第三話 結婚への小さな憧れ

 沙樹は数年前の出来事を思い出す。


 卒業と同時期にデビューが決まって、ワタルは引っ越すことになった。

 そのとき、沙樹にそれとなく同居を提案した。


 社会人になるワタルと違い、あと一年学生でいる沙樹にとって、自宅からの通学は、捨て難いものだった。


 いざとなれば家事一切は母親にやってもらえることを考えると、卒論のためにリサーチの時間がたっぷり取れるし、勉強や研究に集中できる。

 加えて、親に養ってもらっている身分で彼氏との同居は身勝手な気もして、今回は見送ることにした。


 今でこそバンドメンバーや事務所、マネージャーたちは沙樹とワタルのことを知っているが、そのころはつきあっていることをだれにも打ち明けてなかった。


 また、当時はオーバー・ザ・レインボウのバンド活動が軌道に乗りはじめたころだった。

 CMのタイアップにアニメーションの主題歌などが重なり、出す曲が次々とチャートの上位に乗り、知名度がアップしている。


 このタイミングで同居するなどというのは、目立つ行動と言えよう。

 総合的に考えて控えようというのは、ごく自然な判断だ。


 ただ、沙樹が今住んでいるワンルームが手狭なことを思うと、ここに住めなかったことを後悔してないと言えば嘘になる。

 卒業時に転がり込むことも考えたが、時すでに遅し。

 ワタルたちはスーパースターの仲間入りをしていた。


「まあ、いいか。一緒に住むのは結婚してからでも遅くはないもんね」


 と、つぶやいたとたん、沙樹の顔が火照ほてる。

 自分で何気なく口にした「結婚」という言葉を意識したのだ。


 照れ隠しの鼻歌を歌いながら、沙樹はキッチンの引き出しを開け、エプロンを取り出して着る。

 フードストッカーに入れてあるスパゲティの袋を開けて一束手にし、電子レンジで茹でるために専用のタッパーに水と塩を一緒に入れた。


 茹でている間にトマトをスライスして、食器棚から選び出した白い皿に乗せる。


 みじん切りした玉ねぎをさっと水にさらしてトマトにふりかけると、出来合いのポテトサラダを添え、フレンチドレッシングと共にテーブルに運ぶ。

 今日はひとりなので、ドレッシングもスパゲティソースも市販品だ。


 湯煎でソースが温まったころ、電子レンジに入れたスパゲティが茹で上がった。


 黒い皿に湯切りしたスパゲティを乗せて、トマトベースのソースをかける。仕上げに乾燥パセリをふりかけて彩りを良くした。

 ひとりの食事だからこそ、ちょっとした工夫を忘れたくない。


 そのとき――。


 沙樹は、背後に何かの気配を感じたような気がした。


(ん?)


 ふりむいてキッチンをすみずみまで確認したが、おかしなものは何もない。

 いつもの見なれたカウンターテーブルと、端におかれた小さなバジルの鉢植えがあるだけだ。


(変なの。誰かがいるなんてそんなことある訳ないのにな)

 単なる気のせいだと思って無視し、沙樹は料理と赤ワインをリビングに運んだ。


「これで準備完了!」

 沙樹はエプロンを外し、キッチンの灯りを消して、リビングに戻る。

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