#13 新月
何も迷う事なんか無いはずなのに、答えは返せなかった。
考える時間、というにはなんだかちょっと大袈裟だけど、……ようするにもう少しだけ反省が必要なんだろうと思った。どちらにしろ、以前と同じ立場ではいられない。
皆が寝静まる頃、俺はエシンには内緒で外へ抜け出した。
「……なんだか、懐かしい」
ちょっとした懐古気分だが、しかしそれほど楽しく感じることはできそうになかった。俺には、つい半年も前の様子と同じには見えない。……見えるわけがない。
他に行こうという場所もないので、足は自然と泉の裏側へ……あの場所へ向けられる。けど、そこにアルビナはいない。
儀式の後、もう一度この場所で。そういえば、俺とアルビナがした約束はいつも守られる事はなかった。
「月が、立ち会ってくれてたっていうのにな」
仰向けになって空を眺めながら、俺は苦笑いした。
空に月が見えない。探しても探しても、この場所は暗くて、少し寒い。
こんな日、アルビナはどうして過ごしたのだろうかとふと考えた。
俺の想い出の中でのこの場所は、いつも満月があったように思う。いつも二人で居て、こんなにも寒くはなかった。
……今は居ない。恐らくやって来ることもない。なら、今は何処に居るんだろう?
月は一体何処にアルビナを連れて行ってしまったのだろう………?
「――――――こんばんは………」
声を掛けられ、眠り掛けていた意識が戻った。アルビナかと思ったが、顔を向けたときに黒肌が見えた。……また眠りに落ちてしまいそうな程にがっかりした。
「やっぱり、ナッツだったのね」
やってきた女は、慌てて走ってきたらしかった。上着どころか寝着のままだ。息も少し上がっている。
しかし彼女は誰だったろうか?
俺は二年半も経つ今でもラティエの人の顔と名前をあまり覚えていない。特に女となればお互い仕事場すらも違うのだから、アルビナという極めて希な例外を除いてしまえば皆無に等しい。……いや、いばれた事ではないのだが……明らかに今の気まずさは、そういうのがツケとなって返ってきているいい例だった。
「私、リュシケです。覚えてる?」
当然名前を聞いてもさっぱり。彼女は俺の困り顔に呆れたような顔を浮かべたが、直ぐに言いつくろった。
「そ、そうよね。ナッツは、結局アルビナとしか馴染まなかったみたいだし……」
「………」
「アルビナとなら楽しそうに話してるのに、昼間は全然近寄りづらいし」
「………ぇ……??」
俺は……じわっと汗が湧いてきたのを感じた。
「もしかして、……アルビナと会ってたの、知ってたのか?」
「あら、有名よ」
……アルビナと二人だけの秘密だと思っていたのが無性に恥ずかしい。
「だから直ぐにナッツだって分かったわ。またここでアルビナを待ってたのね」
「……い、いや……」
「でも、アルビナは来ないわ」
「――――――――――」
一瞬にして、背筋が凍ったかと思った。
どういう意味で言ったのか、それを確かめようとして女……確かリュシケと言う名前のその人の方を向いたが、……彼女は心配そうな顔を俺に向けていた。
「……そんな顔をしないで。意地悪しようとして言ったんじゃないの」
「じゃあ、どういう意味だよ」
よっぽど怖い顔をしていたのだろう。リュシケは一瞬ひるんだ。掌をきゅっと結び、少し長い瞬きの後にこう言った。
「今、私はアルビナの世話をしてるの」
「…え……?」
答えとしては意外なものだった。けど、意味するところは二つだ。彼女がアルビナの世話を言いつけられていて、彼女がアルビナを外に出さないからここに来れないか、あるいはアルビナがここに来られないような状態にあるから、彼女がアルビナの世話をしているのか。
「生きているのか?! アルビナは!」
「い、生きてるわ」
「じゃあ、何で会わせてくれないんだ!? 生きているって、そればっかりで……」
