2,舟を仰ぐ ― ナツェル

#2 ラティエの集落


 俺はルフェで、ルフェだからこそ、あの森を抜けられて、そしてここに居る。

 それは間違いのないこと。けどそれが女神に許された事になるのかと考えれば、そんな筈はない。

 冷静に考えればそれは分かる。

 けど少なくとも昨夜のあの少女との出会いが夢ではなかったのなら、俺を救ったのは女神ではなく少女の方。

 それは予感とか信仰とか、そんなのではなく、きっと必然だった。




 村のもてなしは温かかった。

「精が付くぞ」

 と言われて出されたのはスープ。野草ばかりが入ったそのスープは、何だか青臭くて好きになれそうにはなかったが、村の人達は何故かとても自慢げにそれを差し出してくれた。聞いてみると、火を起こしてもいい日は決まっていて、その日が来るまでは火を使わずに生活するのだそうだ。森で暮らすからこその慣習であるらしいが、しばらく冷たい食べ物ばかりが続くのかと思うと気が滅入った。それでも……

「それから、……今日からここがお前の家になる。」

 今日からはその集落で生活していく事になる。

 きっと村のルフェ達は、昨日やってきたばかりの俺に対しても、息苦しくなる程の温かさを与えようとするのだろう。

「私達には子供がいない。だからナッツが来て、明るくなってくれればと思う」

「――――」

 親しげに、彼らは俺を“ナッツ”と呼ぶ。

 例え俺が女神に許されたのだとしても、きっと俺はこの村にも、そしてこの夫婦にも馴染むことはできないだろう。

 世話になるその人は、エシンという中年を少し過ぎたぐらいの男だった。夫婦で暮らしてるが子供がいないと言っていた、その理由は分からなかったけど、聞いてみようとは思わなかった。

 ……ただ、優しそうな人だなと、そう思った。

 昨日会ったばかりの俺に食事を与え、服を与え、そして家を与え、……彼らはまだこれからも善意を、温かいものをくれるのだろう。そんな人達を、俺は過去何度も出会ってきた。

 しかし長くその関係が続いたことはない。皆が奇異の視線を隠し、上辺を偽り、腫れ物に触るようにそっと俺に近づいてくる。そんな生活に堪えきれなくなる頃、俺はそこにはいられなくなる。記憶に在る内の唯一の肉親である母親ですらそうだった。その人は半ば自滅するように、俺がこの世に生まれ落ちたことを呪いながら死んでいった。顔も思い出せないそいつの、その死に方だけは忘れることができなかった。

 一人でいなければならないんだと思った。一人で居ることに、誰にも愛されない事に慣れなければいけないのだと思った。人間の中で暮らすルフェでさえ、同じルフェから奪っていく。そうすれば人間を襲うよりも法の目には触れ難いから、……そんな酷い言い訳を常識として生き延びていかなければいけない。

 人間の作ったシステムに取り入るには、さらに血反吐を吐き出すような苦しみがあった。同族を何度も殺した。後ろ指を指されもした。それだけ苦しんでもねぎらいはない。それどころか、そうしてまで取り入ろうと尽くしてきたという道程にさえ、打ちのめされ続けてきた。まるでルフェという種族は、こうして人間に踏みつけられる為に生まれてきたのだと言うように。それでも、生きてきた。

 しかしここで暮らすルフェ達は違う。暮らすうちにそんな事すら忘れてしまえるのかと呆れもする。

「親が愛するように、私達はナッツを愛そう。そして、ナッツに愛されるような親になろう」

 ……エシンはきっと優しい。そう思うからこそ、近づき過ぎてはいけないんだと思った。

 彼らは俺をナッツと呼ぶ、そうやって好きに呼ばせておけばいいんだと思った。



 エシンは村の中を案内してくれた。

 朝食後の刻……森に囲まれたこの村の太陽がようやく顔を覗かせる頃になって、男達は籠と弓矢の準備を、女達は洗い物を持って外へ出かける。役割が違うであろう男と女が、一時でも離れる事を惜しんでいつまでも言葉を交わし合う、そんな……鬱陶しく馬鹿馬鹿しい時間。案内してくれるはずのエシンですら妻といつまでも談笑していた。呆れながら俺はぐるりと村を見回した。

 見れば見るほどに小さく、そして無防備な村だった。一夜経っても狩猟道具以外の武器を見かけることはない。目に付くのは木や土から作った生活の道具と、鮮やかな織物ばかり。牧歌的とも言える程にのどかな村。彼らがいつからこの森に住んでいるかは知らないが、この気怠い朝は何年何十年と繰り返してきたのだろう。

