#3 月の森の神話


 この森にルフェがやってきたのは、百年以上も前のこと。

 それ以前は、外の平原に生きる人間達の奴隷として毎日を過ごしていた。そしてその時はまだ例外など無かった。

 ――――ある女が、そんな中に波紋を投げかけた。……彼女はルフェであったのかもしれないが、ひょっとしたらルフェの境遇を憂えた人間であったのかもしれない。そしておそらく、何の意図も悪気もなく、ただ酷使されているルフェの小さな命を助けようとしただけだったのだろう。

 泣き続ける子供を励ますために、彼女はある嘘を付いた。

「今を耐えれば、森におわす女神様がきっと助けて下さる」

 ルフェは神など信じない。それは自分達のあまりにか細い一生を“運命”という枠に収めてしまいたくはないからだ。

 神の存在を否定することがルフェにとっての小さな希望の蝋燭であって、彼らはそこに命の火を灯して、それが消えないように、消えないようにと生き続けてきたのだ。

 だが、その時は何かが違った。ルフェ達はその女の話を少しも疑わず、噂はまるで風が吹き抜けるかのごとく国中のルフェ達に広まっていった。その風により、各地で燻っていた小さな火は大きく、やがて国を焼くまでに大きくなった。

 一斉蜂起。国に暮らすルフェ達がこぞってこの迷いの森を目指し、人間の軍隊と戦った。しかし……

 元より勝ち目など無かった。人間は、奴隷であるルフェ達に力を持たせておく筈がなかったのだから。

 武器も無いままルフェは戦い、多くのルフェが死んで、捕まったルフェ達はまた元の枷をはめられた。―――いや、減った他のルフェ達の分、それは重くなっていた筈だ。

 そして、そいつらとは別に生きて森に辿り着いたルフェ達も確かにいた。

 森の女神を崇め平穏に暮らすこの村のルフェ達は、つまり森の女神に救われ、守られてきた者達でもある。信仰を否定してきた彼らに信仰が芽生えたとして、何の不思議があるだろう。

 女神の姿に月を重ね、人々はアーネアスと呼び、自分達を守ってくれるこの闇夜森を女神にちなんで“月の森”と呼び、彼らが暮らすこの村を月夜に咲く花の名前……ラティエと名付けた。

 それだけでこの村のルフェ達がいかに呑気に暮らしてきたかが知れた。

 迷いの森の奥で安穏と暮らす同族が憎いと思った事は何度もある。けどどれだけ憎くても、裏切りはもう沢山だ。

 苛立ちが募る。俺は何をすればいい?

 村は小さい。小さなスパイが心を揺らしたところで、彼らは人間には勝てない。

 どちらにしろ待っているのは破滅……それをもたらすのが人間かルフェか、その違いだけしかない。

 ……アーネアス。

 昨日、あの白い少女が言った女神とは、その月の女神の事。女神が、俺を許すと言った。

 俺は家の窓から月を見上げた。それはまだ丸く、明るく、村を照らしている。

 月光は優しい。それを仰ぎ崇めるラティエのルフェ達と同じ。柔らかく、そして温かい。

 ふと白い姿が目に入った。泉の畔……昨夜もやってきたその場所に、真っ白い少女の姿があった。

 俺もまた外へ出た。勿論、その白い少女と話す為だ。何を?とか何故?とか、そんなものは分からない。

 昨日話して記憶に焼き付いた真っ白い少女の姿は、何故だか俺を誘っているように輝いて見えたのだ。

「こんばんは」

 静かな笑顔を浮かべて、少女は話しかけてきた。

 寝間着ではない、しかし村の女の仕事着でもない、黒い長裾の一枚着と充て布でその白い姿をくるむ……村の誰とも違う姿。この季節、夜である事を除いてもまだ暑そうに思える。

