#15 成人


 緩慢としながらも、時は確かに流れ、俺は変わろうとしている。肉が嫌いになり、奇跡を信じるようになり、そして……

 アルビナが側に居ないまま、俺は大人へと早足で駆け上がろうとしていた。

 儀式からさらに二年近くの月日が流れた。

 自衛力を備えるという俺の発案は予想よりは幾分順調に、そして『裏切り者』であった俺という存在もまた、村の中で徐々に受け入れられ始めていた。それは俺の課した軍隊式の訓練が、直接的な脅威の無い間は役立たなくても、狩猟や採取場の管理に役立っていたからだろう。

 そんな中、俺は思われていたよりも三年も早くに成人を済ませた。長老レダの強い薦めがあったからなのだが、理由は他にもある。ラティエの自衛の指揮を執るのに成人式がまだでは都合が悪いからだ。皆がレダのそんな思惑を理解しているわけではないだろうが、俺が成人すると言うことにはほとんど異論は上がらなかった。

 ……というのも、俺はここに来た時から既に、大人に混じって採取や狩りを行っていたからだ。無論、成人前の子供が見習いの為にそれに混じるのはままにある事だが、成人の儀式をこなしているかどうかというのはそれとは全く別なのだ。

 その理由は成人の儀式の中に行われる“試験”にある。儀式の日から後、成人を迎える男子達は、たった一つの武器を持って森の中に入り自力で獲物を仕留めて来なければならない。期日や獲物のノルマなどは設けられてはいない。森に入って直ぐの所で子リスを一匹捕まえて来たって構わない。だが、この時仕留めた獲物の大きさや手強さというのは、そのまま暗黙のうちに男達の格付けになるのだ。

 ……女達の場合、自分専用の道具を一つ貰うだけで(つまり、それが彼女の“たった一つの武器”ということ)、そういう試験は無いのだが……、例えば、自分の婚約者が小さな獲物しか獲れないような男だったなら、それ以上無いくらいに恥ずかしいだろう。逆に大物を仕留める事で見る目が変わる、というのも珍しくはない。……なので、男にとっては多少の無理を張ってでもこなさなければならない“儀式”なのであった。

 自分にとっては半ば、どうでもいいような儀式であったが、それでも俺は自戒のつもりで、狼を二頭、しっかりと仕留めて帰ってきた。

 初めてやって来た時にも、俺は一人で狼を仕留めた。皆は、この儀式で俺がもっと大きなものを期待していたようだ。そういった者は俺が引きずってきた二頭の狼を見て残念そうにしていたが、同じ時に儀式を行った者でそれより大きな獲物を仕留められた奴もいなかった。

 晴れて俺は、大人と認められたわけである。だが、自分を祝福してくれる声の中に、アルビナは居ない。

 目の先にも、そして振り返っても、彼女の姿は何処にも無かった。

 今日もまた、俺はこの村で昇らない月を探している。いつか月が昇るのを待っている。けど……


 ――――昇らない日はどうすんのさ。

 ――――その時は星座を探すの。


 俺には、そんな都合のいいすり替えなんかできそうにない。俺は星の名前を知らない。だからずっと近い空で優しく輝く月だけを見てきた。月の昇らない日は、不安に潰れそうになりながら、それでも何処かで月が息づいているんだと祈りながら、小さな光ばかりの暗闇を見上げて過ごした。そんな生活ももう二年を数えようとしている。一緒に居た時間に、一緒に居なかった時間が追いつこうとしている……

「今日は星が綺麗……」

 俺の隣……いつもアルビナが座っていたその場所には、リュシケが居るのが当たり前になっていた。

 俺自身、毎日この場所に来ているわけではないけど、それでもリュシケは俺の不穏な様子を聞きつけたり読み取ったりしては、その度に世話を焼くためにここへやって来た。俺とリュシケでは会話が続かないから、それほど長い時間居たわけではないが、彼女はそれでも差し入れを持ってきたり、昼間の出来事に忠告をしてくれたりしていた。

