3,朔 ― ナツェル

#9 狼


 二年前には死ぬ思いで越えてきたこの森を、もう一度走り抜けよう。助けたい人がいる。

 ルフェ達が一定期毎に訪れる天然の菜園を越え、狩猟場も越えてしまうと、森はその姿を変えてしまう。ルフェ達が月の森と呼ぶ場所から、人間達が闇夜森と呼ぶ恐ろしい魔の世界へ。両者は決して同じ場所ではない。二度もその場所を駆け抜ける今ならば、そして草原と森と、両方の生活を知った俺だけが、そのはっきりとした違いを感じることができる。

 そこは、ルフェ達――置いてきぼりの妖精達が身を隠す恵みの森ではなく、ましてや人間の闊歩する草原でもない。人間達にとっては人を呑み込む魔の森であり、ルフェ達にとっては触れてはいけない天然の罠なのである。

 そう、ルフェ達だって全てを知っているわけがない。この異界に真に受け入れられる者がいるとするなら、

 それはこの森全てを統治すると言われる女神アーネアスだけか。

 アーネアス。その絶対的な存在の名が脳裏に浮かび、俺は足を止め、自分がどれほど疲れているのかを知った。胸は氷の手で鷲掴みにされているように苦しく、足に至っては繋がっているのかどうかが疑わしいほどに固くなっている。

 水が欲しい。一体どれほど走った?

 大樹の腕が天井を作っているせいで、どれほど日が昇ったかも知れない。……あるいは、既に沈んでいるのではないかとも考えたが、そうは思いたくない。

 あとどれくらい残されているかも分からないのに。もう半日? 月は? 月はどうなった? 完全に満ちるまであとどのくらい? 枝葉に覆いつくされた天井を見るたびに気が焦る。

 ………時間が惜しい。考える事を止め、また進み始めた。しかし、時間もそうだが、足すらも、俺の意識からはすっかり離れてしまっていた。

 くそ……! なんて役立たず! 休んでなんかいられないのに……!

 浮かぶだけで何も出来ない意識だけが漂っている。足も身体も、進みはしない……

「………?」

 光が寄ってくるのが見えた。しかしそれは、ラティエでの夜に見た優しい月明かりではない。糸の通った針のような、鋭い視線。二つの、逃げられない眼差し。獣が、近寄ってくる。

 それは狼だった。倒れてしまった俺に、牙を突き立て食らう為に、それはそろそろと近寄ってきているのだ。

「来るな……!」

 声を出せているのか、それすらも分からない曖昧な意識の中で、俺は叫んだ。

「お前なんかに、やられるもんか」

[無様だな。呪われた子供]

 足を止めた狼が、喋ったような気がした。ただ、そんな声が聞こえていた。

[恐怖から仲間を裏切り、その罪に苛まれながら死ぬこともできず、今はまた人間すらも裏切ろうとしているのだからな]

 その声が、俺を嘲笑っていた。憎しみと侮蔑だけの、だが情や哀れみなど何一つ無い凍て付くような声。

[いっそここで死んでしまえ。矮小な命に釣り合う希望などお前に無い]

「……」

[分かるか? 今まで裏切ってきた者達に、死んで詫びろ]

「うるさい……うるさいよ……!」

 狼は首を傾げた。

「何も知らないくせに……せめてアルビナを、助けたいんだよ……」

[助けて、どうする?]

「助けなきゃいけないだろ……アイツの身体の模様、あの時泣いてしまった俺を守るためでもあるんだ……」

[思い上がるな。貴様だけではない。多くの命を救うための、必然の犠牲だ]

 狼が牙を剥いた。

[貴様独りの浅はかな感情で、それを止める事が許されると思うな。巫女すらも、これは望んだ事だぞ。貴様は今、巫女すら裏切ろうとしているのだ]

「……お前は……なんだよ」

 俺はが尋ねると、狼は剥いた牙を収めた。

「あの時の狼か? 今度こそ俺を殺すために来たのか?」

[私の望みは、貴様を生かし、殺すこと]

