#8 暗い夜


 昼間の光も生まれ育った村も育ててくれた親でさえも、全てが邪魔なんだと思った。本当のアルビナは、それらの中にいられないんだと。本当の彼女はいつも独りで居て、星を眺め、水面に映った月にすら恋い焦がれるようにして、あの泉の淵に座っている。ラティエには、そんなアルビナの孤独を知る者など、一人もいない。

 だから俺が、本当の彼女に会って、想いを確かめなければいけない。

 俺は食事も早々に済ませ、時を待った。皆が寝静まったのを見計らい、外へ出てあの場所へ走った。アルビナが来るよりも早く、あの場所で待っていようと思った。今度こそ、俺から声をかけてあげようと思った。

 きっと村の中でこの時間のこの場所だけが本当のアルビナの居場所なのだろう。月明かりとそれを照り返す泉の月だけ、村は遠く、人は夜の奥に身を潜めてしまうこの場所で、アルビナに聞こう。月が昇れば、彼女は外へやって来る。ラティエで一番大きな樹の足元に降りて来て、そして一度空を見上げて夜の空気を吸い込んで、月明かりに照らされた絨毯の上を歩くように恭しく、この場所までゆっくりと。

 いつもそうして外に出る。一日の内の待ちに待った僅かな時間を何度も確かめるようにしてゆっくりと、一歩ずつ歩いてくる。

 月が昇ればそうして……

 昨夜も、外に出た。小雨の降る中、フードを被って駆けて行ったその背中を、会うのが気まずい俺はじっと見送っていた。

「………」

 その日の彼女は、なかなかやって来なかった。

 俺が問いつめようとしていること、アルビナは分かってるんだろう。

 でも、諦めたくはなかった。じっと待っていた。アルビナがいつもそうしてきたように、星座を探し、月を眺めた。

 だが、空が白み始める頃になっても、アルビナは現れなかった。俺は仕方なく家に戻り、朝までのほんの僅かな時間で睡眠を取った。

 次の日は快晴だった。昨日無かった分、果物の採取は長く行われた。誰とも喋ることなく、日中を過ごした。

 そして夜はまたアルビナを待った。空は晴れていたが、月が昇るのは随分と経ってからだ。そうまでして昇った月は細く頼りない。もうそれほど日も無いんだと、俺は改めて思い知らされた。その日もアルビナは来なかった。

 その次の日は、遠い巡回路の見回りが行われた。俺は寝不足から来る疲れのせいで頭がぼーっとしていた。俺は何も異常を見つけられなかったが、他の連中は人間が歩いた跡を見つけたらしい。儀式が急がれるとみんな口にしていた。儀式の事は伏せてイピを飛ばした。その夜もアルビナは来なかった。

 次の日は大雨だった。木の葉に落ちる雫がじゃあじゃあと騒がしい中、ただ黙々と道具の手入れをして日を過ごした。途中で眠くなることはなかった。

 夜には雨衣を身に着けて外へ出た。来ないような気がしたが、それでも待ち続けた。そしてやはり来なかった。ずっと家の中にいるんだろうとか、いろんな事を考えて待ち続けたが、そんな考えもまとまることはなかった。

 次の日も雨だったが、昨日ほどうるさくはなかった。疲れが現れ始めたのか、俺は籠を編みながら眠ってしまっていた。エシンに殴られたが、喧嘩にはならなかった。夜も雨だったが、その時は眠らずにアルビナを待った。

 考え事をしていた。満月まで時間が無いから、どうしたらアルビナが死なずに済むかを必死になって考えていた。

 儀式を邪魔する。無理矢理にでもアルビナを連れて村を出る。俺の立場を明かす。

 ……どれもアルビナはいい顔をしそうにない。

 その日もアルビナは現れなかった。

 雨はその次の日も続いた。フードを被って簡単な木の実だけを集めて早々に撤収した。儀式の準備を手伝えと言われたが、絶対に手伝わなかった。代わりにアルビナの事を考えていた。しかし夜になり、さらに空が明るくなり始めてもその答えは出なかった。

 次の日は熱を出して寝込んでいた。頭が痛くて、考えごとすらもうまくまとまらなかったが、夜にはあの場所に行った。朦朧とする意識の中で、アルビナを待った。しかし、夢にすらアルビナが現れる気配は無かった。