「大丈夫、大丈夫だから……ちゃんと説明してあげるから……」
いつの間にか彼女の肩を強く握っていたらしい。よっぽど痛かったのか、離した後もリュシケはしばらく自分の肩をさすっていた。
「………ごめん」
「今度こそ、落ち着いて聞いてくれるわね?」
彼女は俺がそれに返事をするのを見てから、話し始めた。
「もう命そのものに危険は無いの。まだ意識が落ち着かなくて、とても外に出られるような状態では無いから、……けどそれも、少しずつよくなってきてる」
やはり、アルビナの意識は蝕まれていたんだ。告げられたその事実は、俺を不安にさせた。同時に、それを偽り無く俺に教えてくれたリュシケは、他のルフェ達よりもよっぽど信用に足るとも思えた。今は、少しずつ良くなってきているという、彼女の言葉を信じる事にする。しかし……
「問題はむしろ立場の方」
「え……?」
その時、俺はようやく彼女の憂いに満ちた表情に気が付いた。気が付くことができた。
アルビナの事を話し出すときには、既にこんな表情を浮かべていた。ここへ来るときだって、慌てていた。それは見覚えのある姿を見たから足を運んだのではなく、どうしたらいいか分からずにいた所に、どうにか出来るかもしれない人を見かけたから追いかけてきたのだろう。
彼女はやはり俺が落ち着いて頷くのを見てから、それを話し始めた。
このラティエの成り立ちがそうであるように、ルフェという哀れな種族にとって、女神アーネアスの下す予言はこの森で生きていくための武器にも等しい。彼らはラティエができたばかりの頃から、強大な敵である人間や自然の災害からそうして身を守ってきた。……俺の感情にはまだ認められないこともあるが、それは今このラティエに暮らす全てルフェ達にとって真実だった。
当然儀式に臨む巫女もそれを分かっていて、だからこそラティエを守るために命を差し出す事ができるし、他のルフェ達もまた死に行く巫女に期待を掛け、生き残る者の責務を心に刻みつけるのだ。そうしてラティエは十年の安息を手に入れられる筈だった。
アルビナも当然それを望んで儀式に立った。ところが、俺が邪魔に入った為に、儀式は最後まで行われなかった。結果予言は下されず、アルビナは最後の刃をその身に受けることなく今も生きている。
「そのことをみんながどういうふうに思っているか、考えたことある? アルビナが今どんな事を言われているか」
リュシケの目が、俺をじっと見ていた。ちょっとしたやましい気持ちを見逃すまいとする、猫のような瞳。そして、俺は彼女の言おうとしている意味を理解し愕然となった。
「ちょっと待てよ! 俺を憎むならまだしも、アルビナはラティエの為に儀式に臨むつもりでいた」
「みんなそうは見てないの。あなたとアルビナが夜毎会っていたのは皆が知っている事だし、結果的にはあなたが邪魔に入ったせいで、アルビナは生きている。……アルビナがあなたと通じて、タイミングを合わせていた、なんて噂もあるくらいよ」
「そんな訳、無い……」
何を言っても無駄なのが分かった。
全て俺のせいなのだ。それがアルビナの為だったとしても、俺がラティエを裏切ったのには変わりはない。そんな奴の話など、ここに住むルフェが信じるはずもない。俺はあれだけ苦しんで、それでもまだ楽観的に考えすぎていたのだろうか? 彼女が死に向かおうとしていた事、それを遮る事の過ちの大きさを。
矢を受けたアルビナの、憎しみと悲しみに満ちた表情が脳裏に蘇る。
どうして……?と、その口が呟いていた。俺を見つめる瞳は震えていて、涙を浮かべてさえいた。
俺に裏切られて、自分がまた独りになったから?
俺は喜んではいけなかったのか? 儀式が中断され、それでアルビナが生きていることを。
彼女は、死ぬべきだったのか? アルビナがあのまま死ねば、こんな事にはならなかったって、みんなそう思っているのか?