「みんながっかりしてた。ナッツなら、もっと大きな……熊でも仕留められたんじゃないの?」

「――――――――」

 彼女の話にはいつも励まされる。人の心の機微に疎い俺にとっては、教えられる事も多いのだが。

 成人の儀式を終えての最初の夜。この夜ばかりはリュシケの言葉は何もかも耳に届かなかった。

「あのねぇ」

「………ん」

「人の話を聞くときは、相手の顔を見るものでしょ?」

 返事を返さない俺にリュシケは不満そうだ。

「……あの子のこと、考えてたのね?」

 あの子……リュシケはいつもアルビナの事をそう言う。

 それからしばらく……随分長く言葉は無かった。一瞬居なくなってしまったんじゃないかと思った俺は、隣にいる彼女の方をチラリと盗み見た。

 ……リュシケはそこにいた。そして顔を伏せていた。辛そうに……泣いているようにさえ見えた。

「リュシケ……?」

「人間と手を切って、村のみんなに認められても、それでもナッツは安心して暮らせないのね」

 顔を上げた彼女は、何処を見るともなく泉の向こう側……家の連なる方を向いていた。瞳にあの優しい輝きは無く、ただ悲しそうだった。

「何が足りないかなんて、分かってる。けど、それ以外もみんなここにあるのよ。それじゃあ満足できないの?」

「……やめろ」

 さらに何かを言おうとしていたリュシケを、俺は制した。

「あんたがそんな事を言うと、その足りない何かが一生戻ってこないような気がしてくる」

 その意味は、大きい。俺も、リュシケが何故そんなにもこの場所にやって来るのかが分からなくて、長くその言葉は呑み込んできた。アルビナは……今は少し身体を壊しているけど、もう少ししたら必ず良くなるって言っていたのはリュシケなのに、どうして彼女は俺からアルビナを忘れさせようとするのか? 夜毎やって来てはアルビナのいた場所に座るのか? アルビナのいなくなった隙間に居座ろうとするのか?

 それは結局言えなかった。言わないようにしてきたけど、今不機嫌さに咄嗟に口をついて出た言葉は、聡いリュシケには真意も伝わってしまった筈だ。……彼女だって、俺の前ではあまりアルビナの話題に触れようとはしないのだから。

 お互い顔を合わせられないまま、気まずい沈黙が続いた。やがて口を開いたのはリュシケの方だった。

 伏せた顔に長い髪の毛が掛かり、表情は見えない。ただ、少しだけ震えているのが分かった。

「……酷い人。私のこと、お姫様の付き人くらいにしか思ってないのね」

「――――」

「いいわ。あなたがそんな人だって、私だって分かってた筈なんだから」

 彼女は立ち上がった。ここが居場所じゃないと言うように。

 そして、俺の背にあった岩の上に昇り、そのてっぺんに腰を下ろす。

「……本当に、星が綺麗」

「うん……」

 どう言っていいのかも分からずに、俺は頷いた。時に振り返って見て、……結局彼女が視界に収まるように仰向けに倒れ込んだ。

 でも、こうしていると彼女の表情は見えない。泣いているのか、それとも笑っているのかすら分からない。だけど空に映る星はキラキラと笑っている。

「ねぇナッツ」

「ん?」

「前に聞いたわね? あなたがやって来たとき、あの子と出会わずに、村のみんなに馴染んでいたらどうなった、って。あなたは、ラティエは無くなってた筈って答えた。……私も、今はそんな気がする。昼と夜のあなたの姿を見比べてると、そう思える。今あるこのラティエは、きっとあなたが村を守ったんだって、ね……あなたは、きっとそういう優しい人」

 月のない森に風が吹き抜け、木々のさやめく音が聞こえた。風はやがて彼女自身にも優しく吹き付け、細長い体躯を包み込む夜着の裾と、黒く上品な髪を揺らした。

「けど、もしあなたがアルビナと出会わなかった時でも、きっと私がナッツを支えていた筈よ」

 隠れていた顔は、静かに微笑んでいたが、分かっていた。それが、無理に作ったものであることを。そうでなきゃ、こんなにも瞼がふるえるはずがない。

「どうしようもなくたって、誰もあなたを信じなくたって、きっと私はあなたを信じた筈。だから、きっとあなたは一人じゃなかった」

「………リュシケ」

「何も言わないで。分かってるわ。意味の無い話だって。勿論、“もしも”の話。現実にはそんな事にはならなくて、あなたはアルビナと出会って、今もこの村は無事でいる。あなたは人間からは解放されたのに、たった一人の女の子の為に苦しんでいて、私は……

