#5 森の魔女
帝国側の反応は、十日後に届いた。またいつもの定時報告を行おうと呼んだイピの脚には、いつもと違う紙の筒が目立たぬように取り付けられていた。狩りの途中に隠れてしている諜報だというのに、俺はその場で紙を開いた。アルビナの言った災厄が当たっていたのかどうかの答えは無く、代わりに新たな司令だけがそこに書かれてあった。
巫女の、理、子細を
暗号によるただその一行のみ。しかしそれで全てが知れた。
アルビナの言っていた予言を読んで、隊長のグランドールが白い巫女に興味を持ち始めたと言うこと。
つまりそれに足る何かがあったのだ。
アルビナの言っていた風が本当に街を襲っていたのかもしれない。
奇跡が本当に起きたということ? きっとそうなのだろう。偶然かもしれないが、俺はそう信じたかった。
どちらにしてもこのことは大きい。グランドールがそれに目を向けたと言うことは、……その情報無しに事を進めるのを躊躇っているということだ。奇跡を恐れていると言ってもいい。
(アルビナ、すごいぞ……っ!)
何かが変わる気がした。
アルビナが言っていたこと……この村に住めばいいと、それだけではなく、自分をとりまくこの絶望的な状況が少しずつ、彼女の力でひっくり返るような気がした。
それは奇跡と言うにはまだあまりに小さい予感だが、
俺にとって希望になりつつあった。
「ナッツ! 戻るぞ!」
「りょうかーい!」
俺は軽快に返事をし、急いでみんなの所へと戻った。
結局その日、果実はほとんど採れなかったが、気分は心地よかった。
そしてその日は誰とも喧嘩せず、エシンに殴られる事もなかった。
皆が寝静まる夜は、二人だけの時間になる。
泉をぐるりと囲むラティエの村。その建物を見渡せる、泉の中心へと突き出した陸地が俺達の遊び場。村の中心にありながらここはどの家からも遠い。ここでの声は、眠っているラティエまで届くことはない。囁く虫と風が撫でる葉擦れの音と水面の揺らめく音。
アルビナはいつもそこで月を眺めていた。水面に落ちた月が空に浮かぶ半身に想いを馳せるように、彼女は空を見上げている。
「こんばんは」
声を掛けるのは決まってアルビナから。その声を聞いたら、俺は決まってここに来た事が照れくさくなり、何かと話題を逸らそうとする。
「……退屈じゃないか? いっつもそうやってて」
「どうして? ここは賑やかよ。月も綺麗」
「昇らない日はどうすんのさ」
「その時は星座を探すの」
星と月。気にした事もなかった。けど、アルビナとこうして会うときはいつも月が昇っていた。勿論月は必ず空にあるわけじゃないけど、そんな気がした。
月はいつも俺の側で輝いていた。
彼女は、天高く昇った満月に似ている。暗い夜空で最も白く、最も美しく、明るく優しく、この森の闇を照らしてくれる。明るいのに、決して眩しくなく、……そしていつも独りだ。
「お前、不思議な奴だな」
「何で?」
「教えない」
俺は月に出会うためにここへ来る。昼間の明るいうちは、月に出会う事はできないから。
夜は俺達だけの時間。こうして二人並んで水面を見るだけで、その時間はこれからもずっと続く気がした。
「機嫌、良さそうだね。何かいいことあった?」
アルビナの赤い大きな相貌がパチパチとして 俺がわざとした知らんぷりを観察している。
「何にも」
「教えて」
「当ててみてよ」
「んー……」
アルビナは考える素振りではなく、不満そうな表情を見せた。
「ナツェル、意地悪よ」
「聞いたらきっとびっくりする」
「そうなの?」
「そうさ」
「教えて!」
アルビナが今度こそ我慢しきれなくなって俺の上にのし掛かってきた。しばらくそうしてじゃれ合っていたが、事を伝えるまでにそんなに意地悪はしなかった。話したかったんだ、俺も。
話す言葉は勢いばかりが乗っていた。普段は隊長と交わす暗号も混ざり、とても彼女には分かりづらい内容だったと思う。それだけ興奮していた。
でも最後にははっきりとこう伝えた。「アルビナの言ってたこと、当たったんだよ」と。
アルビナは目を丸くしていた。それが理解できなかったわけではない。俺と同じく、その事実に驚き、そして何かを感じていたんだと思う。俺はそんなアルビナに、決定的な事実を教えた。
「もしこのまま隊長が奇跡を怖がるなら、人間はこの森に攻めてはこられないよ」
「………」
