第五話 仕事部屋の不審者

(あれ……?)

 ついさっきまで、ここに誰かがいたような気配が残っている。でも入り口から見る限りでは、どこにも人影は見当たらない。


(さっきといい、今といい……なんだろ。グラス一杯のワインで酔っちゃったかな)

 沙樹は腕を組み、首を傾げた。


 自分がアルコールに弱いことは自覚している。

 おまけに外は雨で、防音の施された仕事部屋でなければいやでも耳につくほどの雨量だ。

 いろいろなことが重なって神経質になっているのだろう。


 それでも万一に備え、扉付近に立ち、部屋の中をじっくり見渡す。目につく範囲に変わった物はない。

 大丈夫だ、と思って一歩足を踏み入れたときだ。


 沙樹は唐突に、部屋の奥にクローゼットがあることを思い出した。


(ま、まさか、そこにだれか隠れているの……?)


 電話でワタルの助けを呼ぼうかという考えが、脳裏を横切る。

 だが何もなかったときのことを考えると、なかなか実行に移せない。


 少し迷ったあとで意を決し、沙樹は忍び足で仕事部屋に入った。

 キーボードのそばにおいてあった卓上マイクスタンドから、音を立てないように用心してマイクを外す。そしてスタンドをできるだけ長く伸ばした。


 万が一にそなえてそれを持ち、音を立てないようにゆっくりとクローゼットに近づく。

 動悸が激しくなり、握る拳は汗ばんでいる。


 クローゼットの前に立ち、沙樹はスタンドを持つ手をふりあげた。

 そして息を吸い込み、勢いよく扉を開ける。


「あ……」


 狭い空間には荷物の入ったケースが、ところ狭しと積み重ねておかれている。どう考えても人の隠れる隙間はない。

 ふりあげた腕を下ろし、沙樹は深く呼吸をして息を整えた。


「なんか、さっきから変だよ。台風が近づいてるせいで、神経がピリピリしてんのかな?」

 ひとりごとをつぶやいたあとで、ふう、とため息をつき、沙樹は卓上マイクスタンドをもとに戻した。

 そしてあらためてぐるりと部屋を見渡す。


 仕事部屋にはギターはもちろん、シンセサイザーなどの楽器や機材がたくさんおかれている。

 コンピュータから数本ケーブルが出ているところを見ると、それらすべてが何らかの規則でつながれているにちがいない。

 ここまでくると沙樹にはお手上げだ。


 棚一面に並べられたCDは、軽く二~三千枚をこえるらしい。いや、もっとあるだろうか。

 そのうえワタルの実家には、CDや古いレコードなどを収納するために作られた専用の部屋があるそうだ。総数は沙樹にも想像がつかない。

 沙樹は軽く目を閉じ、自然な形で音楽が浸透している北島家を想像する。

 音楽好きの環境で育ったからこそ、今のワタルがあるのだろう。


「ジャズは……と、あったあった。さて、どれにしようかな……おお、コンピレーション・アルバムがあるじゃない。初心者のあたしにピッタリだ」


 目についたアルバム数枚と、ライブを見たばかりのアーティストが演奏するCDを手にし、沙樹はリビングに戻ってアンプのスイッチを入れた。


 オーディオマニアとまでは行かずとも、ワタルはかなり高級なものを集め、自分で組み合わせている。学生時代に使っていたような簡単なミニサイズのステレオとは大違いで、スイッチひとつで単純に演奏が始まるようなものではない。


「たしかCDを聴くときはここを切り替えて……」

 ディスクを入れてCDのプレイボタンを押す。ドキドキしながら待っていると、無事にスピーカーからクリアな音楽が流れてきた。

「ああ、よかった」


 沙樹はほっとして、飲みかけのグラスワインを一気に飲みほした。

「さっき録画したライブが、目に浮かんでくるみたい」


 二杯目が欲しいところだが、お酒の弱さはワタルに注意されるまでもなく、十分自覚している。

 飲みすぎて寝込んでしまい、せっかくの音楽が聴けないのは悲しい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る