 対して俺は寝間着のまま。……しかし常識で考えるなら俺の恰好が自然だ。時間は夜。村の誰もが既に眠りに就いている。

 ……彼女だけが、村の誰とも違っていた。

「聞いたよ。昼間は大活躍だったって。狼からラティエを守ってくれたんだね」

「そんなんじゃあ……」

 心にあったのは、それだけじゃない。けど……

「いいんだよ。そうなったんだもの。みんな驚いてた」

 ……違う。あれは疑い始めていたんだ。

「……腕の包帯、その時の?」

「……うん」

「まだ痛い?」

「平気だ。これくらい」

「強いんだ、ナッツは」

「ナッツじゃない! ナッツなんて言うなよ!」

 その名前が聞こえた途端、俺は少女の台詞など聞きもせずにそう怒鳴っていた。突然大声で叫ばれて、少女も驚いて尻餅をついてしまった。

 ばつが悪そうに必死に何かを考えている少女。……俺はそれから目を逸らした。

「“ナッツ”じゃない。それ、俺の名前じゃない」

「……みんなそう呼んでるよ?」

「違うよ! みんな名前なんて覚えてくれないんだ。だからいつの間にか“ナッツ”って……」

 昨日の今日でこの有様だ。人間の中でもそうだった。

「そっか……ごめんなさい」

 少女はお尻を払いながら立ち上がって、俺の手を握った。

「じゃあ本当の名前を教えて」

「……………」

 もう名前なんかどうでもいいんだ。特にコイツには教えてやるもんかと俺は黙っていた。

「教えてくれなきゃ勝手に名前つけちゃうよ? 君は狼をやっつけたから狼の嫌いな……」

「ナツェルだよ!」

 ……堪えられずに叫んでしまった。

 嫌な予感がした。“狼の嫌いな”何かが、まともな名前に思えなかった。

 しまったという表情の俺とは別に、少女の方は満面の笑みを浮かべる。ひょっとしたら、謀られたのかもしれない。

「ナツェル、ナツェルだね? うん、憶えた。もう絶対に間違えないよ」

 それはナッツよりも少しだけ複雑な発音の名前。誰にも触れられなかったその名を、よりにもよってこの少女に呼ばれることに、なんだか不快な気分になる。

「卑怯だ! 俺だってお前の名前知らないぞ!」

「アルビナ」

 俺の時とは違い、少女はあっさりと……その短い名前を覚えられないくらいにあっさりと、俺に教えてしまった。

「みんなそう呼んでる」

 そして俺の手を放しながら、小さな声でそう付け足した。

 この白い少女の名前、“アルビナ”といった。それは古い童謡に“白い少女”という意味で使われた言葉。

「アルビナ?」

「そう! ひどい名前よ! もっと可愛いのが良かった。ラトスとか、ロサとか、リィリーンとか…」

 上がってくる名前全てが花の名前だった。アルビナは花が好きなのかもしれない。

「リーチェとか、リモーとか、フェルンとか、レーネとか……」

 今度は食べ物の名前になった。食べることも好きなのか、それともただ単に好物なだけか。

「シェーナとか、レンシアとか、ルルディとか、シレノラとか……」

 …………しばらく考えたが、今度のは統一性は見い出せなかった。きっと身近にいる女の名前なのだろう。

「……とか、……とか……、……そう、他の子はみんな素敵な名前なのに! もー!」

 やがて思い浮かばなくなったらしい。最後にそう締めくくった。

 露わにしたイライラは、彼女にアルビナと名前をつけた誰かにぶつけられていた。しかし誰なのかは知らない。……多分アルビナ本人も知らないのだろう。

「……嫌、なのか?」

 嫌なら、もうそんな風には呼ばない。思ったから、そう聞いてみた。

「ううん。だってみんなそう呼んでる」

 しかし彼女は首を振った。そして無邪気な微笑みを俺に向けた。「それでいいの」と、その表情は言っていた。でもそれを信じる気にはなれなかった。『みんなそう呼んでるから』と、それは俺が認めなかった理由だ。

 『アルビナ』とこの村の誰もが呼ぶ。肌の黒いルフェ達に、“白い少女”と呼ばれる。それは確かに彼女だけを指す言葉なのだろうけど、

 ……それはなんだかとても残酷なことのような気がした。

「だからナツェルも、私の事はアルビナって呼んで。……村のみんなが忘れても、私は君のことナツェルって呼ぶよ」

 頷くと少女はまた微笑み、泉の畔に座った。そして俺にも隣に座るようにと促した。俺は素直に、……断る理由を見つけられなくて、そのとおりにした。

 掌は膝の上。まだアルビナが握った時の温もりが残っている。それを草の冷たさで冷ましたくはない。……なんだか、気恥ずかしかった。

「ねぇ、聞かせて。ここに来る前はどんな事をしていたの?」

 でもアルビナのその言葉がうわついていた俺の心を引き戻してしまった。

「なんだっていいだろ」

「どんなことだっていいの。きっと楽しいこと」

 楽しいわけがない。

「何をしていたの? どんな事をするのが好きだった?」

 それは思い出したくもないこと。俺が闇夜森を抜けてラティエにやってきた、その理由に繋がる。

「何処に住んでたの? それはどんな所?」

 森の外。人間の住む平原と石の街。

 そもそもアルビナは、昨夜のやりとりで知っているのではないのか?