 朝には動けるようになったが、狩りは休んでいいと言われた。しかし眠りが深く落ち着くことはなく、ほとんど休む事はできなかった。夢の中でも、俺はアルビナを待ち続けていた。彼女が短剣を自分自身に突き立てる様子がたびたび悪夢となって現れたが、その日アルビナの姿を見たのは結局その悪夢だけだった。

 次の日は狩り。

 その次の日は山菜を採りに出た。やはりアルビナは来てくれなかった。

「どうすれば……」

 そうして自問するのにも疲れてきた。答えが出ない事など知っている。

 月のない夜が続く。昇るのが遅くなった月は、やがてもう一度夜に帰ってくる。新月は昨日。もう半月も無いのに。

 もう長いこと、アルビナはこの夜に居ない。この場所に、本当のアルビナが居ない―――

 それでいいのかと、来ない少女に何度も問いかける。その度に昼間に見たアルビナの振る舞いが脳裏に浮かぶ。表情を消し、神の巫女であろうとするアルビナの姿を思い出す。

 ……だから、それで良かったのかもしれないとも思う。

 昼間の陽の下に出て、ラティエを救う巫女と皆に賞賛される。その姿をアルビナは望んでいたのかもしれない。

 なんだか疲れがどっと出た。気が付くと、光が差し込もうとする時間になっていた。俺はその朝も身体を引きずって家へと戻った。

 次の日は果物を採りに行った。儀式の日が近づいてきているせいもあって、沢山採らなければいけなかった。結局俺も儀式の準備を手伝わされる羽目になった。エシンはよく頑張ってると俺を誉めてくれたが、俺は口を利かなかった。

 その日の夜は明るかった。もう樹に隠れてしまった月が見えそうな気がして、俺は腕と膝に顔を伏せながらあの場所に座っていた。

 月が満ちようとしている。

 もう時間が無い。

 どうにかしなきゃいけない。

 どうにかしなきゃいけない。

 例えアルビナがいい顔をしなくたって、彼女を助けたい。でもどうやって?

 答えは出ない。いつまでも白い希望を見つけられないまま、アルビナに会えないまま、今日も夜が更けようとしている。

 今夜の再会を諦めかけた、その時、

「――――ナツェル……」

 ふわりとした感触が俺の背中を包み込んだ。

「アルビナ」

「うん……ごめんなさい。来て上げられなくて」

「あやまる事なんかない」

「ずっと、苦しんでたよね。あたしのせいで」

「いいんだ………俺はアルビナと話したくて、ずっと待ってたんだ。こんなの、全然大した事ないんだ」

 背中から俺の身体を抱く、それはまさしくアルビナだった。何度も繋いだ手を、俺はこの時もまた握り返して、その温もりを確かめた。

「それに、何日もこの場所で待っていて、分かった気がした」

「……ここは、少し寒いよね」

「うん……」

 ラティエの集落の中心。村からは離れ、空が開け月明かりが注ぐかわりに水面が近い。

しかし家々からは離れすぎ、夜が更けて灯りが無くなる頃になると、この場所からは集落の形跡すら見えにくくなる。空が開け月明かりが降り注ぐ代わりに、水面が冷たい。

 それが良かった。そっちに目を奪われずに済むから、あの場所の事を羨まずに済むから、この場所が良かった。けど、だからこそ自分が家々からは離れた場所に居るんだということを思い知らされる。夜にしか生きられない動物たちの声だけはいつも賑やかに聞こえていて、ここは村と森のうち、そのどちらでもない。俺達だけの場所。

 だから、月を見て、星座を探して、ここで夜を過ごした。空に浮かぶ月は柔らかな光を放ち、女神アーネアスの姿を賛美し、瞬く星々はここではない何処かの神話を物語ってくれる。ここで待つアルビナは、来たるべき日の為の何を彼女達から教えられ、何を感じていたんだろう。

 水面に目を向ければ、落ちた月の化身。落ち込むようにその月を見ていたアルビナは、まるでいつか自分もそこに消えていくことを分かっていて、生まれ変わるその姿に恋い焦がれ、もどかしく思っているように見えて、なんだか今この瞬間にもいなくなってしまいそうだった。

 その姿に気付いていながら、俺は自分からは決して声を掛けられなかった。それだけの危うさを前にして、一声掛けられるだけの勇気がなかった。この時間が崩れていきそうな気がして怖かった。そうしている内に、アルビナが先に声を掛けてくれた。アルビナは嬉しそうに微笑んでいた。「月を見ていたんだよ」と、無邪気に笑ってみせた。