 ――――私は、あなたじゃない、他の誰かを愛して、結婚するの」

 微笑む頬に、涙が伝い落ちた。それは直ぐに彼女自身の手によって拭われたが、止めどなく流れ続けた。

 俺は、それから目を逸らすこともできず、その意味を理解する事もできず、ただ、じっと彼女の言葉の意味を考えていた。

「……結婚……?」

「あなたは村の事にはとんと疎いから、きっとそんな事だって知らなかったでしょう?」

「ああ、初耳だよ。相手は……?」

「ナッツと同じ日に大人になった男の子。私より少し年下で、あなたよりずっと年上。……でもあなたに勝ちたいって……もしナッツより大きなのを仕留めてきたら結婚しようって、そう言ってくれた」

 独白するようにリュシケは呟く。

 俺は思い出していた。成人の儀式で俺は、二頭の狼を仕留めてきた。そして、俺より大きな獲物を仕留められた奴は、誰も居なかった筈だ。リュシケの相手が誰かなんて俺には分からない。だけど、もしその男にしてみたら、そんな大きな約束をして果たせなかったなら、恥ずかしくて求婚できるはずもない。それでも、リュシケはその人と結婚すると言った。

「なら、どうして」

 その男を貶めるつもりはなかったが、自然とその言葉が付いて出た。けど、これ以上は自分が立ち入るべき話じゃない事も、薄々分かっていた。彼女はそんな俺に、泣いたまま、クスクスと笑って答える。

「あなたはそんな事も分からないのね」

「……ああ。見損なってくれていい」

「……そうね。せいせいしたわ」

 俺はその微笑みで、なんとなく分かった気がした。進展しないなら、せめて終わらせたかったんだ。

 俺はアルビナを好きになった時から、他人にはひたすらに鈍感だった。それが分かっていたからこそ、彼女はこの想いを諦める決心をしたのではないだろうか。

 思えば、残酷な事を頼んだものだ。彼女が磨いていたのは、自分が一番座りたかった椅子。けどその椅子に座る人は、もう決まっている。俺はそんな彼女に、「アルビナを頼むよ」なんて、言っていたんだな……

 赤い瞳が瞼に消える。リュシケはそうして少しの間、その涼しさを楽しむように呼吸を繰り返した。その肩が上下するたびに、切り揃えられた品の良い髪の毛が揺れ動く。やがて彼女は、そのままの姿勢を維持したままで唐突に、次の台詞を声に出した。

「……アルビナに会いたいでしょう?」

 本当にそれは、唐突な出来事に思えた。




 アルビナに会う事は、嬉しくもあり、また何処かで躊躇いもあった。会えない時間が二年もあったから、彼女は自分の知らない人へと変わっているような気がしたからだ。……いや、変わってくれていてもいいんだ。喋るのがやっとの状態でも、俺を覚えていてくれて、「久しぶりだね、ナツェル」って、そう言ってくれれば、俺はもう何もいらない。

 彼女はどんな風に成長しているだろうか。美人になっているだろうか。出会った頃はアルビナの方が高かった背に、俺は追いついているだろうか。想像は尽きない。

 それからは毎日のように泉の淵を訪れたが、リュシケがそこへやって来たのは、最後に会った夜から五日も経ってからだった。

 俺はいつも、エシン達が寝静まる頃まで待ってから泉へと向かう。アルビナはそれでも俺よりも先に来ている事が多く、俺はいつもアルビナが外へ出るのを確かめてからそこへ向かったのだが、リュシケも俺が出ていく所を見てから出ていたらしく、やってくるのはいつも俺の後だった。

 だけど、その日は違った。泉の淵には二人の影が、既に寄り添って座っていた。アルビナとリュシケに違いなかった。リュシケの方がのんびりしているわけでは無いだろうが、アルビナが一緒にいるから早いのだろうかと、苦笑いを浮かべながら俺は足を急がせた。

 草を踏む音が大きかった。虫の音が少しずつ止んでいくのが感じ取れた。それでもまだ虫の声は大きくて、この泉を取り囲む森一杯に響き渡っていた。俺が歩く道だけが、虫はその音を開けてくれているようだった。