「家族はいた? 友達は……」

 俺が表情を曇らすのを見て、アルビナもようやく、自分がどれだけ残酷な事を尋ねていたのかが分かったようだった。

 質問を繰り返すその口調が次第にしぼんでいった。その大輪の花のような表情と共に。

「……人間と暮らしてたって、本当……?」

「うん」

 素直に頷いている自分がいた。泣き出したい想い出が、アルビナに甘えようとしているのが自分でも分かった。

「……兵隊さん?」

「そんなところだ」

 本当は違う。でも詳しく話したくはなかった。嫌われるような気がしたからだ。

 人を殺した事もある。それも同族のルフェを。この手ではなかったとしても、俺のせいで死んだルフェを数えるなら、憶えている名前だけでも両手にも余る。誰にも救う事の出来ない罪。

 そして、同じ事をこのラティエでもやろうとしている。何の危機感も対抗策も持たないこの村のルフェは、きっと為す術もなく殺されてしまうのだろう。

「じゃあきっと、アーネアス様はナツェルを助けるために、この森に迎えたんだよ」

「そんなわけない」

 興味すら示さなかった俺に対し、アルビナは首を振った。

「アーネアス様の伝説とおんなじ。その昔、人間に苛められていたルフェ達をこの森に導いたの」

「知ってるよ」

 知っている。俺はわざと語気を荒くして遮るように告げた。アルビナはキョトンとしている。

「殺されたルフェの方が多かった。森を越えられなかったやつらもいた」

「…………」

「でも、そいつらだってまだ幸せな方さ。捕まったルフェはもっと酷かったんだ。ずっとお前達……森に逃げたルフェを憎んで生きてきた」

 俺を迎えてくれた温かさ、裕福さ。

 しかしそれは俺達を捨てて手に入れたものなんだと、

 決して混じらないものなのだと思った。

 勿論アルビナとも……彼女の手は、温かかった。

「それもおんなじ」

 ところが、アルビナはその話を聞いても穏やかでいた。俺を見る目は、微笑んですらいた。

 手を前の方で組みながら、彼女は続けた。

「森にたどり着いたみんなも、ついには疲れて歩けなくなった。ここまで導いた女神様を憎んだりもした。けど、ただ一人だけが、歩き続けた。……歩き続ける事ができた」

 知らない話。

 当然だ。これは、ラティエに伝わる伝説。逃げ切ったルフェの物語なのだから。

「その人は、最初に女神の声を聞いた女の人」


 ――――今を耐えれば、森におわす女神様が、きっと助けて下さる


「誰もが動けない、声すらも出せない。なのにその人だけが歩き続ける事ができた。それだけじゃなくて、一緒に歩いてきた仲間達をずっと励まし続けた」

 知っている。嘘つきと呼ばれた女。その嘘を皆が信じたが為に、沢山のルフェが死んだ。

 神などいない。ルフェならばそれを知っている筈なのに、それでも女は嘘をつき続けた。

「嘘つきだって、みんなが女を指さした。でも女は『いる』と言い続けた。森の奥、もう引き返せない。だからそのルフェ達の為に、この森に神がいるってことを見せて上げた」

「……そんなのどうやってさ」

 すると彼女は立ち上がった。踊るようにくるりと回ると、広げた両の腕を空へ掲げた。大きな身振りに袖やスカートの裾もたなびいた。

 空にはまだ明るい十六夜の月。白い少女は、その光を乞うように手を伸ばしていた。指先が何かを掴むように握りしめられると、やがてその握った何かを自分のお腹へと、抱きしめた……

 ……いや、突き刺したのだ。自ら命を絶つように。

 祭りや何か特別な儀式の時にする踊りの振り付けそのままなのだろう。それは確かに短刀を自らの腹へと突き立てる、その行為を真似ていた。

 振り下ろす瞬間には息が詰まった。その行為の恐ろしさに胸が潰れそうになった。……しかしそれを為した彼女から血の赤が吹き出ることはない。赤はアルビナの瞳にあるだけ。少女の肌は白いまま。手には刃すら握られてはいない。それをもう一度確かめてようやく、自分の背中にあった熱かったものがするりと滑り落ちていったような気がした。