「ずっとラティエにいられるっていうこと!」
アルビナは諸手を挙げて喜んだりはしなかった。ただ興奮して喜んでいる俺に微笑みかけ、「よかったよ」と静かに言った。
「アルビナはすごいよ」
「ううん、ナツェルがそれを伝えたんだよ。あたしは教えただけ」
「けど人間達は噂してるよ、きっと。ラティエには奇跡を起こす巫女が住んでるんだって」
あれから何度か通信をやり取りした。俺も確信が欲しかったから。しかしイピを通して知ることができる隊長の興味は、白い巫女から逸れる事はなかった。
俺は偽りの報告を続けた。それが人間達にとって効果的であるように、少し誇張して。しかしそれもあまり必要なかったのかもしれない。
ルフェだけが住む村に存在する白い巫女。それだけで、人間の目には異様に映るらしい。
「なんだか、魔女みたいだね。迷いの森に住む悪い魔女」
「でもラティエを守る女神の使いだ」
「それもなんだか恥ずかしい」
「いいんだ、それくらいで」
報告にはそれくらいで書いたのだから。嘘じゃない。
「じゃあナツェルはお付きの神官さん」
「? どんな役?」
「この村だと……エシンさん」
「うえっ……」
俺が顔を歪ませるのを見て、弾けたようにアルビナが笑った。そのせいで、それ以上気は悪くならず、気が付くと一緒に笑っていた。
声は大きかった。けど村までは聞こえない。俺達二人はこの集落の一番遠くにいる。
そう思ったとき、なんだかふと寂しくなった。浮かれた気分はいつの間にか消えていた。
アルビナも両膝を抱き締めて泉の水面を見ていた。虫の声すら騒がしく、二人の声は誰にも聞こえない。
「……みんなに知らせてあげられるといいのにね」
「無理だよ」
人間のスパイがこの村にいる事に変わりはない。
「うん、分かってる。分かってるけど、ナツェルはラティエを守ってくれた」
「……いいんだ、俺は羊飼いのポクスエールだ」
それは、嫌われ者の嘘つき少年が村人の知らない所で人々を救った、小さな小さな童話。
「恰好いいから、いいんだ」
「ならあたしも悪い魔女でもいい」
「そんなの駄目だ。アルビナはラティエの巫女なんだから」
「そんなすごい事、あたしはしてないし、きっとできないよ」
「でも奇跡を起こせる」
アルビナは、小さく首を振った。
「本当に褒めてくれるのは一人でいいの。沢山の人に魔女って呼ばれても」
慢心することなく、静かに……アルビナは呟いた。隣にいる俺にすら、それは聞こえないような声で。そして少しおどけながらこう尋ねる。
「恰好いい?」
物語の英雄を指して俺が言ってた言葉。
「うん」
頷いた。アルビナと二人だけ。その意味だけは理解できたから。
空を見上げる。
地上が暗くなれば、そこは月と星の世界。俺達はいつまでもこの世界で生きていけるんだと、そう思わせる。
村は遠い。この場所は俺達二人だけの世界。
「それでも、いつかみんな分かってくれるといいね」
「……うん」
俺は何もなかったかのように生活を送った。そのおかげで、村は平穏だった。やって来てから、一年にも及ぶ時間が過ぎ去ろうとしていた。
俺専用の狩猟用具を貰い、一緒に仕事をする大人達の名前を全て覚える頃になっても、しかし俺は同い年くらいのルフェ達と仲良くなる事はなかった。重大な秘密を持つからこそ、彼らの相変わらずの楽観ぶりが嫌になるのだ。
だから、夜中に泉の畔で会う、アルビナだけが秘密を共有できる特別な友達だった。
「……ナツェルって、いくつなの?」
「分かんね」
「えー……」
「何だよ。しょうがないだろ。母親の顔だって覚えちゃいないよ。……そういうアルビナはどうなんだよ」
「あたしも分かんない」
「なんだよ、それ」
「あたしも両親は死んじゃってる」
「………でも、村で生まれたんだろ?」
「ちゃんとした歳は誰も憶えてなかったの。多分このくらいって比べられてた。でもきっとナツェルよりはお姉さんだよ」
「そんなわけない!」
「だって、背もあたしの方が大きいから」
「そんなので分かるかよ! これから伸びるんだ!」
「で・も、今はあたしの方がお姉さん♪」
「じゃあじゃあ! 俺が追い越したら、俺のが年上だぞ」
「うん。でも今はあたしの方が……」
「分かったってば!」
きっと似ていたんだろうなと思う。
アルビナと俺。
黒と白。
容姿はこんなにも違うのに似ていると思える。
何故?