 俺は無意識に黒肌のルフェ達の中に、昨夜のあの白い少女の姿を探していた。しかし人間の姿は勿論、それよりも更に異様なその白色は俺の目に引っかかることはなかった。

 当然だ。ここはルフェの村なのだから。

「……そりゃ人間は憎い」

 何と呟いたのかは忘れてしまったが、昨日エシンがこんな風に答えた。

「しかしこの森にいる限りは大丈夫だ。人間の感覚じゃあ森は越えられやしない」

 ルフェは妖精族の末裔。その妖精族から見捨てられたのだとしても、ルフェには人間に無い感覚がある。

 木々をすり抜ける空気の流れや、枝葉の間から零れる日の光や、土の温かさや起伏、そして木肌の色など、殊更その辺りの見分ける幅が人間よりも広い。その感覚が木々ですら悪意を持つと言われる闇夜森においても道を見つけることができる。

 人間にはその感覚が無い。だから人間にこの闇夜森は越えられない。それは正しい。

 けど人間は人間だけの生き物じゃない。彼らは何だって利用する……そして俺のような奴が、密かに森を越えてくる……

 そして、森を越えられるのは何もルフェだけではない。

 何度も立ち入る内に道のクセを覚えてしまう輩と、それにルフェに匹敵するだけの感性を持ち合わせている野生の動物も。

「うわっ!」

 村の端から騒ぎの手が上がった。目をやれば、女が悲鳴と共に逃げまどい、男は逆に悲鳴の中心に集まって行った。

 エシンは逃げる女の一人を捕まえて事情を尋ねた。

「何だ?! 何があった?」

「狼です。黒い大きな狼が何頭か……」

 最後まで聞いていたのかどうか、エシンは外に出してあった棹の一本を拾って駆け出したていた。

「ナッツも、さ、早く!」

 女は俺の手を引こうと手を差し出してきた。男達が集まっている方を気にしながらも、目は俺を見つめ、そして決して逃げようとはしなかった。

 その様子に俺は苛立っていた。

「そっちへ行ったぞ!」

 同時、聞こえてくる男達の注意を促す声。二頭の狼がそれぞれ違う方向に逃げていくのが見えた。男達の声も近づいてくる。

 それを見て、俺もまたその方向に……狼を探して走ろうとしたが、側にいたあの女に容易に腕を掴まれてしまった。

「はなせよ!」

「逃げなきゃ駄目! 狼は、男の人達にまかせておきなさい」

「俺だって男だ!」

「子供も私達と避難するのよ」

「狼くらいなんだってんだよ」

 武器を準備していないから手こずるんだ。

 大人だろうと、こんな少しの危機感もないようなルフェ達に子供扱いされるのは無性に腹立たしかった。それでも体格の差は歴然としていて、俺がどんなに暴れようとも女は俺を抱えて駆け出した。

 しかし……

「おい! 早く避難しろ! そこらにまだいるかもしれないんだぞ!」

「はい!」

 狼を捕まえに行った男の声だけが聞こえる。

 そこに人はいない。避難する女達を誘導していた筈の若者の姿さえ見えない。緊張で張り詰めた男達が狼を探して辺りを駆け回っているだけ。集団を見失った女は返事を返しながらも慌てきっていた。

 自分の背中にその息づかいと心臓の鼓動が激しく聞こえていた。

 避難所だ。分からない筈が無いのに、女はそれすら思い出せずにいる。

「おろせってば! 走れるよ!」

「駄目よ、駄目!」

 女は必死だった。既に最善を見失い、何か別のことで頭がいっぱいなようだ。

 本当に馬鹿だ…!

「逃げろ! そっちへ行った!」

 その時、男の声がその女を振り向かせた。視界一杯に狼が飛び込んできたのはそれから直ぐだった。

 鮮血が見えた。俺じゃない。狼の牙は、正に俺を捕らえて離そうとしない女の腕に突き立てられた。

 声を上げまいとする女の声なき悲鳴。俺は身体を振ったその勢いで女の腕から脱け出し、今も女の腕に噛み付いている狼の腹を蹴飛ばしてやった。

 獣の醜い呻き声。……狼に身体を起こす隙を与えてはいけない。

 俺は隠してあったナイフを抜いてそのまま狼に飛びかかった。

 だが、それは獣の身のこなし。俺よりも圧倒的に速く地を蹴ると、逆に俺の喉に向けてその大きな顎を開いた。

 咄嗟に掲げた利き腕がそれを受け止めたが、鋭い痛みが右腕に食い込む。

 なんて大きな狼だろうか。大柄な大人一人程もある。

 長く生きた。そして何か目的があってここに踏み込んできたようにすら思える。それほどに大きく立派な狼だった。当然その押さえつける力は逃げ遅れた女の腕などと比べるべくもなく、俺がそれを押し返すなんて到底できっこなかった。

 そして、

「……っ!」

 狼は尚も俺の右腕を咥えた顎にいっそうの力をこめ、その手に握ったまま手放せないナイフを首に押しつけるように、頭を押し込んでくる。まるで、この銀色にギラつくその金属板の使い方を知っているかのよう。まるで、この銀色にギラつくその金属板の使い方を知っているかのよう。