 今度は俺の番。

 俺も彼女がそうしていたようにその月の化身を眺め、アルビナのことを想った。しかし風が吹いて水面に波が立てば、そこに映る化身も姿を揺らがせた。夢中で水面に手を伸ばしたが、余計にその姿をかき乱してしまっただけで、水面の月をすくい上げる事など決して出来はしなかった。

 やがて時が経てば月はこの水面から居なくなる。この場所もいつの間にか暗くなっていて、それに気付いてしまったなら、この森に元からあった筈の闇が恐ろしくなっていた。村も見えない。帰る道すらよく見えない。

 それでも待っていられたのは、アルビナが来てくれると信じられたから。二人でこの場所にいるからこそ、俺達は強くいられた。なんて半端な存在なんだろう。

 けど、アルビナはたった一人でもここに来た。人々の目に触れる事を拒んだ時から、ここへ来てはたった一人だけの夜を過ごし、月を眺め、星座を探し…………

 それでも、アルビナは俺に笑顔を向けていた。決して泣かなかった。今自分の死が迫っているこの時ですら、彼女は涙を見せなかった。

 適うわけがない。あの夜ここで泣いていた俺は、あまりにも弱い……

「アルビナを助けたかった」

「うん……分かってたよ。嬉しかった」

 耳元に囁くように聞こえるアルビナの声は、俺の心に直に届いた。

「あたしもナツェルを守りたかった。……似てるんだよね、あたしたちきっと」

「一緒に居たいよ」

「うん……」

 似ている二人なら、一緒にいるべきなんだと思った。けど、それは違うのだろう。

 違う場所に育ち、それでも似ていたからこそ、俺達は同じ場所には居られない。俺には外の世界は冷たすぎ、アルビナにとってこのラティエの空気は寒い。俺達はまるで、住む場所の違う別の生き物のよう。

「一緒に…居たかった……けど、」

 手をぎゅっと握りしめたまま、彼女は俺の後ろに座った。背中を合わせ、互いの熱と鼓動を背中越しに感じた。アルビナのそれは、俺のなんかよりもよっぽど熱くて、そして速く脈打っていた。

「……これで。最後にしよ」

 そして、彼女自身の口から、それは聞かされる。もう、この時間すら失われ始めているんだということ。

「あたしもナツェルも、もっと強くならなくちゃいけない」

「俺じゃあ駄目なのか?」

「ううん、そんなことない。ナツェルには、ラティエで暮らして欲しいから」

「こんな村……大っキライだ……」

「……うん、今はそれでもいい。ナツェルがラティエを好きになれるように、あたしは祈るから」

「……アルビナがいないこんな村で、暮らしていけるもんか」

「でも、ナツェルの居場所はここ。人間の街だと、ナツェルはもっと辛い想いをすることになる」

「アルビナだって、それは同じだっただろ」

「ナツェルが居てくれたから…良かったよ」

「俺も、アルビナと一緒なら何処へでも行ける。どんな事にだって耐えてみせる。だから……」

 その先を、言うことは出来なかった。どうしてかは分からない。

 断られることが分かっていたからかもしれない。アルビナの絶対に退けない強さとか優しさとか、それを俺は知っていたから……

 今ここで疲れ果て、惨めに泣いている俺ではあまりにも足りないんだと、自分自身で思い知らされたからかもしれない。

「……いつか、きっとね」

 アルビナは今、この時だって穏やかだ。

 死に向かおうとしているのに、そうして約束を取り付ける。嘘を付く。

 俺が、アルビナに嘘を付かせている。

「でも……!」

 悲しかった。

「でも、死んじゃうんだぞ、お前……!」

 俺もまた、アルビナを生贄に命を取り留めるルフェの一人なんだ……

「これから死んじゃうのに、どうして“きっと”だなんて言えるんだよ……」

「あたしは、……死なない」

 今にも声を涸らしてしまいそうな俺に、アルビナのその言葉が届いた。

「あたしは、奇跡を起こすんだよ」

「嘘っ!」

「嘘じゃない」

「嘘だ……!」

「本当だよ。……儀式の夜になれば、奇跡を起こせる。みんなの想いや願いが叶うんだよ。

 まだ叶えられていない想いが、あたしを通してアーネアス様に届けられる。

 ……だから、あたしの願いが一番に届くの。……本当だよ」

 小さく、最後の方は本当に声を小さくしながら。そうして最後に「信じて」とアルビナは言った。

「どうして、そんなこというんだよ……ホントは一番辛いクセに……」

「平気」

 今度は強く。そして、少しだけ笑って見せたのが聞こえた。

「平気だよ、あたしは」

「死んじゃうんだぞ! もう会えないんだぞ!」

「……あたしの願い、ちゃんと叶ってきたよ……

 あたしがここにいて、ナツェルもここにいる。ちゃんと、お話ししてる」

 それが何よりの望みだったというように。

 月を見上げ、星座を探したこの泉で願ってきたこと。

 それは……

「……もう一度会えて、良かったよ……」

 振り向いた。

 ごめんと、わざとここに来なかった事をあやまるために。

 アルビナの姿を見て、アルビナの目を見て、そうして彼女に聞こえるように言わなきゃいけないんだ。

 彼女を苦しめていた。

 俺がこの村に馴染めなかったから、そうして口にした言葉、取った行動が、アルビナを苦しめていたんだとこの時になってようやく分かったから。

 彼女はずっと俺を見ていた。

 だけど俺は、アルビナの姿に気付かなかった。

 “それ”を、自らの白い肌に纏う少女の姿に。

「―――――ごめんなさい」

 言いたかった言葉は、またしても彼女が先。それとも、今この姿の事を言っているのか、あるいは、“それ”のせいで会いに来れられなかった事を言っているのか。

 想いが一杯になり、俺は言葉を失った。ただ、彼女である事を確かめるためにその名前を呟くことしか出来なかった。

 それが、儀式に臨む巫女としての姿なのだろう。いつもの服は着ていない。舞う時の薄く短い衣装に身を包み、身体中を植物や鉱石で作られた装飾品で飾っている。

 何より目を見張ったのは、白く美しかった彼女の肌を、黒い模様が覆っていることだ。露わになった腕や足、胸元から首、そして頬や額にまでそれは描かれ、ただでさえ短い衣装の裾の奥に伸びていた。儀式の前の数日というにはあまりにも完全な姿。おそらく、ただ色を塗りたくったものではない。直接、アルビナのその白い肌に彫り込んだものなのだろう。

 俺の知識にある限り、それは消えることはない。だからこそ、子供の身体に、それも全身に彫り込む事の意味は、重く感じられた。

「……ごめんっ! ごめんなさいっ……! アルビナ…ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 涙と共に、それまで言えなかった言葉が一気に溢れ出た。

 俺がもっと強ければ、こんな事にはならなかった筈だった。

 出会ったときに俺が泣いていなければ、独りで居たときに俺から声をかけていれば、会いたくなかったときでも隣に居てやれれば、俺がもっとラティエに馴染んでいれば、エシンや村のみんなと喧嘩しなければ、アルビナに嘘を付かせなければ、二人で旅に出ても守ってやれるくらいに俺が強ければ……

 強ければ……

「ごめんなさい……っ! ごめんなさい……」

 いくつも、いくつもあやまった。自分が迷った分、弱音を吐いた分、彼女が傷ついた分、俺が傷つけた分、アルビナの身体に彫られた祈りの分、いくつも。それでも、まだ足りない。足りるわけがない……

 俺の身体を抱きしめ、頬に触れ、アルビナは静かに言った。

「いいの。泣くのはきっとこれが最後。でも、もう一度、ここで会お。儀式が終わって、あたしが生き延びた後。その時は、二人とも強くなってるから、その時こそ一緒に……二人で一緒に旅をしよう。ナツェルが言ってたみたいに、二人だけで、この村と森を抜けて、外の世界を見て回ろう。それまで待っていて。このラティエで、待っていて」

 答える事なんかできはしなかった。

 アルビナだけが強くて嘘をついて、けど俺は死ぬことが分かってるから、このままだとアルビナの言うもう一度なんて、二度と訪れないのを知っているから。もう言葉も無くなっていて、俺は……

「今だけ……今だけは泣いていいから。……泣きやんだら、もっと強く、もう泣かなくてもいいように強く……」

 アルビナの祈りの声だけが聞こえていた。その声は安らかに、今湧き起こる不安も後悔も、全てぬぐい去ろうとするように静かに。

 疲れすら心地よく感じる頃、俺は泣きやんでいて……

 その時にはもう、アルビナは俺の側に居なかった。

 空が白くなり始めていた。月はもう、この場所からは見えない。

 俺は立ち上がり、恐怖を振り払う為にもう一度その涙の跡を拭った。

 まだ、出来ることがあるんだと言い聞かせて、走り始めた。村の方ではない。まだやっていない事を為すために。

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