「……?」矛盾したことを言い出した。

[森に仇なす貴様を、絶望の淵に突き落とし、そして続く者の見せしめとなってもらうことだ]

 ふん……

 俺は鼻を鳴らした。鳴らしたつもりでいた。

 逆に言えば、俺が絶望せず抗い続ける限り、コイツは俺にとどめを刺せないということ。優柔不断で仕事のおぼつかない間抜けな死神か。

「いいじゃないか……歓迎だよ。アルビナを助けるまで、死ぬわけにはいかないんだから」

[貴様が期待した通りには決してならん]

 狼が強い口調でそう言い切った。

[貴様の想いは揺らぎ続けている。かつては己の死を貴様は望んでいた。だから、悔いる今と果たせぬ未来を抱えたまま、更なる絶望を抱えて貴様は死ぬことになる。貴様の迷いの果ての選択がそうさせるのだ]

「――――――」

 分からない。いや、分かりたくもない事を、狼は繰り返した。……言葉の意味こそ違うが、それは皆同じ事を言っているのだと、俺は本能的に分かっていた。しかし、理解してはいけないのだ。理解すれば、俺は彼の言う通りの死に方を迎えることになる……

 狼は決して運命などというようなものではない。そんなものは存在しない。

 狼の身体は仮初めでしかなく、その声、その言葉、その意味こそが彼の本体。そしてそれは、間違いなく俺自身の分身……

 直感でその存在の意味を知り、俺は恐怖した。コイツは俺を殺せる……! コイツの本当のエサは命なんかではなく、死んでなお残された後悔や無念であり、それを食らうコイツはそういったものの塊なのだ……!

 狼が、静かにそっと、俺の喉元に口を寄せる。牙を剥き、その顎を開くと、そこに血に乾く獣の喉が見えた。

 狼は俺の死を望んでいる。俺を殺そうと……殺してもなお遂げられない無念を抱えている……! 俺はそれを本能で悟った。

「近寄るな! 俺が死んだら、誰がアルビナを助けられるんだ!?」

[おかしな事を言う。お前以外の誰が、あの娘の生を望んでいるというのだ? むしろ、犠牲として消えてこそ、残る命の為となる筈。お前もそれを理解している]

「分からねぇよそんなの! 死んでいい筈無いだろ!」

[巫女が予言を授かる事で、森は再び安らかなる時間を得られる。それは、お前自身も望んでいた。自らの手で火を放つ事もなく、自らの手を血で汚すことなく]

「ああ、今でも望んでいるさ。でも、アルビナだって助けなきゃいけないんだ。死んじゃいけないんだよ、アイツは……!」

[矛盾する願いだ。それが通る道理はない]

「分かってる。だからこそ俺はもう弱いままでいちゃいけないんだ。俺が強ければ、アルビナを守ってやれる。……頼むよ、行かせてくれ! 助けたいんだ」

 俺の喉に触れていた牙を、狼はそっと放した。

[それはお前の望みでしかない。お前だけの身勝手な感情だ]

「それだって分かってる。けど、助けられるかもしれないんだ、アルビナを……! 今度こそ……!」

[――――――]

 狼は嫌な物を振り落とそうとするように首を振った。……その行為の意味は分からなかったが、俺を喰い殺す事はどうやら諦めたらしい。

[ルフェを裏切り、人間を裏切り、それでもまだ生きて、そして今度は誰を裏切るのであろうな……]

 狼の声はそれっきり聞こえなくなり、そしてその姿も闇の中に溶けるようにして消えていった。

 次に気が付いたときには、俺は森の小さな道の真ん中に立ちつくしていた。走っていたのか、眠っていたのか、それすらもはっきりとしない、断絶されていた意識が嫌にはっきりと俺の中で目を醒ましていた。

 陽の光が眩しいことに気が付いた。それから目を逸らそうとしたとき、木々の間から建造物を見つけた。

 それは俺が目指していた、人間達が作った石の砦であった。

「裏切りが、何だっていうんだ」

 もはや見えなくなった狼に吐き捨て、俺はまた駆け出した。

 身体の痛みはもはや感じなかった。

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