 刃の冷たさを感じてか、首元に汗が伝う。

 ……ナイフを放せば抜けられるのは分かっている。しかし今この小さな武器を手放せば、俺は自分の力で狼を仕留める術を完全に失ってしまう。

「ナッツ、今助けてやるぞ!」

「来るなよッ!」

 辺りに集まる別の気配を感じて、俺は狼諸共ここのルフェすらも吹き飛ばすように叫んだ。

 狼も含めこの場の空気が変わったのを感じた。大人達の動揺した声……

「俺が……仕留めてやる……ッ!」

「そんなこと言っている場合か!」

 もう何も聞こえない。狼だけを見た。

 俺は覚悟を決めた。指先でナイフを放り上げ、まだ自由だった左手を伸ばしてなんとかそれを受け取ると、狼が直ぐに離せないように噛まれている右腕を力一杯押しやる。

 牙が腕に深く食い込む。狼の顎の力と俺の腕の力はがっちり咬み合った。絶対に逃がさない。

 俺は持ち替えたナイフを、狼の首深くに思いっきり突き立てた。

 獣の醜い悲鳴。苦しそうに、痛そうにその首をのたうつ。そのたびに俺の腕にも痛みが走る。

 やがて狼は憎々しげに俺を睨み付けたまま、最後までくわえた右腕を離す事なく、そのまま動かなくなった。

 慌てた村のルフェ達が狼の身体を俺から引き剥がした。驚愕とほんの僅かな恐れの作り出した何とも奇妙な静寂を間に置いた、その後の事だ。

「ナッツ……ごめんなさいね。怪我は? まだ痛い?」

 その時、あの女は一番に走り寄ってきて、俺の手を撫でながら「ごめんなさい」と言った。訳が分からなかった。確かに邪魔だったけど、この女が誤るような事じゃない。だが、その理由は直ぐに知れた。この女と大人達が言い争いを始めたのだ。

「何でみんなと避難しなかったんだ」

「あの……気付いたら誰もいなくなっていて、私とナッツだけになってて……」

「いつもの場所だ! 分かっていた筈だろ。駄目なら家に隠れるんでもいい」

「ナッツはそれを知らないでしょう。だから……」

 ……大人達の口論の矛先は直ぐに俺へ向けられた。当然だ。俺が逃げなかったからその女は逃げ遅れたのだから。

「ナッツ、何で一緒に逃げなかったんだ?」

「ナッツのせいじゃないわ。私がもっとしっかりしてればよかったことでしょ?」

 それでも、女は俺と大人達の間に割って入ってきた。

「二人とも怪我をしたんだぞ!」

「うっさいよっ! 狼、仕留めたじゃないか!」

 俺は我慢できずに叫んだ。この女の為じゃない。子供扱いされているような気がして腹が立ったんだ。俺が仕留めたんだって、コイツらは分かってない。

 俺はガキでいるつもりなんかこれっぽっちもない。甘えようだなんて思わないし、コイツらにガキ扱いされるのはもっと嫌だ。

 こんな、危機感の欠片もないようなルフェ達に……

「この馬鹿め!」

 後ろから頭を殴られた。それはエシンだった。

「お前が逃げなかったせいで、リュシケは怪我をしたんだぞ!」

 彼はそのまま俺の左腕を引っぱって、自分の家へと引き返していった。

「俺だって怪我したぞ!」

「だから逃げろって言ってるんだ」

「なんだよ! 狼くらい」

「狼じゃ済まない時だってある。外から来たなら、ガキの頭だって分かるだろ」

「―――――!」

 ひたすらに悔しかった。エシンは、俺が浅はかだと指摘したのだ。

 本当にその時が来てみろ。村の何処かに隠れたくらいじゃ済まないんだ。……そう言ってやりたかったのに、言えなかった。

 村のルフェ達の視線は既に冷たい。鬼子を見るような視線がいくつか俺に向けられている。

 目立ちすぎたんだということ。やはり、俺はこの村ではただの子供で、だからこそ異端でしかないのだろう。

「リュシケ嬢ちゃんの判断は正解だ。昨日来たばかりのお前を忘れて逃げ出せるものか」

「みんなさっさと逃げてたじゃんか……」

「だからリュシケが残ったんだろうが。お前が素直に逃げれば、あんな怪我をすることもなかったんだぞ」

「―――――っ!」

 言い返せない。

「……後で謝りに行くぞ」

 誰もが俺と合うと目を逸らす。奇異の視線だけはずっと遠くから。

 そんな中、エシンだけが俺の腕を引いて歩いていた。

 彼は既に俺の何かでいるつもりなのだろう。

「でもなんでまた狼なんかが?」

「今までこんな事一度も無かったのに」

「ま、これっきりだ。きっと」

 そんなやり取りだけ、大人達の間から聞こえてきた。

 まるで俺を襲いに来たようだと一瞬考えたが、馬鹿馬鹿しくてそれ以上は俺も偶然で片付けることにした。

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