それは、予感していたものと一緒に徐々に分かってきた。
「妖精の騎士のお話が好き」
「なんだ、ただの森の英雄じゃんか」
「ナツェルは嫌い?」
「嫌いじゃない。でも一番恰好いい英雄はシーザーだ」
「神殺し? でも、あのお話はなんだか恐い」
「悪い神様が? けど最後にはシーザーに倒されるんだ」
「うん……」
「恐くないよ。シーザーは、何でも斬れる不思議な剣を持っていた。剣があるから、シーザーより強い英雄はいない」
「強くなくてもいいのよ。だから妖精の騎士が好き」
「ふーん」
「……嫌い?」
「嫌いじゃないさ。姫を助ける為にたった一人で森に入ったエーゲルス。恰好良かった」
「この森みたいだね。エーゲルスがナツェルで」
「じゃあさ、アルビナがお姫様?」
「――――――――――――――――――
あたしは、魔女だよ」
そんな事は、言わなかった。
ただ、ふと見せたアルビナの表情が、そんな言葉を言わせたような気がした、それだけのこと。
アルビナは何も言わなかった。だからそのまま、アルビナに甘えた。けど俺は知っていた。アルビナが、どうしてそんな表情をしたのか、どうしてそんな事を考えたのか。
「アルビナ」
白い少女という、そんな名前の子供が、黒肌のルフェの隠れ里で暮らしているというその現実。
昼間の村では決して姿を見ることはない。
代わりに噂が耳に入る。まるで幽霊か何かのように語られる、白い少女の話。凄惨な過去。
両親は村にやってきてからしばらく、その白い娘の存在を村人から隠そうとした。何ヶ月、あるいは何年かそれは続いたが、ついに皆の知るところとなる。後のことを悲観するあまり、両親は半ば心中するように自らの命を絶った。
そうして白い少女だけが生き残った。実の母親に刃を突き立てられながらも、この世に生まれて間もない故の本能が、死に行く母親と引き離しても少女を生かしたのだろう。
果たしてそれは幸いだったのか、不幸だったのか。
人々は少女を奇異の目で噂した。本当の名前の事など忘れてしまった。白い少女―――アルビナと、後ろ指をさした。
彼女の両親が恐れていた通りになった。どれほど悩み、どれほど苦しんでそんな行動を取ったのか、想像するに耐えない想いは、夜にたった一人で泉の月を眺める白い少女の姿を思い浮かべるだけで、痛い程に伝わってくる。
何より不幸だったのは、両親である二人は紛れもなくルフェであったこと。
しかし外からラティエにやってきた時には既に、その子はお胎に宿っていた。誰もが噂した。この子には、きっと憎むべき人間の血が混じっているのだと。悪魔の子だと。
(けどそんなのは違う。アルビナの肌は人間のそれよりはるかに白いのだから)
殺してしまえ。自分を最も愛してくれる筈の両親すら、既にいないのだから。
哀れむ者はいなかった。あるいは、哀れむ余りにそんな結論を下そうとしていたのかもしれない。
そんな中再びアルビナを救ったのは、長老レダの一言だった。
「このような姿で生まれてきたお前は、おそらくアーネアスの生まれ変わりであろう」
アルビナの白に月の姿を重ねる事で、ルフェ達の目を和らげようと言うのだろう。巫女という重要な役割が彼女を守ってくれると。その試みは成功すると同時、アルビナをさらに孤独にさせた。
彼女は今、長老レダの家に住んでいる。午前中は一人本を読み、午後を過ぎると眠り始め、夜に自分だけの時間を過ごす。アルビナはそうした生活を送らざるを得なかった。
人に望まれるのではなく、何の為に生きているのかすら分からない。アルビナは、確かに俺に似ていた。人間の街でルフェが迫害されるのと同じように、アルビナもまたこのラティエで避けられていたのだ。
そのアルビナが俺に言った。ナツェルは許されてここにいるんだと。
なら彼女は許されていないのか? 何処ならば、彼女は許される?
「生まれる場所を間違えたんだよ、あの子は」
ある日エシンがそう言っていたのを聞いた。その日は随分喧嘩した。こんなのはあんまりだと思ったから。
ルフェは人間の街で迫害されていた。人間から逃げ、人間を憎みながら深い森に籠もって、ようやく自分達の楽園を築けたのではなかったのか? どうしてそのルフェが、人間がしてきたのと同じ仕打ちをアルビナにするのか。
何度エシンに殴られても、納得することなどできる筈もなかった。
ここに住むルフェは、やはり堕落しているんだと、俺は思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます