狼と月

七洸軍

狼と月

1,嘘月 ― プロローグ

#1

  “ルフェ”というのはつまり、異端の種族。

  妖精を起源に持ちながら妖精に見捨てられ、

  人間と同じ地上に暮らしながら人間にも忌み嫌われる。

  妖精ではなく、しかし人間でもない者達。

  彼らがこの世界で生き延びるためには、人間に隷属するか、

  あるいは、人間すら足を踏み入れぬ深い森でひっそりと隠れ住むしかなかった。




 その広大な深き森を、人間達は“闇夜森”と呼んだ。

 木々の枝と葉が空を奪い合い、僅かな光すらも土まで届くことはない。足を踏み入れる者は、そこに巣くう獣だけではなく鬱蒼と茂る木々までもが、じっとりとした悪意を感じるという。

 そんな恐ろしい森を、おぼつかない足取りを引きずりながら、まだ幼い少年が通り抜けていった。人間ではない。長く尖った耳と、黒い肌黒い髪……合間に見える瞳だけは赤く、暗く、おおよそ正気を疑う程に虚ろ――――――この森の悪意に充てられてしまったのではない。ここに来た時にはとっくに彼の表情は沈んでいて、そして壊れかけていた。

 少年は二つの罪を抱えていた。犯してしまった罪と、これから犯す罪。

 何度も泣き、躊躇いながらも、少年は一歩、また一歩……

 どれほど森の暗闇が恐ろしくても、進むよりほかなかった。むしろ、己の罪を思えば、死を連想させる恐怖には親しみすら感じていた。

 自分など死んでしまえばいいと思っていた。途中で行き倒れて死んでしまえば、これから犯す罪だけでも拭えた筈だった。

 しかし、ずっとそう思っていたのに、少年にはそれができなかった。

 腹が空いては朽ちた木の実に手を伸ばし、喉が渇いては泥水をすする。疲れて倒れた時には眠り、目を醒ましては歩き始める。そんな、生き物としての当然の本能が、この年端も行かぬ少年の死を許さなかった。自ら死ぬことのできない少年は、この闇の奥が死に代わるだけの何かに通じているのだと信じて歩き続けるしかなかった。

 やがて少年は倒れた。森の暗闇が少年の心に届かなくとも、元からあった暗闇は、少年の意識を相当に蝕んでいた。

 孤独。たった一人、誰もいない。そう思えば、木の実や水も遠くに感じられた。視界は魚眼レンズのようにぐにゃりと歪み、やがて少年にとっての一歩も遠く……いつも置いている視線の高さすらも、遠く……そして、光の当たらない森の土だけが冷たく心地よい。

 これで楽になれるだろうか? そうだ……例え朝が来ても、今度こそ目を開くまい……そう思って閉じた意識は、

 だがしかし、眩しい光と久しく忘れていた人の手の温もり、そして沢山の人達の必死の声に、再びこの世に呼び戻された。

「おい! 大丈夫か!」

 うっすらと目を開けた。見えたのは、人間ではない。黒い肌に黒い髪、そして赤い瞳……

 それは、自分と同じルフェの容貌。

 ああ、ついに、辿り着いてしまった。ここはルフェ達の隠れ里……

「生きろ! まだ死んじゃいけない!」


(……酷い事を言うんだな……)

 その言葉が少年を苦しめ、そして彼らルフェ達を殺していくんだ。

 彼らが優しかったとしても、彼の罪を深くするばかりで決してすすぐことはないのだ。



 少年が目指していた集落は、森の中に突然現れたような大きな泉のその傍らに、まるで命の湧き水と共生するように立ち並んでいた。大木の中に作られた彼らの家が建ち並ぶ……梯子が掛かり、枝の上にある虚へと続く……あの中は住居になっていて、つまりルフェ達はそこに住んでいる。それは家なのである。そんな生活感の染みつく木々だから、ここにはそんな童話のような大木がいくつもある。どれも“長老”と呼べそうな巨木ばかり。しかしどの木も森に生えているたちの悪いのとは違い、優しさと寛容さを漂わせている。

 あんなにも暗かった森に囲まれているのに、この場所だけは明るい。闇夜森とまで言われた深い森の中で、ここだけは空が開けていて、差し込む月明かりは泉に降り注ぎ、その泉がさらに畔を囲む村全てを優しく抱き込むように淡い煌めきを放っている。

 あの森とはまるで違う。

 草と葉の匂い、建物の足元に片付けてある桶や籠、虫の声と水面の揺らめく細音にまで、

 人の暮らす温かさが染みていた。ここはルフェ達がひっそりと生きる村。

 ついに辿り着いてしまった。これから犯す罪を、誰かが見抜く事もないまま……

 それでも、生きろと言われた。少年はつい昨日言われたその声を、もう一度思い出していた。

 身体中が痛い。歩きづめで固くなった太ももはまだ疼いている。寝台から起きあがるのだけでも辛いのに、その足が、再び歩こうとしていた。遠くへは行けない。それでもいい。外の冷たい空気を身体が欲しがっている。

 生活感の在る場所は嫌だ。命のしっかりと息づく匂いが、まるで自分が生きるために犯してきた罪の、その亡霊になって自分を責め立てているような気がして、苦しくなった。「死んじゃいけない」という、そんな声にすらいたたまれなくなった。

 でも何処へ行けばいい?

 身体がこれでは遠くへは行けない。だから、明るい方へ……

 光が見えていた。闇夜森とも隠れ里とも違う、異世界から零れてくるような、優しい光が何処からか溢れ出していた。

 少年は力無いまま、その光の方へ歩き、そしていつの間にか自分を取り巻いていた冷たさに気付いて、顔を上げた。

 空に満ち足りた月。そして足元に広がる水面にも双子のような満月が揺らめいていた。

 森と空。沢山の星も。泉は映していた。

 そして、くしゃくしゃになった自分の顔も。

 それは醜かった。しかし決して暗い森を歩き続けた疲労のせいではない。

 赤い瞳と黒い肌。髪はさらに深い黒、それによく見ればもっと違う色も混じっている。耳の先は尖り、一目見てその輪郭が異様に映る程に長い。

 隠しようもない程にルフェの顔。少年はこの顔が何よりも大嫌いだった。この顔が無かったなら、もっと楽に生きられた筈なのだ。


「……ここまで来たなら、もう人間に怯える事もない」


 自分と同じ顔をした村の男が、そう言っていた。

 少年は確かに人間に怯えながら、その身には大きすぎる罪を背負い、死ぬことも出来ず、新たな罪にこの手を濡らす為だけに、ここまでやって来てしまった。

 彼を見つけた大人達は、誰も気付きはしなかった。自分達と同じルフェで、しかも子供というだけで疑いもしなかった。

 偽り無く向けられる眼差し。それは、少年に罪の感触を思い出させる。

「ああ………っ!」

 燃える集落の熱と、つんざくような悲鳴、肩を掴まれた時の痛みと「裏切り者」と叫ぶ男の形相と、殺めた人々の血が手や顔にまとわりついたときの言い知れぬ心地悪さと、匂い……木と草とそして生き物が焼ける匂いまで。

 その全てをこの小さな身体が覚えている……

「ごめんなさい……仕方なかったんだ……死にたくない……死にたくなかった」

 そうして犯した罪。少年が死ねないなら、これからまた同じ事が起きる。……いや、起きるのではなく、少年自身が、この村に呼び込むのだ。

「‥…許して…許して…‥」

 頬を、涙が伝い落ちた。

 罪に抗えない自分、弱虫と言われ続けてきた自分。自らの死すらも選択することもできないのに、この場所に立っている。無力だった。

 この手は、とめどなく流れる涙を拭うほかは短剣を握るだけ。同族殺しはできても、その運命に抗うだけの力はない。

「泣いてる…の?」

 女の子の声が、直ぐ近くから聞こえた。

 少年は直ぐさま身を翻した。大腿に隠してあった短剣を引き抜き、そこにいる声の主へと切っ先を向けた。

 零れた涙が土に落ちる、その一瞬で。

「っ!」

 息を呑み込む声が、少年の動作よりもはっきりと聞こえた。

 同時、目に飛び込んでくる柔らかな光。

 しかし、それは光ではなく、“白”だった。

 少年は我が目を疑った。

 ここは黒肌のルフェの村だった筈なのに、目の前に現れたその少女の有り様は白……何処までも白かった。

 色の抜けた、と言うにも難しい。月明かりの下においてその少女の肌は、天高く昇った満月が泉を介して地上に降りてきたかのように、白く輝いて見えた。

 ルフェではないのか? 人間を憎み、森に隠れ住むルフェ達の集落には、あまりにも似つかわしくない姿。いや、宝石のように赤く輝く二つの瞳と、長く尖った耳の輪郭だけ、……あまりにも頼りないその箇所だけが、少女が人間よりもこの少年や村のルフェ達の方に近しい種族である事を訴えている。

 その瞼が揺らいだ。少年が向けてきた短剣に戸惑っているようだった。少女は息を呑み込んだ。

「今日やってきた子供って君だね。……大丈夫。この村は大丈夫。もうそんなのを持ってなくたって……」

「うっ……うるさい……!」

 震えを我慢する声を、震えを我慢しきれない声がかき消した。

 少年は短剣を向けたまま器用に持ち直すと、空いた手で目を拭った。

「お前、なんだ……! なんでお前みたいなのがここにいるんだよ……!」

「どうして……って……」

「ルフェしか住んでない筈だろ! ルフェは、人間を嫌って森に住んでるんだって」

「――――」

 少女は、まるで言葉を無くしたように口を引き結んだ。それに耐えかねた少年が、再び短剣を動かそうとしたその時になって、少女は再び顔を上げた。

「……この色が、嫌い?」

「嫌いだったら、どうなんだよ。……それは、冷酷な人間の色だ。ルフェを捨てた、薄情な妖精の色だ」

 自分の事、勘づかれたかも知れない。少年は少女が零した試すようなその言葉に、用意してきたルフェとしての台詞を返した。

 見つかりたくなんかない。裏切り者だと、知られたくなんかない。……まだ死にたくなんかない……

「ひどい……」

 少女が、その言葉を三度繰り返す。一瞬閉じた瞳の奥、引き結んだ唇。少女の動きの一つ一つに、少年は銀光をかざす。

「動くな……動くなよ。顔を上げろよ。自分の表情を、隠すんじゃない―――」

 魔法使いとも限らない。ならば、一瞬の表情、口元の動きを見逃してはいけない。

 殺されるものか。死にたくない。今はコイツだけ……コイツだけなんだ。まだ……ミスを犯してなんかいない。

 でも、目の前のコイツはどうすればいい? 勘づかれたかも知れない。

 殺す?

 また、殺すのか?

 邪魔だから? 生きるために?

 仕方ないじゃないか。生きようとして悪いのか?

 ……もうたくさんだ。

 じゃあやらないのか? ここなら、誰の目にも付かない。俺がやった事も、分かりはしないというのに?

 少年は、自分の指がどうにかなるほどにナイフの柄を強く握った。

「おい……聞こえなかったのか、女。顔を上げろ」

 その瞬間を見逃すまいと思った。生き物が自ら視界を動かす。何の訓練も受けていないヤツにとって、もっとも感覚器の死角が生まれやすいタイミング。

 少女が顔を上げる。少年がナイフを突き出す。しかし……

「……!」

 ギリギリで、少年はその手を止めた。

 顔を上げた少女が、真っ直ぐな目を向けて微笑んでいたから。

 刃が迫っていた事を、……少年が自分を殺そうとしてたと解ってもなお歪ませようとはしない。

 銀光がそのまま目に突き刺さっていたとしても悲鳴一つ上げはしなかっただろうと、思わせるほどの。

「どうしてそんなに震えてるの? ここに辿り着いたなら、もう怖い事なんか無いのに」

「うるさい……」

「君も、ひどい恰好してる。人間に苛められて、怪我して、そうしてこの森に来たんでしょ?」

 血の滲む包帯と青痣だらけの四肢を指して少女が言う。

 少年はそれを黙らせる事ができなかった。早口でも大声でもないのに、……怖くもなかったのに。

「人間はひどい。でももう大丈夫だよ。ね? それ、降ろして」

「するわけないだろ!」

 ようやく声が出たが、突然の大声に少女が少し驚いただけだ。直ぐに困った顔を向けてくる。

「……お前、降ろした隙に何かする気だろ」

「あたしは何もしないよ。ここには人間もいない。だから君を傷つける人は誰もいない。いないよ。」

 言葉が多過ぎると少年は思った。どうして、こうして刃を向けられているのに、こんなにも喋れるんだろう、この少女は。

 おかしなやつだ。油断しちゃいけない。そう確信していると、少女はさらにおかしな事を言い出した。

「この森は女神様に守られているの。人間がやって来たら、女神様がやっつけちゃうんだ」

「………」

「君も大丈夫。そんなの向けなくたって、お話はできるよ」

「じゃあ……」

 刃は降ろさない。少女を信用していないから。けど……

「どうして俺がここにいるんだよ」

 心を許していないなら、どうしてそんな事を言ってしまったのだろう。

 少年は人間の言う通りにここに来た。人間の軍隊の訓練を受けた。自分が生き残りたいなら、仲間でも殺せと言われ、そうして同族を何人も裏切ってきた。

 その罪の全てが、少年の歩いてきた道標であり、少年が背負ってきた罪。これからまだ増えるだろう。

 それを悔いるくらいなら死ぬ。死ねないなら悔いずに生きる。誰を殺してでも。そうして、人間が教えた以上の事を覚えてきたのに、

 どうして、この時は自分の素性が知れるような言葉を少女に漏らしてしまったのだろう?