 ……彼女はまだそこにいる。優しく、しかし寂しく微笑んでいる。

「―――やがて森が晴れた―――」

 彼女の口調は、まるで唄を読むように流暢なものだった。

「―――誰もその場を動けなかった筈なのに、誰もがその出来事すら分からず見ているだけだったのに―――」

 一瞬、月が明るくなった気がした。白い少女がじっと俺を見て語りかけている。

 昨日の光景に似ていた。

「―――風が吹いて森が開けた。見れば泉が沸き上がっていた。泉には白い月。女神が、この水面に降りた―――」

 白い、女神。赤い瞳の白い女神様が、この泉に降り立っていて……

 その姿が、少なからず見えたような気がして、俺は言葉を失った。

「―――?」

 ぼおとしていた俺の顔を、いつの間にかアルビナが覗き込んでいた。

 それに気が付いて、……長く彼女に自分の顔を見られていたのかと思って、俺は顔を背けた。

「で、伝説じゃないか、そんなの!」

「でもナツェルはここにやって来た。あたしとこうしてお話もしてる」

「………」

「ラティエに居ていいんだよ。きっとここがナツェルの居場所なの」

「俺は神なんか信じない」

「どうして?」

「だって不自然だ。神様は、悪い奴を懲らしめる事も、困っている人を助ける事もできないんだ、きっと」

 アルビナの瞳の赤が小さくなったような気がした。

「うん」

 やがて彼女は俺の言葉にそう小さく返事を返した。

「神様を当てにしちゃいけない。それでも、きっと悪いことばかりじゃないよ」

「……?」

「月の森とラティエは、奇跡に守られてる。変な話だと思うかもしれないけど、

 それはあたしとナツェルが今こうしてここにいることもそうなんだよ。

 奇跡は見えないことばかりがいくつもあって、きっとこれはその一つ」

「どうしてそんな事が言えるんだよ」

「あたしは巫女なんだよ。だから、アーネアス様の奇跡を起こせる」

 微笑みながら、彼女は言った。

 奇跡。御伽噺にあるような。

 けど、そんなのはただの伝説。偶然ですら起こりえない、空想の出来事だ。

「……人間はやってくるんだ。」

 現実に。この森はきっと焼かれる。

「大丈夫だよ。……ナツェルはそればっかり」

「でも! 俺はその為に来たんだぞ!? 村の事調べる為に」

 ついに喋った。任務の事……この村にやってきた理由。

 アルビナは目を丸くしていた。

 ……もう駄目だ。きっと嫌われる。アルビナだけじゃなくて、ラティエのみんなにも。

 俺は自分の膝に顔を埋めた。しばらく何の声も聞こえなかった。耳に入らなかった。

 しかしそんな俺の手をアルビナが握った。顔を上げた俺に微笑みかけ、こう言った。

「証明、してみせよっか」

「?」

「奇跡を起こせるって」

 “証明”という言葉に、俺は慌てた。さっき月の森にやってきたルフェの話を聞いていたからだ。それをしようとして、嘘つきの女は、自らの腹に剣を突き立てたのではなかったか? さっきアルビナが胸に抱いた見えない刃を思い出す。

「アルビナ!」

「見てて」

 止めるのも聞かず、アルビナはまた昨夜のように石の上に昇った。両腕を真横に広げると、目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。

 閉じた瞳が再び開かれるとき、空気が澄み切っていくのを感じた。

「風」

 と、アルビナは最初に小さく呟いた。

「そう、風……あなたがやって来るよりももっと前に吹き抜けた風が、平原に届いた筈です。それこそ森を守る月より吹き降ろす守護の風」

 今のアルビナはいつもの彼女ではなく、完全に月神アーネアスの巫女であった。まるで女神の言葉を代弁するように、彼女は月を見上げ言葉を紡ぐ。

「風は天へ昇る魚となり、奪われた木々と同じ数だけの贄を食い尽くします。

 立ち去りなさい、人間よ。月の森は、彼の罪人に決してその門を開くことはありません」

 風が吹いたような気がした。月を映した水面が、ほんの微かな音を立ててさざめいた。水面の月が揺らめく。

 アルビナはもう一度息を吸い込むと、また元の笑顔に戻った。

「そう言えばいいよ、人間に。月の森は奇跡に守られているって。だから、攻めたりしたら大変なことになるんだよって」

 彼女が何を言おうとしているのかは分かった。

 けど、その様子を見た後はしばらく呆然とするしかなかった。

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