか?」
言葉を、待っていたのだろうか。突然に彼女が尋ねてくる様子に俺は驚き、彼女自身もちょっと恥ずかしそうにしていた。
「……」
「……えっと……」
「……なんか変だぞ、お前」
「いえ! そんな事はないですよ! ただ……いい夢ならいいなと思いました」
お前が気にするようなもんでもないだろうに。
夢。
確かに、アルビナと無関係かというと、全然そんな事はない、幻視のようなものであったのだけど、確かにアルビナも出てきていた。
「……いい夢じゃない。悲しい夢だ」
決して、期待しているような楽しいものではなかった。それだけははっきりしていた。
それが分かると、アルビナは表情を沈めてしまった。俺にはもう、何が何だかさっぱり分からない。
「なぁ、どうしたんだ? 本当に。――――村の連中に何か言われたのか?」
「いえ、そんなんじゃないです。本当に、ただの好奇心です」
その表情に嘘はないと思った。だけど、彼女の気分はなんだか晴れないままのようだった。
――――あたしは、幸せだよ。
夢で見たそんな言葉を信じるわけじゃない。あれはアルビナの言葉ではなく俺自身の望みだろう。だけど今一緒に居るアルビナは、幸せに見える。無論、小さな悩みこそいくつもあるだろうけど、死に向かうような問題は何もない。
結局それは、俺自身の問題でしかないのかもしれない。俺が過去と決別して、今ある生活を受け入れさえすれば、今いくつもの奇跡の上に成り立つこの幸福を享受できる筈だ。……むしろ、俺がそんな疑問を抱え続ける事が、今幸せでいる彼女に、小さな悩みをいくつも与えてしまう。今彼女の気分を曇らせてしまうのだ。
…………
「アルビナは、さ。この村を出たいって思ったことは無いか?」
「え?」
「ここにいるより、森の外に出た方がずっと幸せなんじゃないかって、思ったことはないのか?」
「どうしたんですか? いきなり」
それは、儀式の以前から俺がアルビナに対して何度も投げかけた疑問なのだ。だけど、今の彼女にとって、この質問は大して意味を持たないだろう。案の定、彼女は困ったような表情とそれを誤魔化す笑みの混じった顔をしていた。だけど、少しだけ・・ほんの少しだけ考える仕種をしてから、目を真っ直ぐに向けてこう答えた。
「ありません」
「どうして?」
「どうして?って……そんなことは考えたこともありません。私はこのラティエしか知りませんし、何よりここにはリュシケやナッツがいますから。みんながいない外に出て、今より幸せになれるとは思えません」
「……そっか」
俺が大きく息を吐き出すのを見て、アルビナはまた少しだけ慌てた。
「私、おかしなこと言いました? 気に触るような返事だったら謝ります」
「いや、いいんだよ」
俺はそんな彼女の頭に手を乗せて、自分の身体に抱きしめるように引き寄せてやった。心を無くしたアルビナを宥める時のように。
「夢の中ではさ、その答えが分からなかったから、戸惑ってた。多分、いい夢だった筈なんだ。君が幸せだって、自分でそう言ってたんだ」
「……私」
アルビナは俺がそうするのに身を任せてくれた。心を落ち着かせ、それでも言いたいというような強い意志を宿して、俺に言う。
「必ず思い出します。昔のこと。ナッツの事もちゃんと」
「ああ」
その時は、また俺の事を、ちゃんとした名前で呼んでくれよな。
月の見えない真昼、温かい陽射しと大事な人の温もりに包まれながら、また俺は何があっても彼女を守っていこうと心に決めていた。
だけど、この時はまだ……朧気に気付いていた筈の違和感を心に留める事はなかった。
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