 最初にリュシケが俺を見つけた。彼女はこんばんはの代わりに静かに微笑みを返した。傍らのアルビナを揺さぶって注意を向けさせようとするが、彼女はリュシケの腕に支えられたまま、俺に気付かずに泉の月をじっと見つめている。

 アルビナだ。それは、記憶にあるアルビナの姿と同じ。

 高揚していく。今度こそ俺は、自分からアルビナに声を掛けようとした。いつかの約束の通り、この泉の畔でもう一度アルビナと出会う――――――

 声を掛けるよりも先に、彼女は俺に気付いて振り向いた。………驚いた事に、最後に見た姿から何も変わってはいなかった。想い出にあるままのアルビナの姿。ただ、儀式の時に彫った刺青だけが痛々しい。しかし……

 彼女のその無垢な表情が、俺に振り向いた途端、少しずつ崩れていく。

(え……?)

 それは、久しぶりに出会えて言葉もなく嬉しくなったとか、逆に涙が溢れて泣き出したとか、そんなものじゃない。

 けど、俺はその表情を知っている。 


 ――――憎しみと、それ以上の悲しみ。


 儀式の時、人間と一緒に居た俺に対して向けられていた、その形相と同じ……

 その彼女が、奇声を上げながら俺に飛びかかって来た。あまりのことに何もできずにいる俺の肩に手を掛け、力任せに押し倒し、のし掛かる。包帯の巻かれた指先で、何度も俺の顔を引っ掻いた。

 その間も、彼女の喉からはわけの分からない言葉が発せられ続けていた。もはやそれは意味を為さない……ただの叫び声のようでもあり、赤ん坊の言葉のようでもあり、あるいは……憎しみのせいで言葉さえも忘れてしまったかのように聞こえた。

 手は何度も俺の首や顔を引っ掻き、叩き……そして締め付ける。まるで、どうやって殺せばこの憎しみをはらせるか、考えあぐねているかのように……

「ナッツ……!」

「だ、大丈夫だ……」

 悲鳴を上げて駆け寄ろうとするリュシケを、俺は制止した。

(きっと、憎いんだろうな、俺が。何度も君を裏切ったから……)

 だから、それに耐えなきゃいけないんだろうと思った。アルビナはなおも、言葉にもならない唸り声のような罵声を俺にぶつけてきている。彼女が正気ではないのは、誰の目にも明らかだ。そうして意識を砕かれたまま、彼女は苦しんでいたんだろう。憎しみと、それ以上の悲しみを俺に抱いたままの、見るに堪えない感情に満たされたままで……

「ごめん……ごめん、アルビナ……」

 俺は、アルビナを抱きしめた。彼女は暴れたが、俺は離さなかった。何度引っかかれても、何度蹴られても、絶対に離さなかった。

 涙が止まらなかった。俺が自分の居場所を作っていた間に、アルビナはこんなにも苦しんでいたなんて……思わなかったから……

 俺は、アルビナの身体をしっかりと抱きしめた。最後の夜、アルビナが俺にそうしてくれたように、しっかりと……

 同じルフェ達に冷たくされても、死の運命を突きつけられても、アルビナは優しかった。笑いながら、当然というように自分の命を差し出した。憎いだなんて、声に出すこともなければ、表情に見せるような事もなかった。相手が泣くくらいなら、自分が泣いた方がいいって、でも自分が泣くことでその人を不安にさせちゃいけないって、そう本気で思っている優しい人だった。だから、俺の素行の悪さにだって傷ついたりもしたけど、それでも一生懸命で、いつかは馴染んでくれるって、そう信じていて……

 俺も含めて、ラティエのみんなが仲良く平穏に暮らせるようにって、そう願って、命を差し出した……そういう子だった筈だ。こんなんじゃなかったよな……? アルビナ……

 祈るように、囁き続けた。俺が抱きしめるこの身体の中にいる筈の、本当のアルビナに向けて……

 どれほどの時間が経ったのか分からない。一晩を共にしたように長く感じられた。そこから正気に戻してくれたのはリュシケの声だった。

「……もう、大丈夫よ、ナッツ……」

「ああ……」

 俺は気のない返事を返しながら、涙で滲んでいた瞳を開き、仰向けのまま夜空を見上げた。


 ……月はまだ、そこに無い―――

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