「そんなの、間違ってるだろ! じゃあ、何だよ……! アルビナが死ねば良かったっていうのかよ……!」
「その方が良かったかもしれない。少なくとも、今よりマシだった」
「……お前……っ!」
「酷い事を言っているのは分かってる。私もこれが正しい事だなんて思ってないわ。そしりを受けるべきは裏切ったあなた、儀式に臨んだアルビナじゃない。……あなたなんかの為に、あの子が苦しんでいい筈がない」
睨み付ける俺に対して、リュシケは毅然としていた。優しげな瞳が、精一杯に俺を責め立てていた。
「あなただって、あの時に分かった筈でしょう!? 私達ルフェが、人間に味方することのどれほど愚かしい事か!」
そして遂に、彼女の言葉が俺の怒りに触れた。
「なにも知らないクセに……!」
「知らないわ! あなたの事なんか! けどあなたは少なくともアルビナを苦しめてはいけなかった筈! それも見間違い? あなたはアルビナを助けようとした筈なのに、それでも今あの子を苦しめている事は正しいなんて、言うつもりなの?!」
「――――――――!」
言葉を、詰まらせた。悔しさと怒りで胸がはちきれそうなのに、言い負かせる言葉の一つも出ない。
分かってる。正しいんだ、リュシケの言っている事は。
あの儀式の日以来、ずっと俺が夢の中ですらうなされてきた、あのアルビナの表情と、そこから来る不安を、彼女は全て突きつけている。だからこんなにも腹立たしいのに、何も言えないんだ。
「あなたは、アルビナを助けなきゃいけない。今度こそ正しい方法で」
「分かってるよ、そんな事っ!」
何度だって考えた事だ。
俺がここにやって来たとき、アルビナは俺を敵だと知りながらも手を差し伸べ、どうしようもなかった俺の不安をいとも簡単に取り除いてしまった。幾夜を過ごす内に、彼女の抱える不条理を知った。彼女が俺にしてくれたように、俺は助けたいと思い、彼女が俺にしていたように、きっと出来ると信じていたんだ。出来ないはずは無いんだと……けど……
「どうしようもないじゃないか……! どうして、……俺がどうやってアルビナを助けられるんだよ……今更、どうやって……」
「……初めて見たとき、ナッツはもっと強い子だと思ってたのに」
「――――――――」
「……助ける方法、あるわ」
その時の言葉は、あまりにも唐突で、なかなかその意味を理解することは出来なかった。
「その為に……それをあなたに伝えたくて、探していたんだから」
「え………?」
「正直、あなたが本当にそれに適うのかは疑問だけど、…話すわ。聞かないなら、目障りだから出て行って。このラティエから」
言葉は丁寧なのに、キツい事を平気で言うルフェの女。
アルビナとは似ても似つかないその表情からも、分かる……決して冷たい人じゃなくて、そしてきっと俺とは違う理由だけども、この人も今はアルビナを助けたがっているということ。
俺は……駄目だ。また寸前の所まで誰かを裏切るつもりでいた……
「……聞くよ。頼む、聞かせてくれ」
彼女が言う通り、確かに俺にはアルビナを助ける義務があるから。
そして何より、アルビナを助けたいから。俺はもう一度、敵にしか見えないリュシケを見た。
儀式の時――――――――――
刃が振り下ろされる前に矢が突き刺さり、儀式は中断された。それも、俺が連れてきた人間の手によって。
「ナッツが裏切ったが為に儀式は中断された」
それだけなら、問題は単純だっただろう。即ち、儀式の予言は下されず、俺一人が見せしめでも報復でも処刑されればいいのだ。……実際、リュシケはそうしてほしかったのかもしれない。だがそうではなかった。
誰の目にも成就しなかった儀式なのに、
アーネアスの予言だけは、どうしてなのか、確かに下されていた。
「……どういうことだ?」
「分からない。……アルビナが人間を殺したあの時の魔法が、その証拠になるらしいのだけど」
それを言われれば、思い当たらないではない。確かにアルビナはあんな魔法を使える筈がないし、その為に必要な呪文を唱えられる状況でもなかった。あの時のアルビナは、普通はできないことをしたのだ。
予言がどういう過程で下されるのかは分からない。ただ通常それは重役達の間の秘密になり、必要に応じて彼らの口から民衆達に伝えられる。そしてその伝えられる全てが的中する。
儀式は通常、『神降ろし』と呼ばれるのを思い出した。もしあの時のアルビナに女神アーネアスが降りていたならば、本来アルビナにはできないことをしたのだとしても不思議ではない。当然あの後何の問題もなく予言が下されたるのだろう。だが……
再び脳裏にあの時のアルビナの表情が横切る。
今までに見たことのない表情だから、俺にも自信はない。けど、確かにあれはアルビナだったように思える。まだ感情を残したアルビナだったからこそ見せた表情であって、例えアルビナじゃなかったとしても、予言という至極冷静な奇跡を下す女神があんな表情を、しかも俺に向けるだろうかと思う。
その辺りで、重役達は揉めているのだろうか? 本当に、あれはアーネアスの所業なのかどうか。そもそも、中断したはずの儀式で本当にアーネアスが降りてきたのかどうか。
尋ねると、リュシケは複雑な表情を浮かべた。
「確かにそれもあるけど、それだって些細な事。決定的なのは、予言にあなたの事が含まれていたからよ」
「…………
え………?」
間抜けな聞き返し方をしてしまったのを、俺は自覚している。けど、それ程に彼女の話した事は意外なものだった。
「必ず月の森を守ってくれるから、助けなさいと、そう言ったみたい。予言が下されたのは、あの騒動の後の筈なのに。つまり、あなたが裏切ったとはっきり誰もが理解した、その後でこんな事を言った。だから、儀式の正否が改めて問題視されているの。……重役達も揉める筈よ。正直、この予言が下されるまでは、あなたを助けようだなんてこれっぽっちも思ってはいなかった筈だから……
……ちょっと聞いてるの? ナッツ」
ずっと、考えていた。それが一体どういう事なのか? どうして俺が、森を守ることになるのか?