「女神なんて居ない。いや、居たとしても、そんな間抜けな神は人間が殺しちゃうんだ」

「そんなこと……ない」

「ないわけがあるか!」震えが止まらない。

「人間がこの森を抜けるのは無理よ。君はルフェだから、ここに来られたんだよ」

「森が何だっていうんだ! 道が分からないなら、あいつらは道を作るよ」

 少年は叫んだ。思い出したくもない出来事は、そうしていつまでも脳裏に焼き付いている。

 前の時はどうだった? そうしてたかをくくっていた森の一氏族は、四方からやって来る煙と火に、逃げることすら出来なかった。敗北を示されるよりも前に、彼らの多くは森ごと炭となった。

 人間は木を切り倒し、森を焼く。火を操り、そして風さえも起こしてしまう。こんな森程度が、どうして人間の侵攻を阻めるというのか?

「森が深くたって関係ないんだ。あいつらは森を焼いてでも踏み込んでくる。ルフェが何もできないのを知って……何もできない手段を選んで、それで……」

「そんなこと、森の全てが、そんなことさせません」

「だから……!」

「ルフェだけではありません。木々も、草花も、鳥も獣も、風だって」

「ぁ――――」

 最初それが何かが分からなかった。

 別の何かを聞いたような気がして、少年はようやく声を止めた。それは、驚くほどに透き通った声だった。

 憤りや怯えや、何もかもが一切混じらない、波すらも立つ事のない水面のような声。

 彼女が喋っているのだ。それは間違いないのに、少女自身も、声も、さっきまでのそれとは全く異質な何かに変わってしまっていた。

 刃を向けられているというのに、少女は涼しい笑みを浮かべていた。

 月がそうして地を見下ろすような、……自分の天空までは手の届く者など誰もいない事を知っているような、そんな余裕。全てを見通すような、ゾッとするほどの美しさ。……少女の顔が、そんな別な何かに満ちていく。

 やがて彼女は振り返り、直ぐ後ろにあった岩の上へ昇った。

 空に向けて腕を上げ、月光の降り注ぐ方へと白い指を伸ばし、そして目を閉じた。

 まるで彫像のように月の光を一身に呼吸すると、少女の白い輝きが増した。どうしてなのか、そんな気がした。

「―――アーネアスが、それを許しません」

 冷たい光、澄んだ空気のような静かな声で、彼女は言葉を続ける。

 白き肌と、赤き瞳と、澄み渡る声に、月の女神の姿が重なる。

「森に手を掛ける者には、幾千の猛獣と豊穣を砕く雨を。風を乱す者には、地を揺るがす大いなる力を。備えを為す石のその砂粒となっても、凶賊らに厄災を為すことでしょう。

 月の奇跡が、我が民と森において、罪には報いを理として―――」

 “奇跡”と呼ぶなら、疑いもしなかっただろう。

 それは少年の目の前、……白き少女の姿を為して現れていたのだ。そして、少年は確かに自らの目でそれを垣間見ていた。

 白い少女は冷たく微笑む。どこか冷酷さと、それと相反する涼しげな優しさを同居させた神秘的な雰囲気を、その表情に宿していた。

 それは、出会ってからそれまで少女が見せていたのとは別人のようだった。

「あなたは、許されてこの場所にいるのですよ。人間の手先ではなく、同胞として」

 少年の全身から冷たいものが流れ落ちたような気がした。身体が冷えていた。彼女に向けていた刃は、既に手の中に無い。

 目は少女だけを見ていた。「許されて」と、少年に言う。その人が本当に彼女だったのか、そもそも少女は本当にこの村のルフェなのか、それも分からないまま、しかしただ少女の言った言葉の一つ一つ……少年を許し、だからこそ女神が彼を守るという……その声に、少年が内に溜め過ぎていた力が、すぅと抜け落ちていくのを感じていた。


「――――ね? 君はここにいていいんだよ。きっとアーネアス様が守ってくれる」

 しかし次の瞬間には、少女は再びあの無邪気な笑顔を浮かべていた。さっきまでの光景は、夢の中の出来事だったというように。

 少年の心は既に空っぽ。もう、少女に言い返す事はできなかった。



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