答えは決まっている。俺が人間側に属していたスパイであるから。この閉じられた村の中で、俺だけが唯一外の出来事と、そして人間の軍隊についての知識の両方に明るいから。ほとんど防衛手段のないこのラティエにおいて、それはどれほど有益な情報となるかは計り知れない。
けど、それには俺の正体を明かさなければならなくなる。……今のややこしい事態が余計にこじれそうなので、今まで俺は黙ってきたのだけど、……唯一俺が生きられる術を教えてくれるアーネアスは、俺にそれを明かせと言っているのか? 完全に人間とは縁を絶ち、ラティエの為に尽くせと? そうすれば、このラティエで生きられるから? 今度こそアルビナと一緒に居られるから……?
何だか、可笑しくなって俺は思わず笑ってしまった。
それは確かにアーネアスの予言なのかもしれない。けど言っていることは、かつてこの場所でアルビナに散々と迫られ、それでも結局守れなかった約束事と似ていた。……予言と称し、アルビナがまた嘘を付いて居るんじゃないかと、そんな風にすら思えてくる。だとしたらなんて愉快だろう? 女神の言葉を借りて、俺とアルビナがラティエを守って居るだなんて……
それとも……儀式の前、この場所で作った嘘『奇跡の少女』のように、もう一度アルビナと二人で森を守ろうという、そんな誘いかけなんだろうか?
「ナッツ! 真剣に考えてるの? ナッツ!!」
「ああ、……ごめん。悪かったよ、笑ったりして。なんだかさ、思い出しててさ。……予言じゃなくてアルビナが、俺にそう言っているような気がして」
「――――――――」
俺へ向ける視線を尖らせていたリュシケの表情が、その時少しだけ柔らかくなったような気がした。
俺は短い髪を掻き上げて、視線を一瞬だけ俺から泉の向こう……ラティエの方へと向けた。
「もし、あなたがあの子を助けられるなら、いつか会えるわ。本当はもっと早くに話せる筈だったの。エシンさんが、なかなか会わせてはくれなかったから」
「…………」
エシンの名前が出て、俺は少しだけ顔を強張らせたのだろう。リュシケの表情が、再び少しだけ引き結ばれた。
義父でありながらエシンとは仲が悪く、加えてアルビナについては喧嘩にばかりなっているのもリュシケは知っていることだろう。
「あの……エシンさんを怨んじゃ駄目よ? あの人、不利な立場なのにずっとあなたを庇っていたんだから……」
それは、意外だった。申し訳ない気持ちも湧いてくる。
「……もう一つ、聞いて良いか?」
「はい」
「エシンは神官だよな。じゃあ、アーネアスの予言の事も」
「ええ、知っていたはずよ」
「……そっか」
リュシケと話す間、ずっと不思議に思っていた。儀式の後、目を醒ましてからエシンの口から聞いて想像していた事態と、リュシケの話す現状があまりにもかけ離れている事。それは、エシンの気遣いにだったのだろう。そうでなきゃあれだけの事をしておいて、村のルフェ達が押しかけてこない筈がない。そして、村のみんなから憎まれ、予言では必要とされている俺に、「お前に選ばせようと思っている」なんて、そんな言葉をかけてやれる筈がないから。
……本当に、俺はどれだけ迷惑をかけるんだろう。
「……明日、長老レダに話すよ」
「え?」
「エシンにも……ラティエのみんなにまだ話してない事があるから。今日は本当に、ありがとう」
戸惑うリュシケに俺はそれだけを言って、駆け足で家に戻った。
やっと分かった。
月の見えない日。見上げても決して見つけられない日にだって、あの月はきっと何処かにあるんだということ。
だから、きっとこんな夜にだって、遠い月を想っていられたんじゃないだろうか――――――
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